伊豆旅行 二日目 韮山代官江川邸へ
韮山反射炉を出て、重要文化財 江川邸の駐車場に12時40分に着きました。ここでもガイドさんの話があるので所用時間は30分程度と運転手さんに事前聞いてました。
先程の韮山反射炉で、共通券を購入しているので、“券売所”ではチケットを見せると、ここのパンフレットを貰いました。
券売所を過ぎると、右手に案内があって「枡形」と書かれています。ここは韮山代官江川家の邸宅跡ですが、何だか城構えの雰囲気が・・・。
その先の「表門」をくぐります。1696年(元禄9年)の建造、三間一戸の薬医門で、重要文化財に指定されています。
正面に主屋の式台と玄関が見えています。しかし、ここからは主屋に上がれません。運転手さんの案内もと“土間”に向かいます。
その途中に「役所跡」と書かれた札が架かってましたが、今は梅林のようです。元は役人が執務した建物があったようです。
後でガイドさんに聞いた話ですが、今は銅板葺ですが、創建当時は茅葺きだったようです。
土間は、あとでゆっくり見学することにして、運転手さんに急かされて、靴を脱いで上がりました。室内には十数名の方が見学されていました。
上がると、最も奥にある「塾の間」に行きました。ここでは全国から砲術を学びに来た生徒さんの部屋だそうです。そしてガイドさんは障子を開けられ・・・。
特別に開けてもらい外を見ると、綺麗に梅が咲いています。ここに来るまでに見てきた“梅林”でしょう。
次に、ここに来たとき最初に見た式台のある「玄関」です。ここでの案内で、以外なことを知りました・・・。
ここでNHK大河ドラマ「西郷どん」のロケで使われました。西郷吉之助(鈴木亮平)と大久保正助(瑛太)が藩主・島津久光(青木崇高)に直訴するシーンを撮影されました。
島津家の屋敷だと思い見ていたら、ここ伊豆の江川邸だったわけです。他にNHK大河ドラマ「篤姫」でも使われたと聞きました。
「塾の間」から見た写真です。寒さ対策のためか、ホットカーペットが敷かれています。事実、暖かかったです。
ここは“玄関”を入った所です。ここでは“江川邸”の歴史についてガイドさんより教えてもらいました。
江川邸は、約900年、42代続く江川家の屋敷です。江川家の36代当主で、韮山代官として活躍した太郎左衛門英龍(坦庵)・・・江川家の当主は代々、太郎左衛門を名乗った・・・は、東京湾のお台場(沿岸防備のため砲台)や韮山反射炉の築造に関する提案と実行、またパンの最初の製造(パン祖)として知られています。
玄関の横は、「使者の間」です。“江川家の馬印”など展示されていました。ここはあっさり見学して次ぎへ。
「控えの間」で、ここも展示物を見ます。韮山塾において西洋砲術が教育された時に使用された鉄砲など見られます。
次に“中の口”を通って、突き当たりに「台所」があります。ただ、ここは立入が出来ませんでした。
江戸時代広大な幕府直轄地を支配した韮山代官の屋敷にふさわしい広々した台所です。
最後に、どうしても聞いて欲しい話があるとの事で、運転手さんがガイドさんに案内をお願いしてくれました。
それは“土間”まで戻ってきて、帰り支度をされてたガイドさんは、快く案内を初めてもらいました。
この主屋は、元々は茅葺きでした。今は銅板葺となっていますが、天井の屋根組を見れば何となく分かります。驚いたことに、この屋根組には釘は一本も使われてないようです。
この屋根裏の一番高い所には木箱があるそうです。この箱には日蓮聖人直筆の曼荼羅が棟札として収められていると聞きました。
その棟札の写しが土間の壁に入ってあります。日蓮聖人から火伏のお礼として贈られたもので、そのためか江川邸は火事に遭わず現在に至っています。
ここの土間は50坪の広さがあって、天井板が張られていません。北側中央には竈が、東側には“生き柱”があります。
ここには、多分ですが江戸時代に使われていたと思われる「駕籠」や、韮山反射炉の築造された「18ポンドカノン砲」(想像です)が展示されていました。
江川家の36代当主・太郎左衛門英龍(坦庵)は、日本で初めてパンを焼いた“パン祖”で知られています。この土間でパンを焼かれていたのでしょうか。
私は、ここに来て江川英龍の事を知りました。ガイドさんが強調されていたのは、本当なら教科書に載ってもおかしくな人物が載らなかったのは・・・戦後日本に駐留していたGHQの意向が働いたから・・・アメリカを攻撃するカノン砲を造った人物は、好ましくないとされたようですね。ガイドさん曰く、是非“江川英龍”の名前を覚えて帰ってください・・・と。覚えました。
急ぎ主屋を出て、あと残り超急いで見て回ります。先ずは「西蔵」(肥料蔵)から。
この蔵は“駒蔵”と呼ばれているのは正面から見られば分かるような気がします。幕末の頃に建てられたそうです。
その右奥にあるのが「南米蔵」と「北米蔵」があります。内部は展示スペースになっていますが、見る時間が無いので写真だけ撮りました。
南米蔵は、1892年(明治25年)の建造。北米蔵は1919年(大正8年)の建造。文字通り米蔵として使用されていたのでしょう。
時間が無いので近くに寄れませんでしたが「武器庫」でした。幕末に建てられたて、大砲の砲弾や小銃や弾丸など保管されていたようです。
この木は珍しく、桜の木に楓と樫の木が宿った「宿り木」で、春には桜、秋には紅葉が楽しめるみたいです。
ここ急いで写真を撮っていると、運転手さんが「裏門」に来るように招かれたので、急いで行ってみると・・・。
この裏門は1823年(文政6年)の建築で、ここから見ると富士山が見えました。少し雲に隠れ始めていますが、まだまだ綺麗に見えています。
江川邸は一方通行です。帰りは出口専用の門から出ます。ここから出ると、まて運転手さんに呼ばれ“裏門”に行ってみると・・・。
この扉には砲弾跡があるようです。まぁ・・・じっくり見れば分かりましたが・・・これでタクシー観光プランの全日程が終了しまた。
ここ江川邸を13時10分に出て行きました。ここで降ろされた途方に暮れてしまいますので、当初は三島駅まで予定してましたが、時間の都合で三嶋大社までお願いしました。
渋滞も無かったら三嶋大社には30分程度で着くそうです。車はほぼ北上し、順調に三嶋大社前に着きました。時間はちょうど13時30分、当初予定していた4時間以内に収まりました。韮山反射炉と江川邸は駆け足感は否めませんが、もう来られないかもと思うと来てみて良かったです。ここで2日間お世話になったタクシーの運転手さんと別れ、歩いて三島市内を散策します・・・新幹線の時間に間に合う限り・・・。
【韮山代官江川邸】
先程の韮山反射炉で、共通券を購入しているので、“券売所”ではチケットを見せると、ここのパンフレットを貰いました。
券売所を過ぎると、右手に案内があって「枡形」と書かれています。ここは韮山代官江川家の邸宅跡ですが、何だか城構えの雰囲気が・・・。
その先の「表門」をくぐります。1696年(元禄9年)の建造、三間一戸の薬医門で、重要文化財に指定されています。
正面に主屋の式台と玄関が見えています。しかし、ここからは主屋に上がれません。運転手さんの案内もと“土間”に向かいます。
その途中に「役所跡」と書かれた札が架かってましたが、今は梅林のようです。元は役人が執務した建物があったようです。
後でガイドさんに聞いた話ですが、今は銅板葺ですが、創建当時は茅葺きだったようです。
土間は、あとでゆっくり見学することにして、運転手さんに急かされて、靴を脱いで上がりました。室内には十数名の方が見学されていました。
上がると、最も奥にある「塾の間」に行きました。ここでは全国から砲術を学びに来た生徒さんの部屋だそうです。そしてガイドさんは障子を開けられ・・・。
特別に開けてもらい外を見ると、綺麗に梅が咲いています。ここに来るまでに見てきた“梅林”でしょう。
次に、ここに来たとき最初に見た式台のある「玄関」です。ここでの案内で、以外なことを知りました・・・。
ここでNHK大河ドラマ「西郷どん」のロケで使われました。西郷吉之助(鈴木亮平)と大久保正助(瑛太)が藩主・島津久光(青木崇高)に直訴するシーンを撮影されました。
島津家の屋敷だと思い見ていたら、ここ伊豆の江川邸だったわけです。他にNHK大河ドラマ「篤姫」でも使われたと聞きました。
「塾の間」から見た写真です。寒さ対策のためか、ホットカーペットが敷かれています。事実、暖かかったです。
ここは“玄関”を入った所です。ここでは“江川邸”の歴史についてガイドさんより教えてもらいました。
江川邸は、約900年、42代続く江川家の屋敷です。江川家の36代当主で、韮山代官として活躍した太郎左衛門英龍(坦庵)・・・江川家の当主は代々、太郎左衛門を名乗った・・・は、東京湾のお台場(沿岸防備のため砲台)や韮山反射炉の築造に関する提案と実行、またパンの最初の製造(パン祖)として知られています。
玄関の横は、「使者の間」です。“江川家の馬印”など展示されていました。ここはあっさり見学して次ぎへ。
「控えの間」で、ここも展示物を見ます。韮山塾において西洋砲術が教育された時に使用された鉄砲など見られます。
次に“中の口”を通って、突き当たりに「台所」があります。ただ、ここは立入が出来ませんでした。
江戸時代広大な幕府直轄地を支配した韮山代官の屋敷にふさわしい広々した台所です。
最後に、どうしても聞いて欲しい話があるとの事で、運転手さんがガイドさんに案内をお願いしてくれました。
それは“土間”まで戻ってきて、帰り支度をされてたガイドさんは、快く案内を初めてもらいました。
この主屋は、元々は茅葺きでした。今は銅板葺となっていますが、天井の屋根組を見れば何となく分かります。驚いたことに、この屋根組には釘は一本も使われてないようです。
この屋根裏の一番高い所には木箱があるそうです。この箱には日蓮聖人直筆の曼荼羅が棟札として収められていると聞きました。
その棟札の写しが土間の壁に入ってあります。日蓮聖人から火伏のお礼として贈られたもので、そのためか江川邸は火事に遭わず現在に至っています。
ここの土間は50坪の広さがあって、天井板が張られていません。北側中央には竈が、東側には“生き柱”があります。
ここには、多分ですが江戸時代に使われていたと思われる「駕籠」や、韮山反射炉の築造された「18ポンドカノン砲」(想像です)が展示されていました。
江川家の36代当主・太郎左衛門英龍(坦庵)は、日本で初めてパンを焼いた“パン祖”で知られています。この土間でパンを焼かれていたのでしょうか。
私は、ここに来て江川英龍の事を知りました。ガイドさんが強調されていたのは、本当なら教科書に載ってもおかしくな人物が載らなかったのは・・・戦後日本に駐留していたGHQの意向が働いたから・・・アメリカを攻撃するカノン砲を造った人物は、好ましくないとされたようですね。ガイドさん曰く、是非“江川英龍”の名前を覚えて帰ってください・・・と。覚えました。
急ぎ主屋を出て、あと残り超急いで見て回ります。先ずは「西蔵」(肥料蔵)から。
この蔵は“駒蔵”と呼ばれているのは正面から見られば分かるような気がします。幕末の頃に建てられたそうです。
その右奥にあるのが「南米蔵」と「北米蔵」があります。内部は展示スペースになっていますが、見る時間が無いので写真だけ撮りました。
南米蔵は、1892年(明治25年)の建造。北米蔵は1919年(大正8年)の建造。文字通り米蔵として使用されていたのでしょう。
時間が無いので近くに寄れませんでしたが「武器庫」でした。幕末に建てられたて、大砲の砲弾や小銃や弾丸など保管されていたようです。
この木は珍しく、桜の木に楓と樫の木が宿った「宿り木」で、春には桜、秋には紅葉が楽しめるみたいです。
ここ急いで写真を撮っていると、運転手さんが「裏門」に来るように招かれたので、急いで行ってみると・・・。
この裏門は1823年(文政6年)の建築で、ここから見ると富士山が見えました。少し雲に隠れ始めていますが、まだまだ綺麗に見えています。
江川邸は一方通行です。帰りは出口専用の門から出ます。ここから出ると、まて運転手さんに呼ばれ“裏門”に行ってみると・・・。
この扉には砲弾跡があるようです。まぁ・・・じっくり見れば分かりましたが・・・これでタクシー観光プランの全日程が終了しまた。
ここ江川邸を13時10分に出て行きました。ここで降ろされた途方に暮れてしまいますので、当初は三島駅まで予定してましたが、時間の都合で三嶋大社までお願いしました。
渋滞も無かったら三嶋大社には30分程度で着くそうです。車はほぼ北上し、順調に三嶋大社前に着きました。時間はちょうど13時30分、当初予定していた4時間以内に収まりました。韮山反射炉と江川邸は駆け足感は否めませんが、もう来られないかもと思うと来てみて良かったです。ここで2日間お世話になったタクシーの運転手さんと別れ、歩いて三島市内を散策します・・・新幹線の時間に間に合う限り・・・。
【韮山代官江川邸】