令和元年度 第55回京都非公開文化財特別公開 廬山寺へ
昨夜、鰻 廣川に行きましたが、この日も朝早くから出掛けます。昨夜姉に「京都迎賓館行ったことある?」と尋ねたら、「赤坂迎賓館は何度か行ってるけど京都は知らない」って。それなら「行ってみる?」と聞くと「行きたい」となったで、この日も朝早くから出掛けることになりました。
車は、いつもの京都御苑内にある中立売駐車場ではなく、東側の「清和院駐車場」に9時前に入れました。京都迎賓館は10時に開館するので、それまで、11月1日(金)から奉祝 天皇陛下御即位と題して令和元年度 第55回京都非公開文化財特別公開が始まった寺院を案内しょうと思ってました。それが京都御苑の東にある 廬山寺です。
通常拝観している廬山寺ですが、普段お目にかかれない寺宝が公開されているので、来て見た訳です。でも、私は2015年(平成27年)5月10日に見ているですけど・・・。
廬山寺の「医薬門」から境内に入りました。あとでガイドさんが説明してくれますが「紫式部邸宅址」の石碑も門前に立っています。
また、門前には「慶光天皇 廬山寺陵」の文字が見えます。廬山寺の東側にあるようですが未訪でした。この日も予定はありせん。
医薬門を入って境内に入ります。右手に「鐘楼」「筆塚」を見たあと、本堂玄関に向かうと臨時の拝観受付所がありました。
本堂玄関前にあった「紫式部歌碑」です。「有馬山 いなのささ原 風吹けば いでそよ人を忘れやはする」(大貳三位)、「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲隠れにし 夜半の月かな」(紫式部)とあります。
ここでは受付もガイドさんも学生さんでした。受付にて拝観料800円の3人分を納めて堂内へ。ここは通常拝観しているので、寺宝以外は撮影OKでした・・・当然でしょう。
入ると「源氏の庭」にて、学生さんがガイドしてくれます。その話を私ら3人で聞きました。(途中でお一人来られてので最終的には4名)
廬山寺は、天台圓浄宗の大本山で、正式にはは廬山天台講寺(ろざんてんだいこうじ)といいます。元三大師良源により宮中に参内する宿坊として938年(天慶元年)に京都の北、船岡山の山麓に開いた輿願金剛院が始まりとされています。元三大師良源は、第十八世天台座主になられた方で、比叡山の復興に努められ、命日が正月3日であることから元三大師と呼ばれるようになりました。その後、1245年(寛元3年)住心房覚瑜上人らよって、廬山寺は出雲路に開かれますが、南北朝時代に輿願金剛院と廬山寺の二ケ寺を兼務した明導照源上人により統合され、この時より廬山天台講寺と改め、円、密、戒、浄の四宗兼学道場となりました。その後、応仁の乱の兵火に遭い伽藍は焼失してしまい、1571年(元亀3年)の織田信長の比叡山焼き討ち時に、危機に扮しますが、第106代正親町天皇の勅命により危機を免れました。元々廬山寺は船岡山の山麓にあったため、その前の通りは今でも廬山寺通りと呼ばれており、現在のこの場所に移転してきたのは1573年(天正元年)と言われています。時代は遡り1965年(昭和40年)に歴史学者・角田文衞により、紫式部の邸宅址であることが判明しました。こちらの邸宅は紫式部の曾祖父藤原兼輔が邸宅を構え、その広い邸宅は鴨川の西側の堤防沿いにあったため、堤邸と呼ばれ兼輔は、堤中納言と呼ばれました。そのため、ここの庭園は整備され「源氏の庭」と名付けられ、桔梗が綺麗に咲き誇ります。本堂は、1708年(宝永5年)と1788年(天明8年)に火災に見舞われ焼失してます。1794年(寛政6年)第119代光格天皇が仙洞御所の一部を移築し再建されたものです。これは光格天皇の父親・閑院宮典仁親王の葬儀を執り行うためでした。ご本尊は阿弥陀三尊像で、中央に阿弥陀如来、右に観音菩薩、左に勢至菩薩が祀られており、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて造られ定朝様式たと言われています。
桔梗の見頃は、とっくに過ぎてますが、まだ数輪咲いてました。京都古文化保存協会主催の特別拝観では、全面撮影禁止になりますが、普段から拝観しているので庭園だけはOKとなったのでしょう。
次に寺宝です。これを見に来たと言ってもいいです「明智光秀念持仏」で、姉にも見て欲しかったので連れてきましたが・・・あんまり感心なかったみたい・・・です。
私は、「平成27年度 春季京都非公開文化財特別公開」で、元三大師堂が公開されたとき堂内で見たように覚えていますが、久しぶりのため再度見に来た次第です。
明智光秀公の念持仏と言われる地蔵菩薩像です。念持仏とは毎日手を合わせて拝んでいたと言われる仏様のことで、今で言う仏壇の原型とも言われています。1571年(元亀3年)の織田信長の比叡山焼き討ち時に、第106代正親町天皇が勅命を出されますが、それを承けたまわったのが明智光秀で、それが縁で廬山寺に念持仏を寄進されました。この地蔵菩薩のお顔が磨り減っています。これは毎日明智光秀が祈願する際、お顔を擦りつけて祈願していたのではないかと言われています。また、光秀は戦の時にも持ち歩いていたのでしょう、地蔵菩薩がいつでも持ち出せるように台から直ぐに離れるようになっていました。右には不動明王像、左には毘沙門天像が祀られいますが、こちらは持ち運ぶ事は出来ないようになっています。武将の念持仏として、地蔵菩薩は珍しく、上杉謙信は毘沙門天で知られています。
あと、別室にて正親町天皇宸翰女房奉書(重文)、徳川家康公と豊臣秀吉公の安堵状、光格天皇御遺品などを鑑賞し、ここを出て行きました。
まだ10時には早かったので、「御土居跡」を見に行きました。京都以内で遺構が残っている数少ない廬山寺の御土居です。
ここを出る前に「元三大師堂」に寄りました。平成27年度 春季京都非公開文化財特別公開では内部が公開されましたが・・・今回は残念でした。
帰りは「山門」から出ました。時計の針は9時38分で、まだ時間がありますが、これ以上の寄り道はできません。
それで、ここの前が梨木神社があるので、ここに寄ってから京都迎賓館に行くことにしました。
【廬山寺】
車は、いつもの京都御苑内にある中立売駐車場ではなく、東側の「清和院駐車場」に9時前に入れました。京都迎賓館は10時に開館するので、それまで、11月1日(金)から奉祝 天皇陛下御即位と題して令和元年度 第55回京都非公開文化財特別公開が始まった寺院を案内しょうと思ってました。それが京都御苑の東にある 廬山寺です。
通常拝観している廬山寺ですが、普段お目にかかれない寺宝が公開されているので、来て見た訳です。でも、私は2015年(平成27年)5月10日に見ているですけど・・・。
廬山寺の「医薬門」から境内に入りました。あとでガイドさんが説明してくれますが「紫式部邸宅址」の石碑も門前に立っています。
また、門前には「慶光天皇 廬山寺陵」の文字が見えます。廬山寺の東側にあるようですが未訪でした。この日も予定はありせん。
医薬門を入って境内に入ります。右手に「鐘楼」「筆塚」を見たあと、本堂玄関に向かうと臨時の拝観受付所がありました。
本堂玄関前にあった「紫式部歌碑」です。「有馬山 いなのささ原 風吹けば いでそよ人を忘れやはする」(大貳三位)、「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲隠れにし 夜半の月かな」(紫式部)とあります。
ここでは受付もガイドさんも学生さんでした。受付にて拝観料800円の3人分を納めて堂内へ。ここは通常拝観しているので、寺宝以外は撮影OKでした・・・当然でしょう。
入ると「源氏の庭」にて、学生さんがガイドしてくれます。その話を私ら3人で聞きました。(途中でお一人来られてので最終的には4名)
廬山寺は、天台圓浄宗の大本山で、正式にはは廬山天台講寺(ろざんてんだいこうじ)といいます。元三大師良源により宮中に参内する宿坊として938年(天慶元年)に京都の北、船岡山の山麓に開いた輿願金剛院が始まりとされています。元三大師良源は、第十八世天台座主になられた方で、比叡山の復興に努められ、命日が正月3日であることから元三大師と呼ばれるようになりました。その後、1245年(寛元3年)住心房覚瑜上人らよって、廬山寺は出雲路に開かれますが、南北朝時代に輿願金剛院と廬山寺の二ケ寺を兼務した明導照源上人により統合され、この時より廬山天台講寺と改め、円、密、戒、浄の四宗兼学道場となりました。その後、応仁の乱の兵火に遭い伽藍は焼失してしまい、1571年(元亀3年)の織田信長の比叡山焼き討ち時に、危機に扮しますが、第106代正親町天皇の勅命により危機を免れました。元々廬山寺は船岡山の山麓にあったため、その前の通りは今でも廬山寺通りと呼ばれており、現在のこの場所に移転してきたのは1573年(天正元年)と言われています。時代は遡り1965年(昭和40年)に歴史学者・角田文衞により、紫式部の邸宅址であることが判明しました。こちらの邸宅は紫式部の曾祖父藤原兼輔が邸宅を構え、その広い邸宅は鴨川の西側の堤防沿いにあったため、堤邸と呼ばれ兼輔は、堤中納言と呼ばれました。そのため、ここの庭園は整備され「源氏の庭」と名付けられ、桔梗が綺麗に咲き誇ります。本堂は、1708年(宝永5年)と1788年(天明8年)に火災に見舞われ焼失してます。1794年(寛政6年)第119代光格天皇が仙洞御所の一部を移築し再建されたものです。これは光格天皇の父親・閑院宮典仁親王の葬儀を執り行うためでした。ご本尊は阿弥陀三尊像で、中央に阿弥陀如来、右に観音菩薩、左に勢至菩薩が祀られており、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて造られ定朝様式たと言われています。
桔梗の見頃は、とっくに過ぎてますが、まだ数輪咲いてました。京都古文化保存協会主催の特別拝観では、全面撮影禁止になりますが、普段から拝観しているので庭園だけはOKとなったのでしょう。
次に寺宝です。これを見に来たと言ってもいいです「明智光秀念持仏」で、姉にも見て欲しかったので連れてきましたが・・・あんまり感心なかったみたい・・・です。
私は、「平成27年度 春季京都非公開文化財特別公開」で、元三大師堂が公開されたとき堂内で見たように覚えていますが、久しぶりのため再度見に来た次第です。
明智光秀公の念持仏と言われる地蔵菩薩像です。念持仏とは毎日手を合わせて拝んでいたと言われる仏様のことで、今で言う仏壇の原型とも言われています。1571年(元亀3年)の織田信長の比叡山焼き討ち時に、第106代正親町天皇が勅命を出されますが、それを承けたまわったのが明智光秀で、それが縁で廬山寺に念持仏を寄進されました。この地蔵菩薩のお顔が磨り減っています。これは毎日明智光秀が祈願する際、お顔を擦りつけて祈願していたのではないかと言われています。また、光秀は戦の時にも持ち歩いていたのでしょう、地蔵菩薩がいつでも持ち出せるように台から直ぐに離れるようになっていました。右には不動明王像、左には毘沙門天像が祀られいますが、こちらは持ち運ぶ事は出来ないようになっています。武将の念持仏として、地蔵菩薩は珍しく、上杉謙信は毘沙門天で知られています。
あと、別室にて正親町天皇宸翰女房奉書(重文)、徳川家康公と豊臣秀吉公の安堵状、光格天皇御遺品などを鑑賞し、ここを出て行きました。
まだ10時には早かったので、「御土居跡」を見に行きました。京都以内で遺構が残っている数少ない廬山寺の御土居です。
ここを出る前に「元三大師堂」に寄りました。平成27年度 春季京都非公開文化財特別公開では内部が公開されましたが・・・今回は残念でした。
帰りは「山門」から出ました。時計の針は9時38分で、まだ時間がありますが、これ以上の寄り道はできません。
それで、ここの前が梨木神社があるので、ここに寄ってから京都迎賓館に行くことにしました。
【廬山寺】
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