かつて像高6メートルを誇った上野大仏へ
次に上野から東京メトロ銀座線に乗るためJR上野駅を目指しますが、このメトロ銀座線の乗り場が分かりません。とりあえずJR上野駅を目指して歩いていくと、途中に「上野大仏」と書かれた看板を見つけました。予定では上野を13時頃に出て行く予定にしていたため、まだ時間があります。それで寄って行くことにしました。
この時、12時32分。相当足が疲れて来ましたが、また階段を上がって行くと・・・。
上がりきると境内があって・・・それより、ここにも外国人観光客が押し寄せてます。私は予備知識無しできたので、少々興味が沸いてきて・・・。
こちらが“上野大仏”です。海外から来られた観光客が写真を撮られるので少々待ちました。それより大仏と言ってもお顔だけ・・・。
由緒と明治の頃の“上野大仏”の写真がありました。統治は、像高約6㍍の釈迦如来坐像だったようです。
1631年(寛永8年)に、越後国村上城主であった堀丹後守直寄が、この高台に、戦乱で倒れた敵味方の冥福を祈るために建立した“釈迦如来”です。京都方広寺の大仏に見立てられ、当初は漆喰で造られたましたが、明暦・万治年間に木食浄雲僧侶に高さ6㍍の銅仏に改められました。しかし江戸時代以降、地震や火災に見舞われて、1923年(大正12年)関東大震災で、お顔が崩落、そのあと再建されることなく、戦時中に胴体も金属供出で失われました。1972年(昭和47年)に旧地に迎えられ、お姿は大きく変貌しましたが、“これ以上落ちない合格大仏”として現在は、広く信仰されています。
こちらにご本尊の薬師如来像が祀られていました。一見して、納骨堂を思わせるパゴダ様式の祈願塔の中にひっそり、撮影は禁止です。
こちらでは御朱印もあったようですが、今日は寺用の朱印帳を持参してこなかったので、貰ってません。書き置きをいただいたら良かったかも。
あまり長居はしなかったんですが、小さいながらも水盤もありまたね。
12時34分に、再び下に降りてきて、当初の予定どおり上野駅に向かいました。ただ西郷隆盛の銅像だけは見て帰ろうかなぁ・・・と。
【上野大仏】
この時、12時32分。相当足が疲れて来ましたが、また階段を上がって行くと・・・。
上がりきると境内があって・・・それより、ここにも外国人観光客が押し寄せてます。私は予備知識無しできたので、少々興味が沸いてきて・・・。
こちらが“上野大仏”です。海外から来られた観光客が写真を撮られるので少々待ちました。それより大仏と言ってもお顔だけ・・・。
由緒と明治の頃の“上野大仏”の写真がありました。統治は、像高約6㍍の釈迦如来坐像だったようです。
1631年(寛永8年)に、越後国村上城主であった堀丹後守直寄が、この高台に、戦乱で倒れた敵味方の冥福を祈るために建立した“釈迦如来”です。京都方広寺の大仏に見立てられ、当初は漆喰で造られたましたが、明暦・万治年間に木食浄雲僧侶に高さ6㍍の銅仏に改められました。しかし江戸時代以降、地震や火災に見舞われて、1923年(大正12年)関東大震災で、お顔が崩落、そのあと再建されることなく、戦時中に胴体も金属供出で失われました。1972年(昭和47年)に旧地に迎えられ、お姿は大きく変貌しましたが、“これ以上落ちない合格大仏”として現在は、広く信仰されています。
こちらにご本尊の薬師如来像が祀られていました。一見して、納骨堂を思わせるパゴダ様式の祈願塔の中にひっそり、撮影は禁止です。
こちらでは御朱印もあったようですが、今日は寺用の朱印帳を持参してこなかったので、貰ってません。書き置きをいただいたら良かったかも。
あまり長居はしなかったんですが、小さいながらも水盤もありまたね。
12時34分に、再び下に降りてきて、当初の予定どおり上野駅に向かいました。ただ西郷隆盛の銅像だけは見て帰ろうかなぁ・・・と。
【上野大仏】
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