伊豆旅行 修善寺の歴史を散策 源頼家・源範頼の墓へ
修禅寺を15時1分に出て、虎渓橋を渡りますが、そこから修禅寺温泉で有名な「独鈷の湯(とっこのゆ)」が見えていました。
いかにも温泉街の風景ですね。伊豆最古の温泉で、修善寺温泉街の中心を流れる、桂川河畔に湧く修善寺温泉発祥の湯です。
現在は見学のみで手や足をつけたり、入浴は不可となってるらしいです。そのまま私は橋を渡り「頼家公廟道」と書かれた参道を進みます。
雨で下が滑りやすくなってる道は、ずっと登りです。この先に、源頼家墓所があるので寄って行こうと、向かっている途中です。
最後に、少しだけ石段を登ると、そこには「源氏公園」が整備されてて、綺麗に白梅が雨に打たれながら咲いています。
最初にお参りしたのは「十三士の墓」で、15時5分に着きました。ここまで来られる方は、私らを入れて3組ぐらいでした。
北条氏との確執で、病気療養を理由に修善寺に配流された鎌倉幕府2代将軍・源頼家は、1204年(元久元年)7月18日に入浴中に暗殺されました。吾妻鏡(鎌倉時代史書)によると、この6日後、頼家の家臣らは謀反を企てましたが、挙兵以前に発覚して、相州金窪太郎行信(そうしゅうかなくぼたろうゆきちか)らに殺されたことが記されている。この墓は頼家の家臣13名の墓と伝わるもので、頼家と運命を共にしたこれら家臣の名前は分かっていない。
次が「源頼家公の墓」に向かいます。特に地図を見る必要がないほど、すぐに分かりました。
今日は、度々石段を登っています。ここもそうですね、もう一踏ん張りして上がりました。
1199年(正治元年)に父源頼朝の後を継いで18歳にて鎌倉幕府二代将軍となった源頼家は、父の没後に専横になった北条氏を押さえて幕府の基礎作りに懸命であったが、大きく揺れ動く時流と、酷い駆け引きに終始する政争に敗れ、在位わずか6年でこの修善寺に流され、1204年(元久元年)祖父・方丈時政の手で入浴中に暗殺されました。享年23歳でした。「修禅寺物語」はこうした政治的背景の上に配所の若き将軍頼家と、面作り師夜叉王を中心に、それにまつわるロマンスを綴ったものです。1704年(元禄16年)頼家の500回忌にあたって、時の修禅寺住職によって供養塔が建てられ、墓はその裏側にある2基の小さな五輪石塔がそれです。
次に北条政子が建立したと伝わる「指月殿」に向かいます・・・と言うより、お隣にありました。
ご本尊は、「木造釈迦如来座像(鎌倉時代作)」でした。無造作に安置されてるのには驚きですが、歴史を感じました。
この地で非業の死を遂げた鎌倉幕府2代将軍・源頼家の冥福を祈り、母北条政子が建立したもので、伊豆最古の木造建築と言われています。指月とは経典を意味し、禅家が愛用している不立文字を解く言葉です。建立の際、政子が寄進した宋版大蔵経は、大半が散失し僅か8巻しか残っていない。そのうち「放光般若波羅蜜多経」の第23巻が静岡県指定文化財となっています。本尊の釈迦如来坐像は、寄木造りで高さは203㌢、持ち物ないはずの釈迦像が右手に蓮の花を持っているのが特徴となっています。「指月殿」の扁額の実物は、宋の名僧一寧一山の書と言われ、修禅寺本堂に保存されています。
こちらが指月殿の「手水舎」でしょうか。先程お宿まで送ってくれたタクシー運転手さんも指月殿は勧めてくれてました。
指月殿を出たのが15時7分、再び源氏公園の中を通って、「頼家公廟道」を下って“虎渓橋”を渡りました。
また、“虎渓橋”を渡って、「独鈷の湯(とっこのゆ)」を見ながら桂川沿いを西に進みます。こちらの方向にお宿があるためですが・・・。
途中、案内を見ながら北に進んで行くと、登りになります。この先に、今日最後の目的地があるわけです。
そして15時28分に到着したのが「源範頼の墓」です。初代鎌倉幕府将軍・源頼朝の弟にあたる人物です。
私の勉強不足のため、この源範頼は知りませんでした。今日泊まるお宿の近くにあったので調べました。
源範頼(みなもとののりより)は鎌倉時代初期の武将。源義朝の第六子で蒲冠者(がまのかじゃ)と呼ばれました。1180年(治承4年)に兄頼朝と義仲が対立した時、弟義経と共に義仲を倒し、次いで“一ノ谷の合戦”で平家を破り、功によって三河守に任じられた。その後頼朝と義経の仲が険悪化し、頼朝が範頼に義経討伐を命じたが断ったため、頼朝から疑われるようになった。1193年(建久4年)の曾我兄弟仇討ちの際、頼朝討ち死にの誤報が伝えられ、悲しむ政子を「範頼あるかぎりご安心を」と慰めたため、幕府横領の疑いを招いた。範頼は百万陳弁に努めたが、ついに修禅寺に幽閉され、さらに梶原景時に攻められ、日枝神社下の信行院で自害したと伝わります。
ここには15時32分に出ました。源範頼・・・ここに来たので覚えて帰ることが出来ました。さすがに、ここまでやって来る人は皆無でした。
帰りは西側の小道から降りて来ました。ここから上がっても案内は出てまたね、迷うことはないかと思います。
今日のお宿には15時37分に帰って来ました。14時20分過ぎに出かけたので、約1時間で戻ってきました。今日は、これで宿にてゆっくりさせてもらいます。
【源頼家の墓】
【源範頼の墓】
いかにも温泉街の風景ですね。伊豆最古の温泉で、修善寺温泉街の中心を流れる、桂川河畔に湧く修善寺温泉発祥の湯です。
現在は見学のみで手や足をつけたり、入浴は不可となってるらしいです。そのまま私は橋を渡り「頼家公廟道」と書かれた参道を進みます。
雨で下が滑りやすくなってる道は、ずっと登りです。この先に、源頼家墓所があるので寄って行こうと、向かっている途中です。
最後に、少しだけ石段を登ると、そこには「源氏公園」が整備されてて、綺麗に白梅が雨に打たれながら咲いています。
最初にお参りしたのは「十三士の墓」で、15時5分に着きました。ここまで来られる方は、私らを入れて3組ぐらいでした。
北条氏との確執で、病気療養を理由に修善寺に配流された鎌倉幕府2代将軍・源頼家は、1204年(元久元年)7月18日に入浴中に暗殺されました。吾妻鏡(鎌倉時代史書)によると、この6日後、頼家の家臣らは謀反を企てましたが、挙兵以前に発覚して、相州金窪太郎行信(そうしゅうかなくぼたろうゆきちか)らに殺されたことが記されている。この墓は頼家の家臣13名の墓と伝わるもので、頼家と運命を共にしたこれら家臣の名前は分かっていない。
次が「源頼家公の墓」に向かいます。特に地図を見る必要がないほど、すぐに分かりました。
今日は、度々石段を登っています。ここもそうですね、もう一踏ん張りして上がりました。
1199年(正治元年)に父源頼朝の後を継いで18歳にて鎌倉幕府二代将軍となった源頼家は、父の没後に専横になった北条氏を押さえて幕府の基礎作りに懸命であったが、大きく揺れ動く時流と、酷い駆け引きに終始する政争に敗れ、在位わずか6年でこの修善寺に流され、1204年(元久元年)祖父・方丈時政の手で入浴中に暗殺されました。享年23歳でした。「修禅寺物語」はこうした政治的背景の上に配所の若き将軍頼家と、面作り師夜叉王を中心に、それにまつわるロマンスを綴ったものです。1704年(元禄16年)頼家の500回忌にあたって、時の修禅寺住職によって供養塔が建てられ、墓はその裏側にある2基の小さな五輪石塔がそれです。
次に北条政子が建立したと伝わる「指月殿」に向かいます・・・と言うより、お隣にありました。
ご本尊は、「木造釈迦如来座像(鎌倉時代作)」でした。無造作に安置されてるのには驚きですが、歴史を感じました。
この地で非業の死を遂げた鎌倉幕府2代将軍・源頼家の冥福を祈り、母北条政子が建立したもので、伊豆最古の木造建築と言われています。指月とは経典を意味し、禅家が愛用している不立文字を解く言葉です。建立の際、政子が寄進した宋版大蔵経は、大半が散失し僅か8巻しか残っていない。そのうち「放光般若波羅蜜多経」の第23巻が静岡県指定文化財となっています。本尊の釈迦如来坐像は、寄木造りで高さは203㌢、持ち物ないはずの釈迦像が右手に蓮の花を持っているのが特徴となっています。「指月殿」の扁額の実物は、宋の名僧一寧一山の書と言われ、修禅寺本堂に保存されています。
こちらが指月殿の「手水舎」でしょうか。先程お宿まで送ってくれたタクシー運転手さんも指月殿は勧めてくれてました。
指月殿を出たのが15時7分、再び源氏公園の中を通って、「頼家公廟道」を下って“虎渓橋”を渡りました。
また、“虎渓橋”を渡って、「独鈷の湯(とっこのゆ)」を見ながら桂川沿いを西に進みます。こちらの方向にお宿があるためですが・・・。
途中、案内を見ながら北に進んで行くと、登りになります。この先に、今日最後の目的地があるわけです。
そして15時28分に到着したのが「源範頼の墓」です。初代鎌倉幕府将軍・源頼朝の弟にあたる人物です。
私の勉強不足のため、この源範頼は知りませんでした。今日泊まるお宿の近くにあったので調べました。
源範頼(みなもとののりより)は鎌倉時代初期の武将。源義朝の第六子で蒲冠者(がまのかじゃ)と呼ばれました。1180年(治承4年)に兄頼朝と義仲が対立した時、弟義経と共に義仲を倒し、次いで“一ノ谷の合戦”で平家を破り、功によって三河守に任じられた。その後頼朝と義経の仲が険悪化し、頼朝が範頼に義経討伐を命じたが断ったため、頼朝から疑われるようになった。1193年(建久4年)の曾我兄弟仇討ちの際、頼朝討ち死にの誤報が伝えられ、悲しむ政子を「範頼あるかぎりご安心を」と慰めたため、幕府横領の疑いを招いた。範頼は百万陳弁に努めたが、ついに修禅寺に幽閉され、さらに梶原景時に攻められ、日枝神社下の信行院で自害したと伝わります。
ここには15時32分に出ました。源範頼・・・ここに来たので覚えて帰ることが出来ました。さすがに、ここまでやって来る人は皆無でした。
帰りは西側の小道から降りて来ました。ここから上がっても案内は出てまたね、迷うことはないかと思います。
今日のお宿には15時37分に帰って来ました。14時20分過ぎに出かけたので、約1時間で戻ってきました。今日は、これで宿にてゆっくりさせてもらいます。
【源頼家の墓】
【源範頼の墓】