「御殿内の宸殿檜皮葺き替え工事」の世界文化遺産 仁和寺へ
昨年の台風21号の影響でしょうか、今年の初めから「御殿内の宸殿」において檜皮の葺き替え工事をされています。そのため「仁和寺 特別拝観(御殿内 北庭・南庭)」と題して、2月16日~12月31日まで普段は降りることができない南庭や、少しせり出した舞台で北庭が見られたりと、仁和寺の方で考えられたのでしょうけど、初めて来られた方は少々つまらないかも知れません。私は2018年(平成30年)12月に「金堂裏堂 特別内拝」の時に、この御殿に来て工事のことを知りました。そして御室桜が咲く2019年(令和元年)4月でも来ています。それで、今回で工事中の御殿に入るのは3回目です。
私も物好きやなぁ・・・と思いながら、御殿の入口である「本坊表門」までやって来ました。時計は9時17分でしたので、御殿内の混雑は覚悟してました。
御殿には「大玄関」から靴を脱いで袋に入れ上がると、霊宝館で買ったチケットを見せます。そしたら「写真は何処を撮ってもOKです。朱印帳があればここで先に出して下さい」と案内されました。
朱印は以前にいただいているので、今日は持参してません。それに2019年(令和元年)4月も入っているので、今日はざっと見るだけです。
受付から奥に進むと、最初に見るのが「白書院」です。襖絵は、1937年(昭和12年)に福永晴帆画伯によって、松を主題にした四季おりおりの景色が描かれました。
それより、この辺りにはエアポケットのように誰も居ません。本坊表門で追い抜いた後続が来るはずです。急いで南庭に降りました。
御殿は現在、修復工事中です。2019年(令和元年)4月でもそうでしたが、そろそろ終わっているかなぁ・・・と、思いやって来ましたが、まったく同じ状況でした。ですから南庭にも降りられるので急ぎました。
こうして正面から「白書院」を狙えました。これからあの工事用の覆いの中に入っていき宸殿を見ます。
ここに降りるためにスリッパに履き替えます。先に入られ方は、下に降りられること知らなかったのでしょうか。
工事用の覆いのため薄暗い中、宸殿の南側から東を通って北側に出ます。ここから本当なら北庭が見所なんですけど全く見えません。
宸殿北側の東から「下段の間」です。そこの襖絵には、「冬の鷹野行幸図」(大阪府交野市)が描かれています。
次が「中段の間」です。襖絵は、「秋の大堰川三船之図」と「夏の葵祭之図」が描かれています。
最後が「上段の間」になります。床の間には「遠山流水」が、襖絵には「春の桜花」が描かれています。
本当なら北庭が見渡せる所に幕が掛かっていますが、拝観者が飽きないように工夫されてますね。その幕の向こう側にスリッパに履き替えて、せり出した舞台から北庭を見ます。
ここから綺麗に五重塔が見えてます。本来ならもう少し北庭は広々としてますが仕方ないですね。
この庭園の策定者は不明だそうで、元禄年間(1688~1704年)に現在の形になったと思われてるみたいです。火災で焼失していた寝殿が、1914年(大正3年)に建てられ、その頃に7代目小川治兵衛により庭園が改修されました。
次に渡り廊下通って「霊明殿」に向かいます。御殿の中では唯一の仏堂で、本来ならここから綺麗に宸殿が見える筈なんです。
霊明殿は、1910年(明治43年)に、薬師如来と歴代門跡の位牌を祀る持仏堂として創建されました。
霊明殿の北側に出ると、仏様のお供えを作る所・・・「閼伽棚」があります。通常はここから降りることができませんが、この奥に茶室「飛濤亭」があります。
霊明殿から渡り廊下を通って、「黒書院」に入りました。1910年(明治43年)の再建です。
最初の部屋はビデオ鑑賞になっています。そして次が「竹の間」と呼ばれ、堂本印象画伯が手がけました。
最後の部屋が「上段の間及び秋草の間」です。北側にも一部屋あった筈ですがスルーしてしまいました。
1909年(明治42年)に安井門跡の宸殿の遺構を移築し「黒書院」となりました。襖絵は、1931年(昭和6年)の第59代宇多天皇一千年、弘法大師一千百年御忌の記念事業により、堂本印象画伯によって描かれました。
黒書院と白書院の間には、小さな「中庭」があります。苔むして綺麗ですが、紅葉も見所だそうです。
最後に寄ったのが、尾中康宏 Onaka Yasuhiro 現代アート展『1000枚の千手観音』でした。
私は入りましたが、殆どの方はスルーされてました。ポスターでは11月24日までとなっていますが、好評につき12月8日(日)まで延長されたようです。
9時35分にここを出ました・・・と言うより、役所に行ってた妻から用事が終わったと連絡あったので、帰りも迎えを頼んだから急いで出たのが本音。
本坊表門を出て重要文化財に指定されてる「二王門」を撮りました。最近まで工事用の覆いで見えませんでしたが、何の工事か分かりませんが終わったようです。
9時40分に「東門」に着くと、遅れてくると勝手に思ってゆっくり歩いてここまで来ましたが、門を出たら先に着いてました。
殆ど同時だったようで、嵐電で帰るつもりが迎えに来てくれてラッキーです。ここから二人で実家に行きました。
【仁和寺 御殿】
私も物好きやなぁ・・・と思いながら、御殿の入口である「本坊表門」までやって来ました。時計は9時17分でしたので、御殿内の混雑は覚悟してました。
御殿には「大玄関」から靴を脱いで袋に入れ上がると、霊宝館で買ったチケットを見せます。そしたら「写真は何処を撮ってもOKです。朱印帳があればここで先に出して下さい」と案内されました。
朱印は以前にいただいているので、今日は持参してません。それに2019年(令和元年)4月も入っているので、今日はざっと見るだけです。
受付から奥に進むと、最初に見るのが「白書院」です。襖絵は、1937年(昭和12年)に福永晴帆画伯によって、松を主題にした四季おりおりの景色が描かれました。
それより、この辺りにはエアポケットのように誰も居ません。本坊表門で追い抜いた後続が来るはずです。急いで南庭に降りました。
御殿は現在、修復工事中です。2019年(令和元年)4月でもそうでしたが、そろそろ終わっているかなぁ・・・と、思いやって来ましたが、まったく同じ状況でした。ですから南庭にも降りられるので急ぎました。
こうして正面から「白書院」を狙えました。これからあの工事用の覆いの中に入っていき宸殿を見ます。
ここに降りるためにスリッパに履き替えます。先に入られ方は、下に降りられること知らなかったのでしょうか。
工事用の覆いのため薄暗い中、宸殿の南側から東を通って北側に出ます。ここから本当なら北庭が見所なんですけど全く見えません。
宸殿北側の東から「下段の間」です。そこの襖絵には、「冬の鷹野行幸図」(大阪府交野市)が描かれています。
次が「中段の間」です。襖絵は、「秋の大堰川三船之図」と「夏の葵祭之図」が描かれています。
最後が「上段の間」になります。床の間には「遠山流水」が、襖絵には「春の桜花」が描かれています。
本当なら北庭が見渡せる所に幕が掛かっていますが、拝観者が飽きないように工夫されてますね。その幕の向こう側にスリッパに履き替えて、せり出した舞台から北庭を見ます。
ここから綺麗に五重塔が見えてます。本来ならもう少し北庭は広々としてますが仕方ないですね。
この庭園の策定者は不明だそうで、元禄年間(1688~1704年)に現在の形になったと思われてるみたいです。火災で焼失していた寝殿が、1914年(大正3年)に建てられ、その頃に7代目小川治兵衛により庭園が改修されました。
次に渡り廊下通って「霊明殿」に向かいます。御殿の中では唯一の仏堂で、本来ならここから綺麗に宸殿が見える筈なんです。
霊明殿は、1910年(明治43年)に、薬師如来と歴代門跡の位牌を祀る持仏堂として創建されました。
霊明殿の北側に出ると、仏様のお供えを作る所・・・「閼伽棚」があります。通常はここから降りることができませんが、この奥に茶室「飛濤亭」があります。
霊明殿から渡り廊下を通って、「黒書院」に入りました。1910年(明治43年)の再建です。
最初の部屋はビデオ鑑賞になっています。そして次が「竹の間」と呼ばれ、堂本印象画伯が手がけました。
最後の部屋が「上段の間及び秋草の間」です。北側にも一部屋あった筈ですがスルーしてしまいました。
1909年(明治42年)に安井門跡の宸殿の遺構を移築し「黒書院」となりました。襖絵は、1931年(昭和6年)の第59代宇多天皇一千年、弘法大師一千百年御忌の記念事業により、堂本印象画伯によって描かれました。
黒書院と白書院の間には、小さな「中庭」があります。苔むして綺麗ですが、紅葉も見所だそうです。
最後に寄ったのが、尾中康宏 Onaka Yasuhiro 現代アート展『1000枚の千手観音』でした。
私は入りましたが、殆どの方はスルーされてました。ポスターでは11月24日までとなっていますが、好評につき12月8日(日)まで延長されたようです。
9時35分にここを出ました・・・と言うより、役所に行ってた妻から用事が終わったと連絡あったので、帰りも迎えを頼んだから急いで出たのが本音。
本坊表門を出て重要文化財に指定されてる「二王門」を撮りました。最近まで工事用の覆いで見えませんでしたが、何の工事か分かりませんが終わったようです。
9時40分に「東門」に着くと、遅れてくると勝手に思ってゆっくり歩いてここまで来ましたが、門を出たら先に着いてました。
殆ど同時だったようで、嵐電で帰るつもりが迎えに来てくれてラッキーです。ここから二人で実家に行きました。
【仁和寺 御殿】
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