令和元年度 第55回京都非公開文化財特別公開 金臺寺へ
今年も11月1日(金)から奉祝 天皇陛下御即位と題して令和元年度 第55回京都非公開文化財特別公開が始まりました。その初日に妙心寺境外塔頭 河北山 金臺寺に行ってきました。
金臺寺(こんたいじ)は、妙心寺の境外塔頭ですが、場所は等持院の近くです。等持院には何時も行ってるので慣れた道です。予定していたコインパーキングに9時前に入れました。そこから歩いて金臺寺に向かうと遠目にも「山門」前で並んでる人が見えました。
着いた頃には9時は少し回ってましたが、まだ6名程度並んでいます。この寺院は初公開で最初から人気があるだろなぁ・・・と思って来ましたが、まさか並ぶとは想像してなかったです。
山門を入って正面の「式台型の玄関」から靴を袋に入れて上がります。入ると右手に“朱印受付”があったので、朱印帳を出しました。ここでは帰りに受け取るため番号札を渡されます。
朱印は2種類あました。もう一つは500円で貼付タイプです。私は書いていただく方にして、300円を納めました。僧侶の方が2名から3名で対応されてて、番号札の番号は忘れましたが、相当ありましたね。
本堂は客殿と庫裏をかねた様式で奥に進みます。もう本堂では案内が始まってましたが、撮影禁止と書いてないので、とりあえずこれだけ撮って本堂に入りました。
驚いたことに本堂内には30名近く居ます。相当門前で並ばれていたのでしょう。私は話しの途中で入ったので前段の話は聞けませんでしたので、次の案内を聞いてみると・・・。
ここでは堂内は庭を含めて撮影禁止でした。知らなかったとはいえ上記の写真は貴重なものになりました。
金臺寺は、河北山 金臺寺といい、妙心寺の境外塔頭です。寺歴ははっきり分かってませんし寺名も度々変わったようです。ただ寺の宝蔵には1576年(天正4年)の正親天皇への綸旨が残されており、この頃に妙心寺の塔頭寺院になったと思われています。その後1591年(天正19年)に豊臣秀吉より朱印百石の書状も残されていますが、そのときは「池上こんたいじ」でした。1608年(慶長13年)には開山に輝岳宗暾(きがくそうとん)を迎えて「国泰寺(こくたいじ)」と改めます。1637年(寛永4年)に現在地に移り「鳳台寺(ほうだいじ)」に変わって、1876年(明治9年)に現在の名である「金臺寺」に変わりました。本堂は客殿と庫裏を兼ねた様式で、江戸末期から明治初期に建てられてと思われる。ここの再中興が大仙玄鶴(だいせんげんかく)が住職さなられ、この頃に再建され可能性が高い。この本堂は妙心寺の隣華院から移築されたと言われているが詳しいことは不明だそうです。ご本尊は釈迦三尊像で、釈迦如来・普賢菩薩・文殊菩薩が安置されいます。本堂の障壁画は33面あって、作風から京狩野家九代目・狩野永岳の作だと言われています。上間後室の「山水図」は円山應挙風の流れをくみ作風が見られます。庭園の作庭者は不明ですか、庭にある祠には北野天満宮や六請神社のお札が貼られているようです。
こちらは寺宝で、臨済宗中興の祖といわれる江戸時代中期の僧・白隠筆「法具変妖之図」です。仏法をおろそかにする者への戒めとして描かれたものです。
次に2階へ上がります。ここから庭と客殿が綺麗に見えますが、2018年(平成30年)9月4日に関西に襲来した台風21号の影響で、ここは壊れたそうで修復されています。しかし、あちこちに雨漏りのあとが見えます。そう言えば1階の本堂も雨漏りのあとが見えました。ここは狭いので、あっさりと見て本堂を通って、最後に「庫裏」の見学です。
庫裏を見上げると煙出しもあって、本山と変わらぬ規模で驚かされます。ここもあっさりと見て、外に出ました。
9時33分に外に出ました。次にこの大屋根を見上げます。ガイドさんが話されていた本山にも負けない「大鬼瓦」を見てほしいと言われていたからです。
庫裏の大屋根に乗る「大鬼瓦」をアップで捉えました。写真を撮れるのが、これだけとは物足りないですね。内部もそんなに見所が無かったし・・・。
ここには9時35分に出て行きました。台風の被害を受けられたので、初めて公開されたのかなぁ・・・と思います。前途したとおり、見所は少なかったです。
次から次へと拝観者が来られてて、内部は混雑しているようでした。土曜や日曜はもっと混雑したのでしょうね。初めての訪問でしたが、見て置いて良かったです。でも、再訪は無いですね。
【金臺寺】
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