令和元年度 京都浄土宗寺院 特別大公開 地蔵院(椿寺)へ
10月11日(金)は、今年も始まった「令和元年度 京都浄土宗寺院 特別大公開」に、北野天満宮近くの地蔵院(椿寺)に行きました。
嵐電「北野白梅町駅」近くのコインパーキングに車を止めて、一条通り沿いにある「山門」前に9時少し前に着きました。
余談ですが、この山門の右隣に地蔵院の駐車場がありました。交通量の多い一条通りですので、止めるのは少し苦労がいるかも知れませんが、無料ですし、リサーチ不足でしたね失敗しました。
山門前には、この地蔵院にゆかりのある人物・・・忠臣蔵でお馴染みの、“吉良邸討ち入りの功労者、天野屋利兵衛の墓所があるそうで、その石碑が立っています。
地蔵院は、洛陽観音霊場第三十番札所になっているので、私は何度か来ています。前回の訪問は、いつ頃だったから覚えてないほど随分前の2006年(平成18年)7月16日でした。
浄土宗の寺院で正式名は昆陽山地蔵院といい、通称「椿寺」の愛称でも親しまれています。726年(神亀3年)に第50代・桓武天皇の勅願により行基が摂津の昆陽池のほとりに建立し、地蔵院と称したのが始まり。その後1589年(天正17年)に豊臣秀吉の命により現在地に定まったという。洛陽三十三所観音霊場の第三十番札所。
本堂前にある椿が「五色八重散椿」です。色とりどりの花びらがはらはらと散ることから名付けられました。豊臣秀吉が献木した樹齢約400年の一世は、1983年(昭和58年)に枯れ、現在は樹齢約120年の二世です。見頃は3月中旬頃から4月初旬だそうです。
こちらが本堂(阿弥陀堂)ですが、閉まっています。ご本尊は「五劫思惟阿弥陀如来像」ですが、お正月の三が日のみ参拝できるので、来年は是非行ってみたいですね。
こちらは「手水舎」でしょう。この日は天気は曇ってて、雨は降ってませんが、風が強かったです。それは・・・後程。
その奥が「観音堂」です。その観音堂に安置されてる洛陽観音霊場第三十番「十一面観音菩薩立像」(平安時代/慈覚大師作)は普段は厨子の中です。
中央にご本尊、その右隣に普段は厨子の前に立たれているお前立ちが見えます。これをこの日は見に来た訳です。
観音堂の右横には「三社」があって左から「辨財天」「椿大神」「鎮守社」とありました。
またお堂の左には「賓頭盧尊」が祀られていたので、師団の気になるところを思い切り撫でてお参りしました。
このあと「寺務所」に行き、御朱印をいただきました。以前もいだいていますが、久し振りの訪問でいただくことにしました。
ここで、お寺の方に「京都浄土宗寺院 特別大公開で公開されてるのは、どれですか?」と尋ねました。そこでお寺の方に教えて貰ったのが、観音堂のご本尊のことでした。「本当は案内版を立てないと」と、言われましたが、どうやら台風19号が接近してて関西でも結構な風が吹いています。「台風が来てるので、どうしようかなぁ」と言われてました。予備知識無しで来た私には分からなかったので、やっぱり張り紙でも欲しかったですね。
こちらは「地蔵堂」です。元のご本尊「地蔵菩薩」がガラス越しに見えますが、8月23日24日の“地蔵盆”では扉が゛全開とか。こちらも行って見る必要がありますね。
先程の「観音堂」内の右側に「天野屋利兵衛」と書かれた厨子があります。この人物のお墓も境内図に書かれています。行ってみると・・・。
「天野屋利兵衛の墓」です。私は知りませんでしたが、赤穂浪士の打ち入りを陰で支えたとされる人物のようですね。
赤穂浪士の討ち入りは、12月14日。その日だけ観音堂内の厨子が開かれ、中にある天野屋利兵衛の木像が公開されるようです。これも見に行かなくては・・・。
他に「キリシタンの墓」がありました。由緒書きにも何も書いてなので詳細は分かりません。
次に「地蔵堂」の裏側に回り込みました。すると無数の“石仏”が。さらに奥に進むと・・・。
こちらには“石仏地蔵”が祀られています。名前が書いて無いのでこれ以上の詳細は不明です。
最後に「世継地蔵尊」です。ここから元の参道に戻って北にある山門に向かうことに。
ここが豊臣秀吉にゆかりがあるのかどうか知りませんが「豊国大明神」と書かれた石灯籠が本堂前にありました。
ここには9時15分には出て行きました。境内図にある与謝蕪村(よさのぶそん)の師にあたる「夜半亭巴人(やはんていはじん)の墓」だけは見損ないましたが、また、ここには何度か訪問が必要なので、その時見てみます。
台風19号が不気味な進路で日本に近づいてきてますが、このとき関西はまだ雨は降ってませんでした。ここからコインパーキングに戻り、次へと向かいました。
【地蔵院(椿寺)】
嵐電「北野白梅町駅」近くのコインパーキングに車を止めて、一条通り沿いにある「山門」前に9時少し前に着きました。
余談ですが、この山門の右隣に地蔵院の駐車場がありました。交通量の多い一条通りですので、止めるのは少し苦労がいるかも知れませんが、無料ですし、リサーチ不足でしたね失敗しました。
山門前には、この地蔵院にゆかりのある人物・・・忠臣蔵でお馴染みの、“吉良邸討ち入りの功労者、天野屋利兵衛の墓所があるそうで、その石碑が立っています。
地蔵院は、洛陽観音霊場第三十番札所になっているので、私は何度か来ています。前回の訪問は、いつ頃だったから覚えてないほど随分前の2006年(平成18年)7月16日でした。
浄土宗の寺院で正式名は昆陽山地蔵院といい、通称「椿寺」の愛称でも親しまれています。726年(神亀3年)に第50代・桓武天皇の勅願により行基が摂津の昆陽池のほとりに建立し、地蔵院と称したのが始まり。その後1589年(天正17年)に豊臣秀吉の命により現在地に定まったという。洛陽三十三所観音霊場の第三十番札所。
本堂前にある椿が「五色八重散椿」です。色とりどりの花びらがはらはらと散ることから名付けられました。豊臣秀吉が献木した樹齢約400年の一世は、1983年(昭和58年)に枯れ、現在は樹齢約120年の二世です。見頃は3月中旬頃から4月初旬だそうです。
こちらが本堂(阿弥陀堂)ですが、閉まっています。ご本尊は「五劫思惟阿弥陀如来像」ですが、お正月の三が日のみ参拝できるので、来年は是非行ってみたいですね。
こちらは「手水舎」でしょう。この日は天気は曇ってて、雨は降ってませんが、風が強かったです。それは・・・後程。
その奥が「観音堂」です。その観音堂に安置されてる洛陽観音霊場第三十番「十一面観音菩薩立像」(平安時代/慈覚大師作)は普段は厨子の中です。
中央にご本尊、その右隣に普段は厨子の前に立たれているお前立ちが見えます。これをこの日は見に来た訳です。
観音堂の右横には「三社」があって左から「辨財天」「椿大神」「鎮守社」とありました。
またお堂の左には「賓頭盧尊」が祀られていたので、師団の気になるところを思い切り撫でてお参りしました。
このあと「寺務所」に行き、御朱印をいただきました。以前もいだいていますが、久し振りの訪問でいただくことにしました。
ここで、お寺の方に「京都浄土宗寺院 特別大公開で公開されてるのは、どれですか?」と尋ねました。そこでお寺の方に教えて貰ったのが、観音堂のご本尊のことでした。「本当は案内版を立てないと」と、言われましたが、どうやら台風19号が接近してて関西でも結構な風が吹いています。「台風が来てるので、どうしようかなぁ」と言われてました。予備知識無しで来た私には分からなかったので、やっぱり張り紙でも欲しかったですね。
こちらは「地蔵堂」です。元のご本尊「地蔵菩薩」がガラス越しに見えますが、8月23日24日の“地蔵盆”では扉が゛全開とか。こちらも行って見る必要がありますね。
先程の「観音堂」内の右側に「天野屋利兵衛」と書かれた厨子があります。この人物のお墓も境内図に書かれています。行ってみると・・・。
「天野屋利兵衛の墓」です。私は知りませんでしたが、赤穂浪士の打ち入りを陰で支えたとされる人物のようですね。
赤穂浪士の討ち入りは、12月14日。その日だけ観音堂内の厨子が開かれ、中にある天野屋利兵衛の木像が公開されるようです。これも見に行かなくては・・・。
他に「キリシタンの墓」がありました。由緒書きにも何も書いてなので詳細は分かりません。
次に「地蔵堂」の裏側に回り込みました。すると無数の“石仏”が。さらに奥に進むと・・・。
こちらには“石仏地蔵”が祀られています。名前が書いて無いのでこれ以上の詳細は不明です。
最後に「世継地蔵尊」です。ここから元の参道に戻って北にある山門に向かうことに。
ここが豊臣秀吉にゆかりがあるのかどうか知りませんが「豊国大明神」と書かれた石灯籠が本堂前にありました。
ここには9時15分には出て行きました。境内図にある与謝蕪村(よさのぶそん)の師にあたる「夜半亭巴人(やはんていはじん)の墓」だけは見損ないましたが、また、ここには何度か訪問が必要なので、その時見てみます。
台風19号が不気味な進路で日本に近づいてきてますが、このとき関西はまだ雨は降ってませんでした。ここからコインパーキングに戻り、次へと向かいました。
【地蔵院(椿寺)】
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