2019年(平成31年)「京都十六社朱印めぐり」熊野神社へ
地下鉄「丸太町駅」の1番出入口から地上に出ると、そこは烏丸丸太町バス停です。そこでバスを待ちましたが、すぐに来た65系統に乗りました。ラッキーなことに65番は「岩倉操車場前」行きで、バスは東大路通りを左折し北上するみたいです。それで「熊野神社前バス停」が東大路通り沿いにあったんで・・・要するに信号を渡らずに済んだ・・・と言うことです。
そこから数歩の所にあるのが“京都十六社朱印めぐり”熊野神社です。
東大路通り沿いから来たので「東門」から境内に入りました。ここには13時1分に着きましたが、まだお昼は食べてません・・・多分・・・お昼抜きになりそうです。
門を入った直ぐの左手にあるのが「八ッ橋発祥之地 西尾為治像」です。今や京土産の定番となった八ッ橋・・・ここの北側には“西尾八ッ橋”がありました。
その先の境内の東南角には「手水舎」があったので、先客2名の後に、使わさせて貰いました。
本殿にお参りする前、境内の西南角にある末社へ。右から「金刀比羅大神、稲荷大神」、そして左に「春日大神、須賀大神、神倉神」と扁額で確認できました。
御祭神は、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、伊弉弉諾尊(いざなぎのみこと)と天照大神(あまてらすおおみのかみ)、速玉男尊(はやたまのをのみこと)、事解男尊(ことさかのをのみこと)の五柱でした。
拝殿から奥の本殿が微かに見えます。ここも同じような黄色の袋・・・“京都十六社朱印めぐり”の参拝者は平日でも多いようです。この後、「社務所」にて“朱印”はいただけました。
ここの御朱印には“八咫烏”の印を押されます。境内は大変狭いのは、1912年(大正元年)の市電丸太町線の開通及び、1926年(昭和元年)の東大路通りの拡幅などにより、社域が縮小されたことによるものです。
ここには13時7分に出て行きました。約6分しか居ませんでしたが、境内が狭いので、こんなもんでしょう。帰りは丸太町通沿いの鳥居から出て行き、東大路通りを渡って「熊野神社前バス停」でバスを待ちます。次の目的地はバス停で次ぎの次です。市バス一日乗車券を持ってなかったら歩いて行く距離ですが、直ぐに来たバスに乗りました。
【熊野神社 社務所】
そこから数歩の所にあるのが“京都十六社朱印めぐり”熊野神社です。
東大路通り沿いから来たので「東門」から境内に入りました。ここには13時1分に着きましたが、まだお昼は食べてません・・・多分・・・お昼抜きになりそうです。
門を入った直ぐの左手にあるのが「八ッ橋発祥之地 西尾為治像」です。今や京土産の定番となった八ッ橋・・・ここの北側には“西尾八ッ橋”がありました。
その先の境内の東南角には「手水舎」があったので、先客2名の後に、使わさせて貰いました。
本殿にお参りする前、境内の西南角にある末社へ。右から「金刀比羅大神、稲荷大神」、そして左に「春日大神、須賀大神、神倉神」と扁額で確認できました。
御祭神は、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、伊弉弉諾尊(いざなぎのみこと)と天照大神(あまてらすおおみのかみ)、速玉男尊(はやたまのをのみこと)、事解男尊(ことさかのをのみこと)の五柱でした。
拝殿から奥の本殿が微かに見えます。ここも同じような黄色の袋・・・“京都十六社朱印めぐり”の参拝者は平日でも多いようです。この後、「社務所」にて“朱印”はいただけました。
ここの御朱印には“八咫烏”の印を押されます。境内は大変狭いのは、1912年(大正元年)の市電丸太町線の開通及び、1926年(昭和元年)の東大路通りの拡幅などにより、社域が縮小されたことによるものです。
ここには13時7分に出て行きました。約6分しか居ませんでしたが、境内が狭いので、こんなもんでしょう。帰りは丸太町通沿いの鳥居から出て行き、東大路通りを渡って「熊野神社前バス停」でバスを待ちます。次の目的地はバス停で次ぎの次です。市バス一日乗車券を持ってなかったら歩いて行く距離ですが、直ぐに来たバスに乗りました。
【熊野神社 社務所】