令和元年度「春期京都非公開文化財特別公開」安祥寺へ

5月10日(金)は、「奉祝 天皇陛下御即位 春季京都非公開文化財 特別拝観」の最終日でした・・・と言っても、殆どの寺院は6日(月・祝)に終わりましたが、一部はこの日まで残っていたので、最終日のこの日に訪問することを決めていた寺院に行きました。

訪れたのは京都市山科区にある安祥寺で、今回初公開されました。この安祥寺は絶対に行きたかったので、4月26日(金)に蹴上から大津まで、疎水船に乗船し、帰りに浜大津から山科下車で行く予定にしてましたが、浜大津から1時間に1本の太秦天神川行きが来たので、山科をスルーして家まで帰ってしまった時から、この日の訪問が決まった次第です。

私は1989年(平成元年)から1995年(平成7年)まで滋賀県大津市に通ってました。JR京都駅から一駅の山科駅は通過で、山科で下車した記憶は殆どありません。その山科駅に8時39分に着き、直ぐに東に進み直ぐの地下道に入ります。そして東海道線の北側を西に進み、最初の道を北に曲がると、そこからは若干の登り坂となります。膝を怪我している私には堪える坂道を登ると前方に疎水が見えて来ました。

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4月26日(金)には、疎水船に乗って、下から見上げた橋を渡ります。あの時、疎水船のガイドさんが案内してくれた安祥寺にやって来ました。

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8時53分に着きました。普通なら約10分で着くでしょう、足を痛めているので、これで精一杯です。見たところ3番目でした。

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この安祥寺には山門や表門はありません。金網に鍵が掛かっていますが、ここでは時間まで開けられませんでした。

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時間が来たら鉄扉を開けられましたが、その先の左手に「拝観受付所」があって、拝観料800円を納めます。

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受付は3番目でしたが、先の方は観音堂(本堂)に向かわれましたが、私は拝観受付所の向かいにある門をくぐります。

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寺務所の門には「御朱印(納経所)」と書かれた張り紙があって、この先の混雑を考え先に朱印帳を預けることを選択しました。

入ると、書き置きの御朱印もありましたが、この日は、藤田瞬央(しゅんおう)住職がご在宅のため、朱印帳に書いていただけるとの事で、先に預けることが出来ました。ご不在の場合は、書き置きになったでしょうし良かったです。ご住職は、5月1日・・・平成から令和に元号が変わったその日に、朝日放送「おはようコールABC」のコーナーで出演されたのを覚えてました。

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朱印帳を預けている間に、皆さん観音堂(本堂)に向かわれ、十数名の方が先に行かれていまいました。

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痛む膝に登りは堪えましたが、頑張って「観音堂(本堂)」までやってくると、皆さん堂内に入られるので、その隙に誰も居ない写真が撮れました。この建物は、江戸時代後期の1817年(文化14年)に再建されたものです。

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お堂には靴を脱いで袋に入れてから上がります。上がった頃には既に案内が始まっており、堂内には20数名の方が座って、話を聞かれてました。

安祥寺は、吉祥山寶塔院安祥寺といい、高野山真言宗に属しています。都を平安京に移した約50年度の、848年(嘉祥元年)に第54代・仁明天皇(にんみょうてんのう)の皇后である藤原順子(ふじわらののぶこ)の発願により、弘法大師空海の孫弟子である入唐僧恵運(えうん)を開山として創建されました。第55代・文徳天皇の生母でもある藤原順子が発願したこともあって、創建当時の寺領は現在の山科駅北方一帯を誇る大伽藍を要しますが、平安時代の末期には次第に衰退していき、室町時代の応仁の乱で多くの伽藍が焼失してしまいす。江戸時代に入り、江戸幕府初代将軍・徳川家康に深い帰依を受けていた当時の住職の訴えにより寺領が回復。その後、江戸時代中後期になり、観音堂・地蔵堂・太師堂が次々に再建され現在に至っています。

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次に、ご本尊の十一面観音立像の話に移ります。私は、このご本尊を見たいから来たようなもんです。話が終わると間近まで行きお参りさせてもらいました。

十一面観音立像は、高さが252㌢、土台や光背を含めると311㌢もあります。頭部には十一面のお顔を持っておられ、全方向に苦しんでる人を救済される意味があると言われています。榧とみられる一木造りで、奈良時代後半に造られたと考えられ、国の重要文化財に指定されています。土台や冠、光背、像全体の塗られている漆や金箔は、中世以降の修復時のものと考えられています。また、左足が少しだけ前に出ているのお姿は、苦しんでる人を見つけ直ぐにでも歩んで行ける意味合いが込められているそうです。また左手には水瓶(すいびょう)を持たれ、その中には清めの水が入っているとされてます。15年ほど前に京都大学大学院を中心に調査され、奈良時代にさかのぼる大変貴重な仏様であることが分かりました。創建以来、1300年の時をかけ初めての公開でした。

やっぱり良いですね、皆さん話が終わるやいなや十一面観音立像の前に集まります。私も、前から横からじっくりと拝見させてもらいました。次に案内は、堂内の左右に安置されている四天王の話に移りました。

堂内の左側には、広目天と増長天が祀られていますが、増長天は江戸時代後半の1848年(嘉永元年)に造られたものです。堂内の右側には、持国天と多聞天が祀られていますが、増長天以外は、一木造りで平安時代に造られたことが分かっています。

想像を遙かに超えた素晴らしい仏様でした。この日が公開最終日でしたが、膝の痛みをおして来て見て良かったです。私は、最初の案内が途中からでしたので、2度聞かさせてもらいました

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次に境内の東側、観音堂(本堂)の右側にある、地蔵堂に向かいます。案内は、四天王のあと、もう一つありましたが、それは後程・・・

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こちらは、1906年(明治39年)に火災により焼失してしまった「多宝塔」の跡です。現在は石基壇跡が残されてるだけとなっています。

かつて、多宝塔内に安置されていた、平安時代の木造最古の木造五智如来坐像は、現在は京都国立博物館に寄託されています。今年令和の時代に国宝に指定されました。

現在は、京都国立博物館に寄託されているので、見る機会は少ないでしょうね、そして朝日が眩しい「地蔵堂」に着きました。

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ここには4名から5名が来られてました。写真は先に観音堂の前に撮ったので大丈夫です。前にガイドさんが居たので案内をお願いしました。ここでは希望しないと、案内は無いそうです。

地蔵堂は、江戸時代中期の1772年(明和9年)に建てられたもので、堂内中央には鎌倉時代に造られた、地蔵菩薩坐像が祀られています。また、天井には創建当時のまま残されている花天井も見られました。

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案内が無かったら花天井には気がつかなかったです。一度内部を覗いて、話を聞いてから、もう一度花天井を見に行きました。

次に、案内が最後の「太師堂」に向かいます。ここから南に下がった所にありました。

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ここも内部は入れません。外から覗くと、五体の仏像が安置されてました。ここにの天井には何も無かったです。そして、ここでもガイドさんが案内をしてくれます。

1773年(安永2年)に再建された建物で、元々は開山堂と言われてました。内部の仏像は、左から興雅(こうが)上人、開山恵運、中央が弘法大師、宗意(そうい)上人、宥快(ゆうかい)上人で、恵運像と宗意像は、一木造りで平安時代の作と伝わります。他は江戸時代の作だそうです。

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太師堂をあとにすると、右手に池の水はありませんが「辨天社」がありました。朱印帳が気になるので寄りませんでしたが・・・。

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9時34分頃に寺務所に戻って来ました。戻ると3名の方が並ばれています。その中をすり抜け、置いてある私の朱印帳を受取出て行きました。

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寺務所の向かいにあったのが鐘楼です。案内文によると宝暦年間(17511年から1764年)の再建だそうです。

洪鐘(こうしょう)」(京都府指定文化財)播州渡邊安雲寺の鐘で、1306年(嘉元4年)に造られたものです。豊臣秀吉朝鮮出兵の際、陣鐘として差し出されものが誤って安雲寺の鐘が当寺に返送されたものだそうです。

今年の「春季京都非公開文化財 特別公開」は、期間の途中に元号が変わることもあって、サブタイトルが“奉祝 天皇陛下御即位”とありました。私は「聖護院門跡+積善院」「慈受院」「安祥寺」と回りました。長楽寺も行く予定にしてましたが、こちらは独自に6月16日(日)まで公開されているので、連休中に無理して行くことは止めました。安祥寺は、やっぱり良かったですね、ここから少しばかり疎水沿いを散策して帰ります。

【安祥寺】



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