2020年(令和2年) 京都十六社 朱印めぐり 御霊神社(上御霊神社)へ
1月10日(金)は、午前に「京都十六社朱印めぐり」で、わら天神宮と今宮神社を回りました。そして昼から、府庁前で用事を済ませた後、御霊神社(上御霊神社)に行きました。
車で、烏丸通りを北上していたら、ユニホーム姿の若いランナーが走っています。それも何組か・・・多分、12日(日)に開催される“都道府県別女子駅伝”の選手でしょう練習されてました。車は烏丸上御霊通りを右折し御霊神社(上御霊神社)の南門から車を境内に入れ駐車します。
15時4分に車を止めて、南門近くにある「手水舎」を使って清めます。そしたら直ぐの本殿に直行です。
御祭神は、崇道天皇、井上大皇后、他戸親王、藤原大夫人、橘大夫、文大夫、火雷神、吉備大臣、三社明神、和光明神で、御利益は、こころしづめ・厄除開運・学業成就です。
本殿から振り向くと「拝殿」があって、毎年ここに綺麗な生け花があるので楽しみにしてました。
今日は、ここだけで帰るので時間があります。少し散策します。先ずは「絵馬所」から。最近修復されたので綺麗です。
その奥には、新たに造られた石碑がって、「応仁の乱550年」を記念し、勃発の地である御霊神社(上御霊神社)境内に建てられました。
その横には、新しい木札があったので撮ってみました。“御大礼奉祝 記念植樹「紫木蓮」令和元年11月18日”と書かれています。
ここの正門である西門近くにある「手水舎」です。この奥に社務所があるので御朱印を貰いに行きます。
社務所に行くと誰も居ないのでベルを押しました。そしたら奥から出て来られて無事いただけました。これで残り3社となりました。
このあと楼門から外に出てみます。この神社は正門も本殿も西に向いて建っているので珍しいかと思います。
上御霊通りに出て西鳥居の全景を撮りました。車や人が通るので一瞬のチャンスでしたね。
その横には「応仁の乱勃発の地」と書かれた石碑もあります。かつて御霊の森と呼ばれてて、ここ上御霊神社の境内で、1467年(文正2年)1月18日の早朝、合戦が始まりました。
ここの「楼門」は、寛政年間(1789~1801)に再建されもので、両脇には“随神”も鎮座しています。
再び楼門から境内に入ってきました。ここには私が居た間、常に何名かは入って来られます。そして“京都十六社朱印めぐり”の紙袋を持って・・・。このあと境内に点在する石碑を見ていきます。
「俳聖松尾芭蕉の句碑」1690年(元禄3年)上御霊神社に参詣したとき「半日は神を友にや年忘」の句を奉納されました。
「富士谷御杖 詞碑」は江戸時代の著名な国学者で詩は本殿造営(文政年間)に際し励ましのため寄せられたものです。詩碑は本殿前南側にあります。
新谷日本の言語学者で「新村 出(しんむら いずる)の歌碑」です。「上御霊のみやしろに 詣でてよめる 千早振神のみぐみ深くして 八十ぢに満つる幸を得にけり」と、1956年(昭和31年)に詠まれました。
この枝垂れ桜は「創祀1200年記念植樹」と石碑に書かれています。ただ枝におみくじが括り付けてあります・・・これはいただけないかとおものですが・・・。
本殿を右周りで散策です。南門近くにあるので「清明心の像」です。1979年(昭和54年)国際児童年にあたり作成されました。
次に「福寿稲神社」です。御祭神は、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、御利益は五穀豊穣、福徳円満、長寿延命、生業繁栄でした。
反時計回りで回っています。こちらは「神輿庫」でしょう。令和元年、神輿は京都御所に入りました。
ことらは石標と神明鳥居から「神明神社」です。御祭神は、天照大神(あまてらすおおみきみ)でしょう。
境内の北東隅には「嚴島神社」があります。左手前にひっそりと社標である石碑が立っています。
八幡宮、疫除社、白髭社、淡嶋社、大舞宮、天満宮、多度神社、貴船社、春原社、荒神社、稲葉神社、今宮神社、熊野神社、愛宕神社、熱田神社、多賀神社、厳嶋神社、猿田彦神社、貴布禰社、丹生神社、梅宮神社、八坂神社、廣田神社、吉田神社、日吉神社、住吉神社、龍田神社、廣瀬神社、大和神社、石上神社、大神社、大原神社、平野神社、春日神社、松尾神社、八幡神社、賀茂神社、鴨神社・・・38社が併祀されています。
最後に「花御所八幡宮」です。この辺りには室町幕府三代将軍足利義満が造営した“花の御所”があって、その鎮守として源氏の氏神である八幡神が勧請された名残でしょう。
ざっと回ってから車に乗り、ここを15時16分に出て行きました。こうして無料で止められるのは助かりました。
あと残り3社残っていますが、無理せずこれで帰りました。
【御霊神社(上御霊神社)】
車で、烏丸通りを北上していたら、ユニホーム姿の若いランナーが走っています。それも何組か・・・多分、12日(日)に開催される“都道府県別女子駅伝”の選手でしょう練習されてました。車は烏丸上御霊通りを右折し御霊神社(上御霊神社)の南門から車を境内に入れ駐車します。
15時4分に車を止めて、南門近くにある「手水舎」を使って清めます。そしたら直ぐの本殿に直行です。
御祭神は、崇道天皇、井上大皇后、他戸親王、藤原大夫人、橘大夫、文大夫、火雷神、吉備大臣、三社明神、和光明神で、御利益は、こころしづめ・厄除開運・学業成就です。
本殿から振り向くと「拝殿」があって、毎年ここに綺麗な生け花があるので楽しみにしてました。
今日は、ここだけで帰るので時間があります。少し散策します。先ずは「絵馬所」から。最近修復されたので綺麗です。
その奥には、新たに造られた石碑がって、「応仁の乱550年」を記念し、勃発の地である御霊神社(上御霊神社)境内に建てられました。
その横には、新しい木札があったので撮ってみました。“御大礼奉祝 記念植樹「紫木蓮」令和元年11月18日”と書かれています。
ここの正門である西門近くにある「手水舎」です。この奥に社務所があるので御朱印を貰いに行きます。
社務所に行くと誰も居ないのでベルを押しました。そしたら奥から出て来られて無事いただけました。これで残り3社となりました。
このあと楼門から外に出てみます。この神社は正門も本殿も西に向いて建っているので珍しいかと思います。
上御霊通りに出て西鳥居の全景を撮りました。車や人が通るので一瞬のチャンスでしたね。
その横には「応仁の乱勃発の地」と書かれた石碑もあります。かつて御霊の森と呼ばれてて、ここ上御霊神社の境内で、1467年(文正2年)1月18日の早朝、合戦が始まりました。
ここの「楼門」は、寛政年間(1789~1801)に再建されもので、両脇には“随神”も鎮座しています。
再び楼門から境内に入ってきました。ここには私が居た間、常に何名かは入って来られます。そして“京都十六社朱印めぐり”の紙袋を持って・・・。このあと境内に点在する石碑を見ていきます。
「俳聖松尾芭蕉の句碑」1690年(元禄3年)上御霊神社に参詣したとき「半日は神を友にや年忘」の句を奉納されました。
「富士谷御杖 詞碑」は江戸時代の著名な国学者で詩は本殿造営(文政年間)に際し励ましのため寄せられたものです。詩碑は本殿前南側にあります。
新谷日本の言語学者で「新村 出(しんむら いずる)の歌碑」です。「上御霊のみやしろに 詣でてよめる 千早振神のみぐみ深くして 八十ぢに満つる幸を得にけり」と、1956年(昭和31年)に詠まれました。
この枝垂れ桜は「創祀1200年記念植樹」と石碑に書かれています。ただ枝におみくじが括り付けてあります・・・これはいただけないかとおものですが・・・。
本殿を右周りで散策です。南門近くにあるので「清明心の像」です。1979年(昭和54年)国際児童年にあたり作成されました。
次に「福寿稲神社」です。御祭神は、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、御利益は五穀豊穣、福徳円満、長寿延命、生業繁栄でした。
反時計回りで回っています。こちらは「神輿庫」でしょう。令和元年、神輿は京都御所に入りました。
ことらは石標と神明鳥居から「神明神社」です。御祭神は、天照大神(あまてらすおおみきみ)でしょう。
境内の北東隅には「嚴島神社」があります。左手前にひっそりと社標である石碑が立っています。
八幡宮、疫除社、白髭社、淡嶋社、大舞宮、天満宮、多度神社、貴船社、春原社、荒神社、稲葉神社、今宮神社、熊野神社、愛宕神社、熱田神社、多賀神社、厳嶋神社、猿田彦神社、貴布禰社、丹生神社、梅宮神社、八坂神社、廣田神社、吉田神社、日吉神社、住吉神社、龍田神社、廣瀬神社、大和神社、石上神社、大神社、大原神社、平野神社、春日神社、松尾神社、八幡神社、賀茂神社、鴨神社・・・38社が併祀されています。
最後に「花御所八幡宮」です。この辺りには室町幕府三代将軍足利義満が造営した“花の御所”があって、その鎮守として源氏の氏神である八幡神が勧請された名残でしょう。
ざっと回ってから車に乗り、ここを15時16分に出て行きました。こうして無料で止められるのは助かりました。
あと残り3社残っていますが、無理せずこれで帰りました。
【御霊神社(上御霊神社)】
この記事へのコメント