戦没者の御霊を祀る靖國神社へ
東京メトロ「飯田駅」から、東西線にのって次の「九段下駅」で降りました。ここの“出口は1番”です。ここもホームを相当歩きました。そして出口から直ぐに見えて来たのが靖國神社です。
通り名は知りませんが、地下鉄の出口を出たら大きな鳥居が見えてきました。そして信号待ちをしている間に撮った一枚です。このとき14時24分になってました。
信号を渡ると、第一鳥居の巨大さに先ずは驚きです。鳥居の右手にある社標は、1894年(明治27年)に建てられました。
事前に調べてて、参道が広くて長いのは知ってましたが・・・それにしても本殿までが遠い・・・です。
参道の途中には「大村益次郎銅像」が。西洋兵学の研究・兵制改革などで活躍し、日本陸軍の父と知られています。
次に「第二鳥居」までやって来ました。高さ15㍍もある青銅製では日本一を誇り、1887年(明治29年)に完成した神明鳥居です。
第二鳥居の手前にある「大手水舎」で、1940年(昭和15年)に奉納されたものです。
ここに来るまで、お隣の駐車場には観光バスも数台止まっています。多くの団体さんが来られているのでしょう、ここから先を見ると参拝者の多さが分かります。
手水舎を使った先に、巨大な「神門」があります。その設計者が伊東忠太と聞いて驚きです。
やっと今日のゴールが見えて来ました。「中門鳥居」の材料は、樹齢500年のヒノキを秩父三峯神社から提供されました。
中門鳥居をくぐって、「拝殿」に上がり参拝しました。1901年(明治34年)の建立です。
靖國神社は、1869年(明治2年)第122代・明治天皇により、建てられた東京招魂社にはじまり、1879年(明治12年)に「靖國神社」と改称となり今日に至っています。御祭神は、国家のために一命を捧げられた英霊です。英霊には軍人だけではなく、軍属、文官、民間、さらに幕末の志士までまさしく等しく祀られています。
日本人として、一度は参拝したかった靖国神社。英霊に感謝し、国家の平安と世界平和を祈念してきました。今日、平和な日々の暮らしは、戦没者の方々の尊い犠牲の上に、現在の日本が あることを忘れることは出来ません。やっと参拝できたことを心から安堵し、これで京都に帰れます。
参拝したら次に「社務所」に寄って、御朱印をいただきました。できあがりに少し待ちましたが、そう度々東京には来られないので、いただけて良かったです。
御朱印を待っているあいだに撮った「拝殿」です。どうしても“本殿”は見られなかったです。
御朱印のあと、ここの奥にある“神苑庭園”を見ようと思い奥に進むと「遊就館(ゆうしゅうかん)」があったので寄りました。見ると拝観料1000円とありますが、1階は無料と書いてあったので安心して入れます。
「三菱零式艦上戦闘機五二型(A6M5)」ゼロ戦の愛称で親しまれる。初陣は1940年(昭和15年)9月、中国の重慶においてソ連製中国機との空中戦で空前の成果をあげた。
「蒸気機関車C5631号」は1979年(昭和54年)に靖國神社に奉納。戦時中はタイ~ビルマ(現ミャンマー)間に建設されたされた「泰緬鉄道」を走った90両のC56機関車のうちの31号機が日本の帰還し、ここに展示されています。
向かって左が「九六式十五糎榴弾砲」、右が「八九式十五糎加農砲」と案内に書いてありました。
上から「零式艦上戦闘機の座席」。下は「零式艦上戦闘機二二型搭載 九九式二十粍機」です。
拝観料1000円と割高と感じたからではありませんが、時間が無かったのではいりません。それでも奥にあるミュージアムの売店で、舞鶴でも買った“海軍カレー”だけ買って帰りました。これで遊就館を出て庭園に向かおうとすると・・・。
「特攻勇士の像」があって、特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会が奉納されたました。“特攻勇士を讃える碑”があるので是非、読んで欲しいものです。
「青銅八十ポンド陸用加農砲」。1854年(安政元年)の鋳造、品川お台場に据付けられたものです。
「青銅百五十ポンド陸用加農砲」。1849年(嘉永2年)鋳造、天保山砲台に据付けられたものです。
極東国際軍事裁判(東京裁判)において、唯一の国際法を専門とする裁判官として、同裁判の違法性と全被告を無罪を主張したインドのバール博士を顕彰する碑がありました。
「母の像」戦争で夫を失も、遺児を立派に育てた母を讃え、感謝するための像。
上が「戦歿馬慰霊像」、下が「軍犬慰霊蔵」で、ともに戦場と活躍した動物を讃え、慰霊する像です。
この時、15時頃でした。「東京在住の姉から今日は雨の心配はない」と聞いたので傘は持参してませんが、何だか空が怪しくなってきました・・・。
予定では、ここから新宿に行き、都庁の展望台も考えてましたが、帰りに予約している新幹線の時間を考えると断念・・・これは、ほぼ予定どおりです。最初から無理かなぁ・・・と思ってました。
帰りに寄った「能楽堂」です。例祭では、ここで芸能が奉納されるそです。
日差しが強く暑かった東京も、これで帰ります。帰りも神門をくぐり「九段下駅」を目指します。
帰りに寄ろうとした土産店は、閉まってました。まだ15時30分前でしたが・・・。土地勘が無いので、帰りも「九段下駅」から東京メトロ東西線に乗ります。帰りは学生さんが目立ちましたね、いろんな制服を着てたので、この辺りは学校も多いのかも・・・です。地下鉄は「大手前駅」でおり、そのまま地下道を東京駅に向かって歩きました。東京駅前にある大丸で少しばかり土産物を買って、新幹線ホームへ。
16時20分頃にホームの休憩所で、疲れた体を休めていると東北新幹線の“やまびこ”を初めて見ました。
帰りは「のぞみ391号」新大阪行きにのり、16時47分・・・定刻通り出発すると・・・。
もう、車内では爆睡でした。行きは曇って見えなかった富士山でしたが、帰りは爆睡のため起きたのが名古屋の手前、起きたら外は暗くなってました。京都駅には19時5分に着いたので、お弁当を駅で買って、帰路に着きました。大変疲れましたが久し振りの東京大変楽しかったです。
【靖國神社】
通り名は知りませんが、地下鉄の出口を出たら大きな鳥居が見えてきました。そして信号待ちをしている間に撮った一枚です。このとき14時24分になってました。
信号を渡ると、第一鳥居の巨大さに先ずは驚きです。鳥居の右手にある社標は、1894年(明治27年)に建てられました。
事前に調べてて、参道が広くて長いのは知ってましたが・・・それにしても本殿までが遠い・・・です。
参道の途中には「大村益次郎銅像」が。西洋兵学の研究・兵制改革などで活躍し、日本陸軍の父と知られています。
次に「第二鳥居」までやって来ました。高さ15㍍もある青銅製では日本一を誇り、1887年(明治29年)に完成した神明鳥居です。
第二鳥居の手前にある「大手水舎」で、1940年(昭和15年)に奉納されたものです。
ここに来るまで、お隣の駐車場には観光バスも数台止まっています。多くの団体さんが来られているのでしょう、ここから先を見ると参拝者の多さが分かります。
手水舎を使った先に、巨大な「神門」があります。その設計者が伊東忠太と聞いて驚きです。
やっと今日のゴールが見えて来ました。「中門鳥居」の材料は、樹齢500年のヒノキを秩父三峯神社から提供されました。
中門鳥居をくぐって、「拝殿」に上がり参拝しました。1901年(明治34年)の建立です。
靖國神社は、1869年(明治2年)第122代・明治天皇により、建てられた東京招魂社にはじまり、1879年(明治12年)に「靖國神社」と改称となり今日に至っています。御祭神は、国家のために一命を捧げられた英霊です。英霊には軍人だけではなく、軍属、文官、民間、さらに幕末の志士までまさしく等しく祀られています。
日本人として、一度は参拝したかった靖国神社。英霊に感謝し、国家の平安と世界平和を祈念してきました。今日、平和な日々の暮らしは、戦没者の方々の尊い犠牲の上に、現在の日本が あることを忘れることは出来ません。やっと参拝できたことを心から安堵し、これで京都に帰れます。
参拝したら次に「社務所」に寄って、御朱印をいただきました。できあがりに少し待ちましたが、そう度々東京には来られないので、いただけて良かったです。
御朱印を待っているあいだに撮った「拝殿」です。どうしても“本殿”は見られなかったです。
御朱印のあと、ここの奥にある“神苑庭園”を見ようと思い奥に進むと「遊就館(ゆうしゅうかん)」があったので寄りました。見ると拝観料1000円とありますが、1階は無料と書いてあったので安心して入れます。
「三菱零式艦上戦闘機五二型(A6M5)」ゼロ戦の愛称で親しまれる。初陣は1940年(昭和15年)9月、中国の重慶においてソ連製中国機との空中戦で空前の成果をあげた。
「蒸気機関車C5631号」は1979年(昭和54年)に靖國神社に奉納。戦時中はタイ~ビルマ(現ミャンマー)間に建設されたされた「泰緬鉄道」を走った90両のC56機関車のうちの31号機が日本の帰還し、ここに展示されています。
向かって左が「九六式十五糎榴弾砲」、右が「八九式十五糎加農砲」と案内に書いてありました。
上から「零式艦上戦闘機の座席」。下は「零式艦上戦闘機二二型搭載 九九式二十粍機」です。
拝観料1000円と割高と感じたからではありませんが、時間が無かったのではいりません。それでも奥にあるミュージアムの売店で、舞鶴でも買った“海軍カレー”だけ買って帰りました。これで遊就館を出て庭園に向かおうとすると・・・。
「特攻勇士の像」があって、特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会が奉納されたました。“特攻勇士を讃える碑”があるので是非、読んで欲しいものです。
「青銅八十ポンド陸用加農砲」。1854年(安政元年)の鋳造、品川お台場に据付けられたものです。
「青銅百五十ポンド陸用加農砲」。1849年(嘉永2年)鋳造、天保山砲台に据付けられたものです。
極東国際軍事裁判(東京裁判)において、唯一の国際法を専門とする裁判官として、同裁判の違法性と全被告を無罪を主張したインドのバール博士を顕彰する碑がありました。
「母の像」戦争で夫を失も、遺児を立派に育てた母を讃え、感謝するための像。
上が「戦歿馬慰霊像」、下が「軍犬慰霊蔵」で、ともに戦場と活躍した動物を讃え、慰霊する像です。
この時、15時頃でした。「東京在住の姉から今日は雨の心配はない」と聞いたので傘は持参してませんが、何だか空が怪しくなってきました・・・。
予定では、ここから新宿に行き、都庁の展望台も考えてましたが、帰りに予約している新幹線の時間を考えると断念・・・これは、ほぼ予定どおりです。最初から無理かなぁ・・・と思ってました。
帰りに寄った「能楽堂」です。例祭では、ここで芸能が奉納されるそです。
日差しが強く暑かった東京も、これで帰ります。帰りも神門をくぐり「九段下駅」を目指します。
帰りに寄ろうとした土産店は、閉まってました。まだ15時30分前でしたが・・・。土地勘が無いので、帰りも「九段下駅」から東京メトロ東西線に乗ります。帰りは学生さんが目立ちましたね、いろんな制服を着てたので、この辺りは学校も多いのかも・・・です。地下鉄は「大手前駅」でおり、そのまま地下道を東京駅に向かって歩きました。東京駅前にある大丸で少しばかり土産物を買って、新幹線ホームへ。
16時20分頃にホームの休憩所で、疲れた体を休めていると東北新幹線の“やまびこ”を初めて見ました。
帰りは「のぞみ391号」新大阪行きにのり、16時47分・・・定刻通り出発すると・・・。
もう、車内では爆睡でした。行きは曇って見えなかった富士山でしたが、帰りは爆睡のため起きたのが名古屋の手前、起きたら外は暗くなってました。京都駅には19時5分に着いたので、お弁当を駅で買って、帰路に着きました。大変疲れましたが久し振りの東京大変楽しかったです。
【靖國神社】
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