水戸徳川家大名庭園 小石川後楽園へ
東京メトロと都営地下鉄を乗り継いで「飯田橋駅」までやって来ました。ここで事前に調べていた“C3”出口を目指します。案内に従って、歩いて行くと、エスカレーターを何台か乗り継いで、やっと地上に出てきました・・・深く掘られたなぁ・・・と思いなが・・・。こから歩いて3分程度でしょうか、目的地の小石川後楽園に着きました。
13時21に着きました。大名庭園が好きな私は、是非行ってみたいと思っていた所で、やっと来られました。
「西門」から入って暫く奥に向かってある行くと、右手に拝観受付所がありました。そこで入園料300円をお支払いして、いよいよ庭園内へ。
東京も行ってみたい庭園は何箇所かありますが、今日は日程の都合で、この小石川後楽園だけ寄りました。次回は一泊でもしてゆっくり回りたいと思います。
ここまで来て、東京ドームの屋根が見えました。会社の野球部の応援で一度入りましたが、かつて巨人ファンだった私は、今やサッカーに熱中・・・巨人どころかプロ野球や高校野球野球は、殆ど見なくなりました・・・じゃなく全く見ないです。はっきり言って感心なくなった。
池の奥に高層ビルが写っています。これも借景の一部なんでしょうね、作庭当時では考えもしなかったことでしょう。
特にコースは決まってないようで“大泉水”の周りを、反時計回りで廻ることにします。最初は、左手に子高い築山「小廬山」と「蓮池」を見ています。
近江の琵琶湖に見立てた“大泉水”に対して、この松は唐崎の「一つ松」に因んでいます。
京都に住んでいるので、滋賀県の地名も知っています。唐崎・・・もちろん知っていますよ。
ここのベンチに座って、暫く休憩しました。汗を拭き、タオルを替えて気持ち良い風に当たりながら・・・。
小石川後楽園は、1629年(寛永6年)水戸藩の徳川頼房が、中屋敷に造ったのが始まりで、二代藩主・徳川光圀の代で完成しました。光圀があつくもてなした明の儒学者朱舜水の意見を用い、中国の風物を取り入れ、園名も朱舜水が命名しています。国の特別史跡・特別名勝に指定されていますが、重複指定は全国でも珍しいといいます。
何分ぐらいか覚えませんが、長いこと休憩して再出発・・・こちらは「丸屋」と呼ばれ、昔ね田舎のわびた茶屋のたたずまいを現しており、戦災で焼失したのを1966年(昭和44年)に復元されたものです。
ここから上に登る石段を見つけたので、少々お疲れ気味ですが、頑張って行ってみます。
登り切ると、そこには「得仁堂」がありました。徳川光圀が園内に建てた最古のものです。内部には光圀が感銘を受けた「伯夷・叔斉」の木造が安置してあります。
その先に進むと、“小廬山”の上に展望台がありました。ここから見る風景は、東京のビル街。やっぱり東京にやって来たなぁ・・・と実感です。
“オカメザサ”で覆われた築山から降りて行くと、そこには京都嵐山で流れている“大堰川”があって、渡ってみると朱塗りの橋と、“音羽の滝”がありました。音羽の滝は、清水寺ですね、西の嵐山と東の清水寺・・・距離は相当離れてますが。
大堰川沿いの“沢渡り”を通って、真っ直ぐにたった珍しい岩・・・「屏風岩」までやって来ました。
この石堤は、中国の名勝地西湖を模して造られたので「西湖の堤」と呼ばれています。
この土橋は、大堰川に架かっているので「渡月橋」と呼ばれています。地元に住んでいるので、似ても似つかぬ・・・そんな感じですね。
“渡月橋”を渡って、先程座ってたベンチの所もで戻ってきました。築山で外国人観光客の一組とすれ違っただけでした。
休憩もしたし、体力も回復したことから前途したとおり反時計回りで散策します。
先程、築山へ登った石段の先、現在工事中の橋を渡ります。この日は何箇所か工事をされていたのは少々、残念でした。
それで、“白糸の滝”が来年の2月頃まで見られないと看板に書いてありました。休憩中に観察してたんですが野鳥の写真を撮られる方が多かったですね。後は外国人観光客は、途切れなく入ってこられます。
ここで“松原”と呼ばれる平地に出てきました。奥には「丸八屋」が見えています。これは江戸時代の風流な酒亭の様子を再現したものです。
奥には稲田があって、あと少しで刈取できるように稲穂が実っています。
この奥にも、いろいろ見所があったようですが、バンフを見なかったのでこの時は分かりません。ただ、ここではベンチに座って休憩されてる方が多かったです・・・地元の方でしょうか。
稲田の奥には行かず、池の周りを散策します。すると前方に“異形灯籠”が、池には“蓬莱島”が見えています。
しばらくすると「瘞鷂碑(えいようひ)」と書かれた石碑を見つけました。水戸藩主7代目・徳川治紀は、将軍家からいただいた鷹を大切にしてましたが、治紀の死後、4年後に鷹も死んでしまいました。そのため8代藩主・徳川斉脩がこれを哀れみこの石碑を建てました。
ここから大泉水の南側が見えています。野鳥の写真を狙ってる方が見えます。
ここで池の最も奥までやって来ると、前方に“竹生島”が見えています。琵琶湖の竹生島とは少し違うような気がしますが。
この石畳は「延段」と呼ばれています。中国風の素朴な石畳で、切石と玉石を巧みに組み合わせいます。
向かいの島は前途のとおり「蓬莱島」と呼ばれています。島は亀の形をしており、前方の鏡石は庭師徳大寺佐兵衛に因んで“徳大寺石”と名付けられました。
この川は「竜田川」と呼ばれています。滋賀県大津市にもありまたしね、同名の川が。この辺りは綺麗に紅葉するそうです。
この石碑には「駐歩泉」と書かれています。水戸藩9代目・徳川斉昭 が、西行堂側の流れを西行の和歌「道のべに しみづながるる 柳かけ しばしとてこそ 立ちどまりつれ」にちなみ“駐歩泉”と命名し、自ら筆をとり碑を建てたもの。
小石川後楽園の最後の写真は、東京ドームを撮りました。こんなに近かったんですね、ここに来て驚いた次第です。
庭園の入口にある売店をのぞいたあと、ここには14時4分に出て行きました。
体は、早朝に出てきたこともあって相当疲れてきまたが、あと一箇所、どうしても行きたい所があるので、頑張ります。ここから再び都営地下鉄大江戸線「飯田橋駅」まで戻り、係の方に東京メトロ「飯田橋駅」を聞きました。すると、係の方が指を指す方向・・・「JR飯田橋駅に行ってください、その歩道橋を渡って貰ったら分かります」と。その先・・・かなり距離があるやん、と思いながらJR飯田橋駅まで行くと、タクシーが止まっています。乗りたい気持ちはありましたが、ここまで我慢したので東京メトロ東西線に乗って、次へと向かいました。
【小石川後楽園】
13時21に着きました。大名庭園が好きな私は、是非行ってみたいと思っていた所で、やっと来られました。
「西門」から入って暫く奥に向かってある行くと、右手に拝観受付所がありました。そこで入園料300円をお支払いして、いよいよ庭園内へ。
東京も行ってみたい庭園は何箇所かありますが、今日は日程の都合で、この小石川後楽園だけ寄りました。次回は一泊でもしてゆっくり回りたいと思います。
ここまで来て、東京ドームの屋根が見えました。会社の野球部の応援で一度入りましたが、かつて巨人ファンだった私は、今やサッカーに熱中・・・巨人どころかプロ野球や高校野球野球は、殆ど見なくなりました・・・じゃなく全く見ないです。はっきり言って感心なくなった。
池の奥に高層ビルが写っています。これも借景の一部なんでしょうね、作庭当時では考えもしなかったことでしょう。
特にコースは決まってないようで“大泉水”の周りを、反時計回りで廻ることにします。最初は、左手に子高い築山「小廬山」と「蓮池」を見ています。
近江の琵琶湖に見立てた“大泉水”に対して、この松は唐崎の「一つ松」に因んでいます。
京都に住んでいるので、滋賀県の地名も知っています。唐崎・・・もちろん知っていますよ。
ここのベンチに座って、暫く休憩しました。汗を拭き、タオルを替えて気持ち良い風に当たりながら・・・。
小石川後楽園は、1629年(寛永6年)水戸藩の徳川頼房が、中屋敷に造ったのが始まりで、二代藩主・徳川光圀の代で完成しました。光圀があつくもてなした明の儒学者朱舜水の意見を用い、中国の風物を取り入れ、園名も朱舜水が命名しています。国の特別史跡・特別名勝に指定されていますが、重複指定は全国でも珍しいといいます。
何分ぐらいか覚えませんが、長いこと休憩して再出発・・・こちらは「丸屋」と呼ばれ、昔ね田舎のわびた茶屋のたたずまいを現しており、戦災で焼失したのを1966年(昭和44年)に復元されたものです。
ここから上に登る石段を見つけたので、少々お疲れ気味ですが、頑張って行ってみます。
登り切ると、そこには「得仁堂」がありました。徳川光圀が園内に建てた最古のものです。内部には光圀が感銘を受けた「伯夷・叔斉」の木造が安置してあります。
その先に進むと、“小廬山”の上に展望台がありました。ここから見る風景は、東京のビル街。やっぱり東京にやって来たなぁ・・・と実感です。
“オカメザサ”で覆われた築山から降りて行くと、そこには京都嵐山で流れている“大堰川”があって、渡ってみると朱塗りの橋と、“音羽の滝”がありました。音羽の滝は、清水寺ですね、西の嵐山と東の清水寺・・・距離は相当離れてますが。
大堰川沿いの“沢渡り”を通って、真っ直ぐにたった珍しい岩・・・「屏風岩」までやって来ました。
この石堤は、中国の名勝地西湖を模して造られたので「西湖の堤」と呼ばれています。
この土橋は、大堰川に架かっているので「渡月橋」と呼ばれています。地元に住んでいるので、似ても似つかぬ・・・そんな感じですね。
“渡月橋”を渡って、先程座ってたベンチの所もで戻ってきました。築山で外国人観光客の一組とすれ違っただけでした。
休憩もしたし、体力も回復したことから前途したとおり反時計回りで散策します。
先程、築山へ登った石段の先、現在工事中の橋を渡ります。この日は何箇所か工事をされていたのは少々、残念でした。
それで、“白糸の滝”が来年の2月頃まで見られないと看板に書いてありました。休憩中に観察してたんですが野鳥の写真を撮られる方が多かったですね。後は外国人観光客は、途切れなく入ってこられます。
ここで“松原”と呼ばれる平地に出てきました。奥には「丸八屋」が見えています。これは江戸時代の風流な酒亭の様子を再現したものです。
奥には稲田があって、あと少しで刈取できるように稲穂が実っています。
この奥にも、いろいろ見所があったようですが、バンフを見なかったのでこの時は分かりません。ただ、ここではベンチに座って休憩されてる方が多かったです・・・地元の方でしょうか。
稲田の奥には行かず、池の周りを散策します。すると前方に“異形灯籠”が、池には“蓬莱島”が見えています。
しばらくすると「瘞鷂碑(えいようひ)」と書かれた石碑を見つけました。水戸藩主7代目・徳川治紀は、将軍家からいただいた鷹を大切にしてましたが、治紀の死後、4年後に鷹も死んでしまいました。そのため8代藩主・徳川斉脩がこれを哀れみこの石碑を建てました。
ここから大泉水の南側が見えています。野鳥の写真を狙ってる方が見えます。
ここで池の最も奥までやって来ると、前方に“竹生島”が見えています。琵琶湖の竹生島とは少し違うような気がしますが。
この石畳は「延段」と呼ばれています。中国風の素朴な石畳で、切石と玉石を巧みに組み合わせいます。
向かいの島は前途のとおり「蓬莱島」と呼ばれています。島は亀の形をしており、前方の鏡石は庭師徳大寺佐兵衛に因んで“徳大寺石”と名付けられました。
この川は「竜田川」と呼ばれています。滋賀県大津市にもありまたしね、同名の川が。この辺りは綺麗に紅葉するそうです。
この石碑には「駐歩泉」と書かれています。水戸藩9代目・徳川斉昭 が、西行堂側の流れを西行の和歌「道のべに しみづながるる 柳かけ しばしとてこそ 立ちどまりつれ」にちなみ“駐歩泉”と命名し、自ら筆をとり碑を建てたもの。
小石川後楽園の最後の写真は、東京ドームを撮りました。こんなに近かったんですね、ここに来て驚いた次第です。
庭園の入口にある売店をのぞいたあと、ここには14時4分に出て行きました。
体は、早朝に出てきたこともあって相当疲れてきまたが、あと一箇所、どうしても行きたい所があるので、頑張ります。ここから再び都営地下鉄大江戸線「飯田橋駅」まで戻り、係の方に東京メトロ「飯田橋駅」を聞きました。すると、係の方が指を指す方向・・・「JR飯田橋駅に行ってください、その歩道橋を渡って貰ったら分かります」と。その先・・・かなり距離があるやん、と思いながらJR飯田橋駅まで行くと、タクシーが止まっています。乗りたい気持ちはありましたが、ここまで我慢したので東京メトロ東西線に乗って、次へと向かいました。
【小石川後楽園】
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