東京国立博物館「三国志展」(後編)へ

東京国立博物館 日中文化交流協定締結40周年記念 特別展「三国志」

第一会場の見学時間は、約30分でした。少し蒸し蒸しする中、疲れていたのでお茶を飲もうとしたら、係の方から注意されました。会場内では熱中症になっても、飲んだらダメだそうです。京都の蒸し暑さなら、水を飲まなかったら・・・と思うと、ゾッとする対応ですね。信じられないです。

ここからは「第四章 三国歴訪」です。

CIMG9100.jpgCIMG9102.jpg10時17分に第二会場に入りました。こちらも混雑してましたが、ゆっくり鑑賞させてもらいます。

入ると先ずは、NHK人形劇「三国志」の人形を見学です。ここでやっと劉備の軍師・諸葛孔明が出てきました。主役の登場ですね。

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諸葛亮」(181~234)字は、孔明。若くして父を亡くして俗世を離れて暮らしていたが、劉備の三顧の礼をうけて志を新たにし、よく劉備を補佐した。劉備が崩御すると、後を継いだ劉禅のもとで漢の復興に邁進し、南征と来た伐を繰り返し、五丈原の陣中で死去した。

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孟護」(生年不詳)、現在の中国南西部、雲南省に勢力を誇った豪族の一人。諸葛亮に7度捉えられ7度目に放された時、ついに諸葛亮に心服し蜀漢への帰順を誓ったという(七縱七禽)。

CIMG9109.jpgCIMG9110.jpg偏将軍印章」金印(重慶中国三峡博物館)。関羽が曹操の陣営に降ったとき、偏将軍に任じられた。その折りに受け取ったのであろう。

この会場では、疲れが出て写真も、おざなりになってきました・・・。見学も空いているところから見て行くので順序は、前後してるでしょう。そして次もNHK人形劇「三国志」になります。

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甘寧」(生年不詳)字は興覇。弓や弩に巧みであったが、劉表や黄祖らのもとでは重用されず呉の周瑜や呂蒙は甘寧を高く評価し、孫権も厚遇した、先頭をきって城壁をよどのぼるなど勇猛果敢であり、合肥攻略の戦いでも持てる力をいかんなく発揮した。

CIMG9113.jpg石球」(合肥盧陽董鋪湿地公園管理処)。魏は水上戦に長けた呉軍を平野に沿い誘い込んで、城壁から投石機で呉軍めがけて飛ばしたのが、この石球です。

CIMG9115.jpg撞車頭」(合肥盧陽董鋪湿地公園管理処)。野戦で呉軍を蹴散らすために、戦車馬の車軸に取り付けたもの。

CIMG9117.jpg五龍硯」(沂南県博物館)。複雑な装飾を持つ蓋を伴う石製の硯。蓋には5頭の龍が浮彫されている。

CIMG9119.jpg六博盤」(洛陽博物館)。古代中国で流行した、すごろくの類いのゲーム盤。これは墓に納めるために造られたもので、やや粗雑である。

CIMG9121.jpg厠圏」(宝鶏青銅器博物院)。便所小屋を併設した豚の囲いで、人糞を豚の餌にした。

CIMG9123.jpg鼎・鐎」(遼陽博物館)。鼎は三脚と2つの把手を持つ煮炊きの容器。鐎は注ぎ口、三脚、長い把手をもち、酒を温めたり香りづけをしたりする容器。

CIMG9125.jpg炉・盒・刀魚文俎」(遼寧省文物考古研究院)。炉は、円形部と台形部をあわせた形の炉。盒は、側面が湾曲すし、料理を入れて副葬する習慣のためのもの。刀魚文俎は、俎の上に刀と魚を配する。

CIMG9127.jpg獣文鏡」(洛陽博物館)。背面に体が細長い2頭ま獣を点対称に表す。

CIMG9129.jpg把手付容器」(遼陽博物館)。この類いの製品が日本海側にも見られるので、両者の間に人的な往来があったとみられている。

CIMG9131.jpg右が「関内侯印」金印山(東博物館)、亀形のつまみを持った金製の印章。左が「魏帰義氐侯」金印(甘粛省博物館)、三国時代には、魏・蜀・呉の各国とも、周辺の在地勢力の指導者との友好をはかるため、金・銀・銅の印章を与えたそうです。

CIMG9133.jpg第二会場内です。そこそこの人が鑑賞されています。早朝に家を出て、東京までやって来たので少々お疲れで、しばし座って休憩です。

CIMG9134.jpg神木図磚」(綿陽市博物館)。いずれも樹木を崇拝する人々が画題の碑である。

CIMG9136.jpg溜池模型」(四川博物院)。水田灌漑用の溜池を象ったもの。

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鎮墓俑」(重慶中国三峡博物館)。長い舌を胸までたらし、右手に細長い道具、左手に毒蛇を握る。

CIMG9141.jpg」(武漢博物館)。帽子をかぶるのは、専門的な技能で主人に仕える者、冠をつけたのは、主人の職務遂行に関わる者、髭を結わえて座る人物は調理をしている。

CIMG9143.jpg「釜」(鄂州博物館)。調理や水汲みなど多くの用途に使われた。

CIMG9145.jpg「神亭壺」(南京市博物総館)。1993年(平成5年)、江蘇省南京市江寧区上坊墓出土。三国時代(呉)・鳳凰元年(272)。

CIMG9148.jpg左の「高床倉庫」(広西壮族自治区博物館)は、気候が高温多湿の呉では、倉庫は高床式でした。右の「」(広西壮族自治区博物館)は、漢時代以降“明器”が墓に埋葬された。

ここを抜けると、次の部屋は暗いです。「第五章 曹操高陵と三国大墓」曹操のお墓が再現されてました。

CIMG9150.jpgCIMG9154.jpg曹操高陵」はもむ2008年(平成20年)から2009年(平成21年)にかけて河南省安陽市で発掘された墓で、出土品から後漢から三国時代の過渡的な様相を呈し、墓の規模と構造は諸侯王に匹敵した。また、墓が築かれた場所は古記録にみる曹操高陵の所在地と同じことから稀代の英雄を葬った曹操高陵であることが確実となった。

CIMG9151.jpgCIMG9152.jpg四つの耳をもつ「」(河南省文物考古研究院蔵)は、曹操高陵から出土した高火度焼成の白磁で、三国時代頃の典型的な容器のひとつ。

CIMG9156.jpg」(河南省文物考古研究院)。把手と3つ足をつけた器物である鼎は、支配者の得を表すものとして重んじられてきました。

CIMG9158.jpg左は「侍俑」(河南省文物考古研究院)後漢~三国時代(魏)・3世紀。右が「支脚座」(河南省文物考古研究院)後漢~三国時代(魏)・3世紀。

CIMG9160.jpg左から「白虎仁」白虎とはおめでたい動物の一種で、ときの帝王の徳が高いと現れる。真ん中は「洨人」で、主君なに近侍した美少年のこと。右に「両手に槌を持つ人物」両手にT字形の槌をもつ髭の人物は、太鼓をたたいているものと考えられる。

そして最後のNHK人形劇「三国志」の人形です。残念ながら関羽と張飛が無かったですね・・・見たかった・・・です。

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曹植」(192~232)字は子建。曹操と卞夫人の第三子。誌才に恵まれ曹操の寵愛を受けた。帝位が兄の曹丕、甥の曹叡へと継がれるなか、国政改革にも意欲的でしたが、提言がとりあげられることなく生涯を閉じた。

CIMG9163.jpg虎形棺座」(南京市博物総館)。棺を置くための石製台座。うずくまる虎はこら虎踞と称して、武功により地域をおさめることの意味があった。

CIMG9165.jpg左は「牛車」(南京市博物総館)。古来、貴人の乗り物は馬車でした。また、右は「筆、書刀」(南京市博物総館)。三国志時代に紙が普及した。

CIMG9167.jpg墓門」(四川博物院)。一部の大型墓では地下の墓室と墓道との間に墓門を設けた。

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揺銭樹」(広漢市文物管理所(広漢市博物館))。後漢時代・2世紀。1983年(平成5年)、四川省広漢市新豊鎮獅象村出土。

CIMG9172.jpg揺銭樹台座」(重慶市文化遺産研究院)。発掘時には台座以外ほとんど残っていなかった。台座らは辟邪という架空の動物を掌る。侵入者を威嚇するとともに、墓主を天上の世界へと導く役目があった。

そして、最後のコーナーまでやって来ました。テーマは「エピローグ 三国の終焉―天下は誰の手に」です。

CIMG9175.jpg「晋平呉天下大平」磚(南京市博物総館)。西晋時代の墓に使われていた磚に「晋、呉を平らげ天下大平」と書かれています。三国志の時代の結末をもっとも端的に伝えている。

CIMG9177.jpg左から「獅子形盂」(洛陽博物館)、真ん中に「」(臨沂市博物館)、右に「」(臨沂市博物館)。ここに来て疲れ切ったため、写真はこれだけです

IMG_3226.jpg第二会場を出て、売店前で座って休憩しました。もう暑くて・・・予定では、上野を13時に出られたら良いかなぁ・・・と。

東京は京都に比べて涼しいかなぁ・・・と思ってきたんですが、台風が暑い空気を呼び込んだようで、それで入口付近にあったお店に入りました。「鶴屋吉信 東京国立博物館 休憩所」です。

CIMG9180.jpgCIMG9181.jpgCIMG9182.jpgCIMG9183.jpgCIMG9184.jpg暑かったので、外では滅多に食べない「アイスクリーム」(600円)をいただきました。疲れ切ってたので美味しかったです

余談ですが“鶴屋吉信”は京都の老舗和菓子店ですね、お弁当は“たん熊北店”と書いてありました。ここも京都ですね、東京まで来て、京都のお店に入るとは思いませんでした。暫く休憩して、ここには11時過ぎに出て、次へと向かいました。

【東京国立博物館 平成館】

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