北条氏が小田原防備の要とした、日本100名城の山中城へ
三島駅北口を10時に出て、最初の目的地である山中城に早速向かってくれました。途中、“錦田一里塚”を車窓から運転手さんの案内で見てから山中城に向かってくれましたが、嫌なことにフロントガラスに雨粒がついてきました。富士山は、この空模様だし諦めてましたが、まさか雨が降ってくるとは・・・天気予報大外れですね、こんな大事な日に・・・
。
タクシーは駐車場に止められたので、運転手さんにお願いして傘を借りました。普段は折りたたみの傘はいつも持参していますが、荷物が重いので、この旅行では持ってきてませんでした。
傘をさして、道路を横断し先ずは「三の丸堀」を左手に見ながら奥に進んで行きます。
三の丸の曲輪の西側を出丸まで南北に走るのが、この“三の丸堀”で、大切な防御のための役割があります。この堀の長さは約180㍍、最大幅は約30㍍、深さは約8㍍もあります。
次に見るのが「田尻の池」です。私らは傘を借りてさしていますが、ここに来られている殆どの人は雨に濡れてて・・・気の毒でしたね。
この東側にある“箱井戸”と“田尻の池”は、築城当時は湿地帯でしたが、盛土(土塁)によって区切られたものです。山城では、水を貯える施設が生命線であることから、この池も貴重な溜池の一つと考えられます。
ここで「西の丸跡」と「二の丸跡」の案内が出ていますが、私は“二の丸”から“西の丸”に行くことにしました。運転手さんには「西の丸まで行ってきます」と言い、ここからは単独行動です
。
前途したとおり、右膝を怪我してしまい普通に歩くのも痛かったんですが、大好きな城に来て、痛み止めの薬も飲んできてますが痛みを忘れさせてくれました
。
この山中城の見所は、何と言っても“障子堀”でしょう。私も、これを見に来ました。この橋から最初の障子堀を見ることが出来ました
。
橋を渡った先にある柵に囲まれた小さな曲輪・・・当初は名前の無かった曲輪だったようです。調査結果「元西櫓」と命名されました。
西の丸と二の丸の間に位置し、周囲を深い空堀で囲まれています。曲輪内は掘った土を1㍍ほど盛土し、平らに整地されたのは、曲輪内に溜まった雨水などを排水したり、霜による地下水の上昇を抑えたりと考えられています。
次に“元西櫓”を回り込んで、階段を上がると、広々とした「西の丸」に出ました。ここにも案内版があるので読んでみると・・・。
西の丸は、広大な曲輪で、山中城の西方防御の拠点で、曲輪は全体に東へ傾斜してて、東側にある溜池には連絡用通路を排水口として、雨水などが集められるしくみになっています。
西の丸には建物跡は確認されなかったようです。前面発掘でも分からなかったようで、臨時の小屋程度のものはあったかも知れません。
この山中城では、どの曲輪でも「土塁」で囲まれています。戦国時代の城は全て堀と土塁が築城のポイントでした。
“西の丸”の西端まで行くと、少し小高い所があったので、興味があるので登ってみとる「西の丸見張台」がありました。
ここは下から盛土によって構築されました。標高は580㍍で、本丸の矢立の杉をはじめ、諸曲輪が眼下に入り、連絡・通報上の重要な拠点であったことが推定される。
“西の丸見張台”から見た“障子堀”です。前途したとおり、ここには天守閣や石垣も無いので、見所は見事な障子堀でしょう。
“西の丸”を出て、山中城の西端にある“西櫓”を目指します。そしたら右手に「障子堀」が綺麗に見えます。
この「西櫓堀」は、ほぼ9㍍間隔に八本の畝が、堀の方向に対して直角に造られています。畝はローム層を台形に掘り出して造られたものです。
高さは堀の底から2㍍もあって、約400年前には滑りやすいローム層が露出してしたことから、人が落ちれば脱出は不可能であったと推定されます。
この日は、天気予報が大外れで、晴れの予報が雨降りとなりました。そのため、楽しみにしていた富士山は裾野すら見えません。多分、晴れたら見えたであろうと思う所から写真を撮ってみました。
西櫓跡から見た山中城の全景です。ご覧のように雨降りで標高も高いので寒いです・・・が、予報では、このあと気温は上がると出てましたが・・・。
「障子堀」とは、堀の中を区画するように畝を堀残す、という独特の堀が掘られていることです。そして、次に「西櫓」に上がってみます。
こちらは「角馬出(かくうまだし)」と呼ばれ、戦国時代の城では、二つの虎口と、一つの広場が組み合わされたものを特に“馬出”と呼んでいました。
こちらは発掘調査の結果わかった「堀立柱建物跡」で、鉄砲や弓矢などを立て掛ける施設だと思われています。
ここから“二の丸”や“本丸”に向かうコースもあります。当初は行く予定にしてましたが、雨降りと時間も無いことから断念し、駐車場に戻ることにしました。
こちらに見える堀は「元西櫓の堀」と呼ばれ、城の内部に敵が侵入するのを防ぐため、人工的に土地を深く掘り下げたものです。
膝の痛みも忘れ、夢中になって見学し、運転手さんがお待ちの駐車場まで戻ってきました。ここで車に乗り込んで・・・と言う訳にはいきません。
山中城は、「日本100名城」に指定されています。そこで、ここではスタンプを押さずに帰る訳には行きません。
スタンプは、駐車場にある「山中城売店」にあって、営業中なら店の中で押すことができます。
これで41個目をゲット
今回、この旅行の目的はほぼ達成したようなものです
。
山中城は、戦国時代末期に関東の覇者、北条氏が西方の防備の要塞として箱根外輪山の西側斜面に築いた山城です。しかし天下統一を目指す豊臣秀吉は7万人の大軍でわずか4千人の兵が守る山中城を一気に陥落させました。
山中城には、当初40分程度の見学時間を見ていましたが、実際には11時6分に出ていったので、約20分ぐらいだったでしょうか雨降りに勝てないですね。車は次にリクエストしていた目的に向かって出発しました。
【山中城 売店】


タクシーは駐車場に止められたので、運転手さんにお願いして傘を借りました。普段は折りたたみの傘はいつも持参していますが、荷物が重いので、この旅行では持ってきてませんでした。
傘をさして、道路を横断し先ずは「三の丸堀」を左手に見ながら奥に進んで行きます。
三の丸の曲輪の西側を出丸まで南北に走るのが、この“三の丸堀”で、大切な防御のための役割があります。この堀の長さは約180㍍、最大幅は約30㍍、深さは約8㍍もあります。
次に見るのが「田尻の池」です。私らは傘を借りてさしていますが、ここに来られている殆どの人は雨に濡れてて・・・気の毒でしたね。
この東側にある“箱井戸”と“田尻の池”は、築城当時は湿地帯でしたが、盛土(土塁)によって区切られたものです。山城では、水を貯える施設が生命線であることから、この池も貴重な溜池の一つと考えられます。
ここで「西の丸跡」と「二の丸跡」の案内が出ていますが、私は“二の丸”から“西の丸”に行くことにしました。運転手さんには「西の丸まで行ってきます」と言い、ここからは単独行動です

前途したとおり、右膝を怪我してしまい普通に歩くのも痛かったんですが、大好きな城に来て、痛み止めの薬も飲んできてますが痛みを忘れさせてくれました

この山中城の見所は、何と言っても“障子堀”でしょう。私も、これを見に来ました。この橋から最初の障子堀を見ることが出来ました

橋を渡った先にある柵に囲まれた小さな曲輪・・・当初は名前の無かった曲輪だったようです。調査結果「元西櫓」と命名されました。
西の丸と二の丸の間に位置し、周囲を深い空堀で囲まれています。曲輪内は掘った土を1㍍ほど盛土し、平らに整地されたのは、曲輪内に溜まった雨水などを排水したり、霜による地下水の上昇を抑えたりと考えられています。
次に“元西櫓”を回り込んで、階段を上がると、広々とした「西の丸」に出ました。ここにも案内版があるので読んでみると・・・。
西の丸は、広大な曲輪で、山中城の西方防御の拠点で、曲輪は全体に東へ傾斜してて、東側にある溜池には連絡用通路を排水口として、雨水などが集められるしくみになっています。
西の丸には建物跡は確認されなかったようです。前面発掘でも分からなかったようで、臨時の小屋程度のものはあったかも知れません。
この山中城では、どの曲輪でも「土塁」で囲まれています。戦国時代の城は全て堀と土塁が築城のポイントでした。
“西の丸”の西端まで行くと、少し小高い所があったので、興味があるので登ってみとる「西の丸見張台」がありました。
ここは下から盛土によって構築されました。標高は580㍍で、本丸の矢立の杉をはじめ、諸曲輪が眼下に入り、連絡・通報上の重要な拠点であったことが推定される。
“西の丸見張台”から見た“障子堀”です。前途したとおり、ここには天守閣や石垣も無いので、見所は見事な障子堀でしょう。
“西の丸”を出て、山中城の西端にある“西櫓”を目指します。そしたら右手に「障子堀」が綺麗に見えます。
この「西櫓堀」は、ほぼ9㍍間隔に八本の畝が、堀の方向に対して直角に造られています。畝はローム層を台形に掘り出して造られたものです。
高さは堀の底から2㍍もあって、約400年前には滑りやすいローム層が露出してしたことから、人が落ちれば脱出は不可能であったと推定されます。
この日は、天気予報が大外れで、晴れの予報が雨降りとなりました。そのため、楽しみにしていた富士山は裾野すら見えません。多分、晴れたら見えたであろうと思う所から写真を撮ってみました。
西櫓跡から見た山中城の全景です。ご覧のように雨降りで標高も高いので寒いです・・・が、予報では、このあと気温は上がると出てましたが・・・。
「障子堀」とは、堀の中を区画するように畝を堀残す、という独特の堀が掘られていることです。そして、次に「西櫓」に上がってみます。
こちらは「角馬出(かくうまだし)」と呼ばれ、戦国時代の城では、二つの虎口と、一つの広場が組み合わされたものを特に“馬出”と呼んでいました。
こちらは発掘調査の結果わかった「堀立柱建物跡」で、鉄砲や弓矢などを立て掛ける施設だと思われています。
ここから“二の丸”や“本丸”に向かうコースもあります。当初は行く予定にしてましたが、雨降りと時間も無いことから断念し、駐車場に戻ることにしました。
こちらに見える堀は「元西櫓の堀」と呼ばれ、城の内部に敵が侵入するのを防ぐため、人工的に土地を深く掘り下げたものです。
膝の痛みも忘れ、夢中になって見学し、運転手さんがお待ちの駐車場まで戻ってきました。ここで車に乗り込んで・・・と言う訳にはいきません。
山中城は、「日本100名城」に指定されています。そこで、ここではスタンプを押さずに帰る訳には行きません。
スタンプは、駐車場にある「山中城売店」にあって、営業中なら店の中で押すことができます。
これで41個目をゲット


山中城は、戦国時代末期に関東の覇者、北条氏が西方の防備の要塞として箱根外輪山の西側斜面に築いた山城です。しかし天下統一を目指す豊臣秀吉は7万人の大軍でわずか4千人の兵が守る山中城を一気に陥落させました。
山中城には、当初40分程度の見学時間を見ていましたが、実際には11時6分に出ていったので、約20分ぐらいだったでしょうか雨降りに勝てないですね。車は次にリクエストしていた目的に向かって出発しました。
【山中城 売店】