第53回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開 相国寺 慈照院へ
2月14日(木)は、昼から第53回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開 相国寺 慈照院に行きました。ここは6年振りの公開で、前回も2013年(平成25年)2月1日の昼から来てました
。
2月4日(月)の帰り、駅の構内の階段で右膝が悲鳴を上げて、激痛に耐えて何とか自宅までたどり着くことが出来ましたが、あまりの痛さに直ぐに病院に行き、調べてもらったら特に異常は無く安心しましたが痛みは引きません。そして10日もたった14日でしたが、歩けるようになりましたが、まだ痛みは残ってました。そこで相国寺には車で行き、慈照院近くのコインパーキング「くるっとパーク相国寺門前町」が空いてので止めることができました。
13時35分に6年振りに「山門」の前にやってきました。車から降りると驚くことに雪が舞っています。この日は真冬並みの寒さで、そのためいつもより右膝が痛む痛む・・・。
前回の公開では、書院「棲碧軒」(せいへきけん)や茶室「頤神室」(いしんしつ)の公開が主でした。今回は茶室の公開は無いように聞いていますので、看板にあるように寺宝の公開で主でしょう。
山門を入ると右手には、綺麗に手入れされた枯山水庭園が出迎えてくれます。この風景は覚えてましたし、そのまま正面に庫裏を見ながら進みます。
前回と違うのは、式台玄関前に「拝観受付所」が設けてあったことです。雪が舞う中、そこで京都市文化観光資源保護財団からいただいた招待券を見せて、スタンプラリーの用紙をいただいて次に進みます。
今回、既にスタンプは3個ためてます。妙心寺 龍泉菴と麟祥院、そして善想寺に行ってました。これで4個目ですが・・・多分、もう行かないと思います。
受付を済ませると、方丈に通ずる玄関から入ります。前回は、ここに受付がありました。ここの花頭窓から庭園を覗いてから靴を袋に入れ、「客殿(本堂)」に上がります。
上がると、直ぐに案内が始まるようで、最初の部屋に入るように急かされます。6年振りの訪問のため庭は覚えてましたが堂内の記憶は殆どありません。最初の部屋の中央には「在中和尚像」が、右には室町幕府八代将軍「足利義政像」が、左には「本源国師像」が安置されてました。
相国寺塔頭 慈照院は、相国寺第十三世在中中淹(ざいちゅうちゅうえん)禅師が創建し、禅師死後のお墓を守る塔所として、大徳院(だいとくいん)と称しました。それから数十年後、室町幕府八代将軍・足利義政が亡くなり義政公の菩提所として、この寺が選ばれ寺名も、大徳院から義政公の戒名から慈照院と称するようになりました。そして相国寺十七世本源国師(ほんげんこくし)が桂離京で知られる、桂宮智仁(としひと)親王や智忠(としただ)親王と親交があったことから桂宮家の菩提所となりました。
次に、真ん中の部屋に移動します。見たところ“仏間”のようで、ここでもガイドさんが案内してくれました。
この客殿(本堂)は、桂宮家初代・桂宮智仁)親王の三男・広幡忠幸卿が一時尾張藩初代藩主・徳川義直公の養子となった縁で、尾州総檜材を用いて1671年(寛文11年)に建てられたものを1763年(宝暦13年)に寄進されました。正面中央にはご本尊の十一面観音像、脇侍に不動明王像(左)と毘沙門天像(右)が、またご本尊の左には、初代桂宮家代々の位牌と桂宮家とゆかりの深い広幡家の位牌が祀られていました。
最後は庭園の案内です。左に舟をかたどった「陸船松」があって樹齢は300年以上もあるとか。右には滝石組があって、枯山水庭園となっています。本来は比叡山を借景にしていますが、今は比叡山は見えないですね。
次に屏風の案内に移ります。写真が撮れないので看板から切り取りしました。狩野派の絵師が描いた「帝鑑図屏風図」です。尭王の善政を描いた“任賢図治”など中国歴代の皇帝にまつわる故事が描かれています。
客殿(本堂)での案内が終わると、奥に進み次に書院の「棲碧軒(せいへきけん)」に入ります。
前回は、棲碧軒(せいへきけん)から、庭に降り茶室「頤神室(いしんしつ)」の公開がありましたが、今回は無かったですね。
書院「棲碧軒」は、1629年(寛永6年)に桂宮の学問所として建てられ、のちに下賜されたもので、腰高障子や格子の欄間など桂離宮「古書院」と同じ技法で造られたました。
写真は、前回の看板に使用されたものです。朝鮮との外交のため対馬に置かれた役所に、京都五山に列せられた僧侶が派遣されてました。その通信使から贈られた屏風などが展示されていました。
次に“収蔵庫”に向かいますが、その前にトレイを利用しました。そしたら、ここにも小さな“坪庭”と“手水鉢”がありました。
前回は「収蔵庫」の公開は無かったです。セラミック製で造られたとガイドさんから聞きました内部に入ってみると・・・。
2017年(平成29年)に「朝鮮通信使に関する記録」がユネスコ世界記憶遺産に登録されたことから、慈照院の僧に通信使が贈った巻物「韓客詞章(かんきゃくししょう)」の展示がありました。
収蔵庫の中でも、ガイドさんが丁寧に説明してくれました。ただ私には、あまり興味が無かったので、あまり記憶に残っていません
。
今回、茶室「頤神室(いしんしつ)」の公開はありませんでした。内部には、千利休の孫にあたる宗旦に化けて見事な点前を披露したという狐の伝説を伝える「宗旦狐」の掛け軸が架かっていました。
久し振りに相国寺 慈照院の来てみて、忘れてたことも多かったので来てみて良かったです。雪が舞う寒い日でしたが・・・。
平日の午後、そして雪が舞う寒い日・・・そして、何より団体さんと出会さなかったことが良かったです。帰りは誰も来られなかったです。前庭も綺麗に撮れました。
山門の向かいには「桂宮東ノ墓地」と書かれており、宮内庁が管理されています。第106代・正親天皇孫智仁親王墓以下七墓があるようですね。
また、その西側には「桂宮西ノ墓地」第112代・霊元天皇皇子文仁天皇以下八墓と書かれていました。
ここからコインパーキングに戻り精算してみると、13時31分~14時6分の利用で、所要時間は35分、料金は200円でした。膝を怪我したため、ここから数分で行ける俵屋吉富「京菓子資料館」で一服は、次の機会に行きたいと思います。この日は、ここだけで帰りました。
【相国寺 慈照院 書院「棲碧軒」】


2月4日(月)の帰り、駅の構内の階段で右膝が悲鳴を上げて、激痛に耐えて何とか自宅までたどり着くことが出来ましたが、あまりの痛さに直ぐに病院に行き、調べてもらったら特に異常は無く安心しましたが痛みは引きません。そして10日もたった14日でしたが、歩けるようになりましたが、まだ痛みは残ってました。そこで相国寺には車で行き、慈照院近くのコインパーキング「くるっとパーク相国寺門前町」が空いてので止めることができました。
13時35分に6年振りに「山門」の前にやってきました。車から降りると驚くことに雪が舞っています。この日は真冬並みの寒さで、そのためいつもより右膝が痛む痛む・・・。
前回の公開では、書院「棲碧軒」(せいへきけん)や茶室「頤神室」(いしんしつ)の公開が主でした。今回は茶室の公開は無いように聞いていますので、看板にあるように寺宝の公開で主でしょう。
山門を入ると右手には、綺麗に手入れされた枯山水庭園が出迎えてくれます。この風景は覚えてましたし、そのまま正面に庫裏を見ながら進みます。
前回と違うのは、式台玄関前に「拝観受付所」が設けてあったことです。雪が舞う中、そこで京都市文化観光資源保護財団からいただいた招待券を見せて、スタンプラリーの用紙をいただいて次に進みます。
今回、既にスタンプは3個ためてます。妙心寺 龍泉菴と麟祥院、そして善想寺に行ってました。これで4個目ですが・・・多分、もう行かないと思います。
受付を済ませると、方丈に通ずる玄関から入ります。前回は、ここに受付がありました。ここの花頭窓から庭園を覗いてから靴を袋に入れ、「客殿(本堂)」に上がります。
上がると、直ぐに案内が始まるようで、最初の部屋に入るように急かされます。6年振りの訪問のため庭は覚えてましたが堂内の記憶は殆どありません。最初の部屋の中央には「在中和尚像」が、右には室町幕府八代将軍「足利義政像」が、左には「本源国師像」が安置されてました。
相国寺塔頭 慈照院は、相国寺第十三世在中中淹(ざいちゅうちゅうえん)禅師が創建し、禅師死後のお墓を守る塔所として、大徳院(だいとくいん)と称しました。それから数十年後、室町幕府八代将軍・足利義政が亡くなり義政公の菩提所として、この寺が選ばれ寺名も、大徳院から義政公の戒名から慈照院と称するようになりました。そして相国寺十七世本源国師(ほんげんこくし)が桂離京で知られる、桂宮智仁(としひと)親王や智忠(としただ)親王と親交があったことから桂宮家の菩提所となりました。
次に、真ん中の部屋に移動します。見たところ“仏間”のようで、ここでもガイドさんが案内してくれました。
この客殿(本堂)は、桂宮家初代・桂宮智仁)親王の三男・広幡忠幸卿が一時尾張藩初代藩主・徳川義直公の養子となった縁で、尾州総檜材を用いて1671年(寛文11年)に建てられたものを1763年(宝暦13年)に寄進されました。正面中央にはご本尊の十一面観音像、脇侍に不動明王像(左)と毘沙門天像(右)が、またご本尊の左には、初代桂宮家代々の位牌と桂宮家とゆかりの深い広幡家の位牌が祀られていました。
最後は庭園の案内です。左に舟をかたどった「陸船松」があって樹齢は300年以上もあるとか。右には滝石組があって、枯山水庭園となっています。本来は比叡山を借景にしていますが、今は比叡山は見えないですね。
次に屏風の案内に移ります。写真が撮れないので看板から切り取りしました。狩野派の絵師が描いた「帝鑑図屏風図」です。尭王の善政を描いた“任賢図治”など中国歴代の皇帝にまつわる故事が描かれています。
客殿(本堂)での案内が終わると、奥に進み次に書院の「棲碧軒(せいへきけん)」に入ります。
前回は、棲碧軒(せいへきけん)から、庭に降り茶室「頤神室(いしんしつ)」の公開がありましたが、今回は無かったですね。
書院「棲碧軒」は、1629年(寛永6年)に桂宮の学問所として建てられ、のちに下賜されたもので、腰高障子や格子の欄間など桂離宮「古書院」と同じ技法で造られたました。
写真は、前回の看板に使用されたものです。朝鮮との外交のため対馬に置かれた役所に、京都五山に列せられた僧侶が派遣されてました。その通信使から贈られた屏風などが展示されていました。
次に“収蔵庫”に向かいますが、その前にトレイを利用しました。そしたら、ここにも小さな“坪庭”と“手水鉢”がありました。
前回は「収蔵庫」の公開は無かったです。セラミック製で造られたとガイドさんから聞きました内部に入ってみると・・・。
2017年(平成29年)に「朝鮮通信使に関する記録」がユネスコ世界記憶遺産に登録されたことから、慈照院の僧に通信使が贈った巻物「韓客詞章(かんきゃくししょう)」の展示がありました。
収蔵庫の中でも、ガイドさんが丁寧に説明してくれました。ただ私には、あまり興味が無かったので、あまり記憶に残っていません

今回、茶室「頤神室(いしんしつ)」の公開はありませんでした。内部には、千利休の孫にあたる宗旦に化けて見事な点前を披露したという狐の伝説を伝える「宗旦狐」の掛け軸が架かっていました。
久し振りに相国寺 慈照院の来てみて、忘れてたことも多かったので来てみて良かったです。雪が舞う寒い日でしたが・・・。
平日の午後、そして雪が舞う寒い日・・・そして、何より団体さんと出会さなかったことが良かったです。帰りは誰も来られなかったです。前庭も綺麗に撮れました。
山門の向かいには「桂宮東ノ墓地」と書かれており、宮内庁が管理されています。第106代・正親天皇孫智仁親王墓以下七墓があるようですね。
また、その西側には「桂宮西ノ墓地」第112代・霊元天皇皇子文仁天皇以下八墓と書かれていました。
ここからコインパーキングに戻り精算してみると、13時31分~14時6分の利用で、所要時間は35分、料金は200円でした。膝を怪我したため、ここから数分で行ける俵屋吉富「京菓子資料館」で一服は、次の機会に行きたいと思います。この日は、ここだけで帰りました。
【相国寺 慈照院 書院「棲碧軒」】