まるごと美術館 報恩寺へ
妙蓮寺を出て、寺之内通りを東に進み堀川通りに出ます。前途したとおりここは信号が長いですが、辛抱強く待って堀川を渡り、そのまま東に進むと左手に宝鏡寺が見えて来ますが、こちらも「秋の人形展」が開催中でした。ただ宝鏡寺は撮影禁止のため寄り道はしません。その宝鏡寺を超えて直ぐの通りを下がると西側に大きな石碑が見えて来ます。本日2度目の訪問は「まるごと美術館 報恩寺」でした。
報恩寺は、通常非公開の寺院です。2012年(平成24年)11月10日に「第48回 京都非公開文化財特別公開」時に行きました。
まず「東門」前に架かる「石橋」は、豊臣秀吉公の侍尼であった仁舜尼によって寄進されたもので、1602年(慶長7年)の刻銘が認められ、現在は埋められてしまった小川ですが、桃山時代の代表的な石造美術品として知られいます。
東門を入ると右手に「稲荷社」があって、その先を進むと「玄関」がありました。2012年(平成24年)11月の訪問時では、ここは出口専用でしたが、ここから入るようです。
10時33分に玄関を入ると、先客が1名が受付をされてました。次に私が受付に行き、拝観料800円を納めると、“由緒書き”と“まるごと美術館”の作品が案内されているビックリサイズのパンフを貰いました。多分B2サイズはあるでしょう、正直持って帰るのに苦労しました。
受付の方に写真撮影の有無を訪ねました。そしたら「堂内にある“鳴虎図”は撮影禁止にさせてもらってます」と言われました。そしたら堂内はOKなんでしょう。
玄関から入って、先に「書院」に入りました。まるごと美術館の作品は・・・と探しましたが・・・。
ここには作品は置いてありません。それは、あのB2サイズで見所が書かれています。作品が何も無いのでありのままの報恩寺が見られます。ここにある灯籠や鐘楼など光の角度によって見方を変え楽しむようですが、私には難しかったです。
この書院から「内庭」が見えています。そして驚いたことにスリッパを履いて降りることができました。
庭に降りて先ずは四阿の「求楽庵」を撮りました。お茶席の待合でしょうけど、ここには茶室は無いそうです。
こちらが「本堂」です。この角度から見る本堂は貴重です。前回の訪問時では、庭に降りてないと思います。
こちらが「書院」です。ここからスリッパを借りて庭に降りてきました。
庭に降りての見所も前途したとおり書いてありますが、正直分かりません。何も無いありのままの報恩寺を楽しむ・・・のでしょう。
内庭から書院に上がって、次に向かうのは「本堂」です。
久しぶりに堂内に入りました。2012年(平成24年)11月には、多くの参拝者で賑わってましたが、ご覧のように誰も居ません。
滅多に公開されなので、ガイドさんの話を聞くのも私は立って聞いてたように記憶しています。先程東門から入りましたが、行列は、あの門まで続いていました。堂内に入って、先に「鳴虎図」を見ました。寅年のお正月三が日しか公開されない・・・12年に一度、3日だけ。当然、ここに架かっているのは聞くまでもなくレプリカです。
本物はあと3年後ですね。レプリカも撮影禁止でしたのでパンフからの抜粋です。左と右と見る角度によって、虎が小さくなったり大きくなったり見えます。ここの係の方に教えて貰いました。
15世紀の中国の明で描かれた縦160㌢、横102㌢の絹製で、豊臣秀吉が『虎の図』を聚楽第に持ち帰ったが、夜毎吠えて眠れず、寺に返したという。それ以降、鳴虎の報恩寺と呼ばれるようになりました。
本堂内陣の中央には、ご本尊の阿弥陀三尊像(鎌倉時代作)が祀られています。また向かって左には「黒田長政薨去の間」があります。
黒田長政公は、江戸幕府2代将軍徳川秀忠公、3代将軍家光公揃って参内のため上洛し二条城に泊まります。それと前後して筑前の黒田長政公が江戸より入洛し、報恩寺に泊まりました。そのとき持病を発症し将軍よりの見舞いや大坂から呼んだ名医の手当の甲斐もなく1623年(元和9年)8月4日に報恩寺客殿にて亡くなり、博多筥崎にて火葬、同地に葬られました。
上段の間には、黒田孝高(官兵衛・如水)公や黒田長政公の位牌も安置されてます。特別拝観時に比べてライトが付いてないので暗いです。前回は、多くの方が来られるのでライトが付いていたよな気がします。
この日は本堂から外への出入りは出来ませんでした。この庭園もガラス越しでしか見られなかったです。写真は2012年(平成24年)11月のものです。
10時41分に受付のある玄関から出て行きました。結局先客の1名を除くと誰も来られなかったです。前回は行列ができるほどの参拝者でしたが、こんなに少ないと拍子抜け・・・でした。
玄関の横にあったのが「地蔵堂」です。こちらも撮り忘れてました・・・前回のものです。
前回の記憶をたよりに奥に進んでいくと、本堂へ通じる門は閉まってて、入れません。その横には「第111代・後西天皇皇女 賀陽宮(桂徳院宮)の墓」がありました。
ここから次へと向かうつもりで東門に向かっていると、ひっそり「賓頭盧尊」がありました。
最後に、前回はガイドさんに教えてもらった「撞かずの鐘」に寄りました。この逸話は微かに覚えてましたね。
西陣一帯の織屋では、この鐘が撞かれる音で仕事の初めと終わりの合図としてました。ある織屋の中違いばかりしている織女と丁稚が報恩寺の鐘の音の数で口論となり、15歳の丁稚が、8つといい、13歳の織女が、9つと言い争い、その日の夕刻の鐘の音で、賭けをすることにした。そして夕方になり鐘は8回しか撞かれなかった。しかし本来は、百八の煩悩を除滅することを願い、その12分の1である9つ数を撞かれるのが正解でしてたが、 丁稚は、寺男に頼み、その日だけ8つのみ鐘をついてもらった。織女は、負けた悲しさと悔しさで、鐘楼で首をつり自殺をしてしまいました。それ以来、この鐘をつくと不吉なことが起こるため、供養をし、朝夕に撞くのをやめ、 現在は除夜と大法要の時にのみに撞くことになったと言われています。
10時45分に東門から出ていきました。“まるごと美術館”で、ここ報恩寺が入っているのを知り、この寺に行くために、この日回る予定を入れた次第です。
報恩寺の正式名称は、「堯天山佛牙院鳴虎報恩寺」といいます。初めは「法園寺」として鎌倉時代の名匠快慶作の阿弥陀如来像を本尊とする天台宗浄土兼学の寺して創建され、室町時代の1501年(文亀元年)に後柏原天皇の勅旨で寺号も「報恩寺」と改められ浄土宗の寺院となりました。一条高倉付近にあったものを、1585年(天正13年)に豊臣秀吉によって現在地に移されました。
開催場所・・・報恩寺
開催期間・・・2019年11月16日(土)〜12月8日(日)
拝観時間・・・10時~16時
拝観料・・・・800円(小学生以下無料)
キュレーター:DENKITOMBO
2012年(平成24年)11月10日以来の訪問でしたが、何も無い報恩寺を楽しんで、次へと向かいました。今日は数カ所回るので少々ハードです。
【報恩寺】
報恩寺は、通常非公開の寺院です。2012年(平成24年)11月10日に「第48回 京都非公開文化財特別公開」時に行きました。
まず「東門」前に架かる「石橋」は、豊臣秀吉公の侍尼であった仁舜尼によって寄進されたもので、1602年(慶長7年)の刻銘が認められ、現在は埋められてしまった小川ですが、桃山時代の代表的な石造美術品として知られいます。
東門を入ると右手に「稲荷社」があって、その先を進むと「玄関」がありました。2012年(平成24年)11月の訪問時では、ここは出口専用でしたが、ここから入るようです。
10時33分に玄関を入ると、先客が1名が受付をされてました。次に私が受付に行き、拝観料800円を納めると、“由緒書き”と“まるごと美術館”の作品が案内されているビックリサイズのパンフを貰いました。多分B2サイズはあるでしょう、正直持って帰るのに苦労しました。
受付の方に写真撮影の有無を訪ねました。そしたら「堂内にある“鳴虎図”は撮影禁止にさせてもらってます」と言われました。そしたら堂内はOKなんでしょう。
玄関から入って、先に「書院」に入りました。まるごと美術館の作品は・・・と探しましたが・・・。
ここには作品は置いてありません。それは、あのB2サイズで見所が書かれています。作品が何も無いのでありのままの報恩寺が見られます。ここにある灯籠や鐘楼など光の角度によって見方を変え楽しむようですが、私には難しかったです。
この書院から「内庭」が見えています。そして驚いたことにスリッパを履いて降りることができました。
庭に降りて先ずは四阿の「求楽庵」を撮りました。お茶席の待合でしょうけど、ここには茶室は無いそうです。
こちらが「本堂」です。この角度から見る本堂は貴重です。前回の訪問時では、庭に降りてないと思います。
こちらが「書院」です。ここからスリッパを借りて庭に降りてきました。
庭に降りての見所も前途したとおり書いてありますが、正直分かりません。何も無いありのままの報恩寺を楽しむ・・・のでしょう。
内庭から書院に上がって、次に向かうのは「本堂」です。
久しぶりに堂内に入りました。2012年(平成24年)11月には、多くの参拝者で賑わってましたが、ご覧のように誰も居ません。
滅多に公開されなので、ガイドさんの話を聞くのも私は立って聞いてたように記憶しています。先程東門から入りましたが、行列は、あの門まで続いていました。堂内に入って、先に「鳴虎図」を見ました。寅年のお正月三が日しか公開されない・・・12年に一度、3日だけ。当然、ここに架かっているのは聞くまでもなくレプリカです。
本物はあと3年後ですね。レプリカも撮影禁止でしたのでパンフからの抜粋です。左と右と見る角度によって、虎が小さくなったり大きくなったり見えます。ここの係の方に教えて貰いました。
15世紀の中国の明で描かれた縦160㌢、横102㌢の絹製で、豊臣秀吉が『虎の図』を聚楽第に持ち帰ったが、夜毎吠えて眠れず、寺に返したという。それ以降、鳴虎の報恩寺と呼ばれるようになりました。
本堂内陣の中央には、ご本尊の阿弥陀三尊像(鎌倉時代作)が祀られています。また向かって左には「黒田長政薨去の間」があります。
黒田長政公は、江戸幕府2代将軍徳川秀忠公、3代将軍家光公揃って参内のため上洛し二条城に泊まります。それと前後して筑前の黒田長政公が江戸より入洛し、報恩寺に泊まりました。そのとき持病を発症し将軍よりの見舞いや大坂から呼んだ名医の手当の甲斐もなく1623年(元和9年)8月4日に報恩寺客殿にて亡くなり、博多筥崎にて火葬、同地に葬られました。
上段の間には、黒田孝高(官兵衛・如水)公や黒田長政公の位牌も安置されてます。特別拝観時に比べてライトが付いてないので暗いです。前回は、多くの方が来られるのでライトが付いていたよな気がします。
この日は本堂から外への出入りは出来ませんでした。この庭園もガラス越しでしか見られなかったです。写真は2012年(平成24年)11月のものです。
10時41分に受付のある玄関から出て行きました。結局先客の1名を除くと誰も来られなかったです。前回は行列ができるほどの参拝者でしたが、こんなに少ないと拍子抜け・・・でした。
玄関の横にあったのが「地蔵堂」です。こちらも撮り忘れてました・・・前回のものです。
前回の記憶をたよりに奥に進んでいくと、本堂へ通じる門は閉まってて、入れません。その横には「第111代・後西天皇皇女 賀陽宮(桂徳院宮)の墓」がありました。
ここから次へと向かうつもりで東門に向かっていると、ひっそり「賓頭盧尊」がありました。
最後に、前回はガイドさんに教えてもらった「撞かずの鐘」に寄りました。この逸話は微かに覚えてましたね。
西陣一帯の織屋では、この鐘が撞かれる音で仕事の初めと終わりの合図としてました。ある織屋の中違いばかりしている織女と丁稚が報恩寺の鐘の音の数で口論となり、15歳の丁稚が、8つといい、13歳の織女が、9つと言い争い、その日の夕刻の鐘の音で、賭けをすることにした。そして夕方になり鐘は8回しか撞かれなかった。しかし本来は、百八の煩悩を除滅することを願い、その12分の1である9つ数を撞かれるのが正解でしてたが、 丁稚は、寺男に頼み、その日だけ8つのみ鐘をついてもらった。織女は、負けた悲しさと悔しさで、鐘楼で首をつり自殺をしてしまいました。それ以来、この鐘をつくと不吉なことが起こるため、供養をし、朝夕に撞くのをやめ、 現在は除夜と大法要の時にのみに撞くことになったと言われています。
10時45分に東門から出ていきました。“まるごと美術館”で、ここ報恩寺が入っているのを知り、この寺に行くために、この日回る予定を入れた次第です。
報恩寺の正式名称は、「堯天山佛牙院鳴虎報恩寺」といいます。初めは「法園寺」として鎌倉時代の名匠快慶作の阿弥陀如来像を本尊とする天台宗浄土兼学の寺して創建され、室町時代の1501年(文亀元年)に後柏原天皇の勅旨で寺号も「報恩寺」と改められ浄土宗の寺院となりました。一条高倉付近にあったものを、1585年(天正13年)に豊臣秀吉によって現在地に移されました。
開催場所・・・報恩寺
開催期間・・・2019年11月16日(土)〜12月8日(日)
拝観時間・・・10時~16時
拝観料・・・・800円(小学生以下無料)
キュレーター:DENKITOMBO
2012年(平成24年)11月10日以来の訪問でしたが、何も無い報恩寺を楽しんで、次へと向かいました。今日は数カ所回るので少々ハードです。
【報恩寺】
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