千二百羅漢の石像 愛宕念仏寺へ
二尊院で車に乗り、次にやって来たのが奥嵯峨にある愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ)です。姪が、ここの写真を見て、インスタ映えのネタとして来て見たいと言ったので連れて来た次第です。
10時8分につつに着くと、予想外の出来事があって、ここの駐車場が閉鎖されていました。それで残念ながら妻は帰ることに・・・妻は何回か来てるので残念でも無かったです。
仁王門をくぐり左手にある「拝観受付所」で拝観料を納めます。(ここは出してくれたので、いくらか知りません)
ここには、2014年(平成26年)5月と2017年(平成29年)6月に来ています。それ以前にも来てるので、数回は来てるでしょう。
ここには1200躰の羅漢さんが居ます。一つ一つ表情が違うので見てて飽きないですね。最初は、きつい石段を登り「地蔵堂」を目指します。
4人で堂内に入りました。内部には「愛宕本地仏火除地蔵尊」が祀られておりお参りさせてもらいました。古くから延命地蔵さんとしても親しまれています。
地蔵堂から見た、仁王門です。ここまで登ってきた訳で、「今日は、よう登らすなぁ」と言われましたが・・・。
次に「ふれ愛観音堂」に入りました。この観音様は、手で触れて拝むために造られました。目の不自由な人たちに、仏との縁を結んでもらうために生まれた観音様だそうです。
次に「本堂」に向かいます。何回か入っているので要領は知ってて、少しだけ扉が開いている所から堂内に入れるんです。もちろん靴は脱いで外に置いて置きます。
堂内内陣中央には、ご本尊の「十一面千手観世音菩薩立像」(重要文化財)を安置。左手には「訶梨帝(かりてい)菩薩」が祀られています。訶梨帝菩薩は、鬼子母神とされる安産と子宝授与の神様です。
この本堂からまだまだ奥に進むと、「多宝塔」があって、中央には石造りのお釈迦様が、左には伝教大師像が祀られています。
多宝塔の右側には、2000年(平成12年)4月2日と書かれた「愛染橋」があって、この愛宕念仏寺でもっとも高い所には「虚空蔵菩薩像」が祀られています。今日は、ここまで上がりませんでした。
行きと反対側の階段を下る途中には「三宝の鐘」があって、姉の孫が弾きたそうにしていたので、「撞いても良いよ」と言うと喜んで、撞くのは良いけど、やり過ぎるので親に注意されてました。この鐘は、それぞれ音色が違います。
ここでは、4名の方が先に来られていました。現在は、清滝行きの京都バスが1時間に1本しかありません。交通の便が悪くなったのに結構来られているなぁ・・・が感想です。
現在の京都市右京区の西院から東山区の東山方面にかけてを、昔は愛宕郡(おだぎぐん)と言ったそうです。奈良時代の末に、第45代・聖武天皇の娘の第46・48代・孝謙天皇(称徳)が東山松原通の地に寺を建てました。それが愛宕(おたぎ)の地に建てられたので愛宕寺と言いました。ところが平安時代の初め、鴨川の洪水で多くの堂宇が流れて廃寺となってしまいました。その復興を命じられたのが天台宗の千観内供(伝燈大法師)でした。その千観(918~984年)が、いつも念仏を唱えていたので「念仏上人」と 称され、寺名も愛宕念仏寺と言われるようになったとのことです。その後、荒廃を繰り返し最後は、本堂、地蔵堂、仁王門を残すばかりとなりました。1922年(大正11年)に奥嵯峨の地に移転され、1955年(昭和30年)西村公朝が住職となり、同寺の復興に当たりましたが、最初は困難を極めたそうです。1981年(昭和56年)、寺門興隆を祈念して、境内を500羅漢の石像で充満させたいと発願し、その10年後には1200羅漢を達成し「千二百羅漢落慶法要」を厳修され、今日に至っています。
ここには10時31分に出ていきました。再び妻に電話して迎えに来て貰いますが、こちらも歩いてくだり途中で待ち合わせすることにしました。
【愛宕念仏寺】
10時8分につつに着くと、予想外の出来事があって、ここの駐車場が閉鎖されていました。それで残念ながら妻は帰ることに・・・妻は何回か来てるので残念でも無かったです。
仁王門をくぐり左手にある「拝観受付所」で拝観料を納めます。(ここは出してくれたので、いくらか知りません)
ここには、2014年(平成26年)5月と2017年(平成29年)6月に来ています。それ以前にも来てるので、数回は来てるでしょう。
ここには1200躰の羅漢さんが居ます。一つ一つ表情が違うので見てて飽きないですね。最初は、きつい石段を登り「地蔵堂」を目指します。
4人で堂内に入りました。内部には「愛宕本地仏火除地蔵尊」が祀られておりお参りさせてもらいました。古くから延命地蔵さんとしても親しまれています。
地蔵堂から見た、仁王門です。ここまで登ってきた訳で、「今日は、よう登らすなぁ」と言われましたが・・・。
次に「ふれ愛観音堂」に入りました。この観音様は、手で触れて拝むために造られました。目の不自由な人たちに、仏との縁を結んでもらうために生まれた観音様だそうです。
次に「本堂」に向かいます。何回か入っているので要領は知ってて、少しだけ扉が開いている所から堂内に入れるんです。もちろん靴は脱いで外に置いて置きます。
堂内内陣中央には、ご本尊の「十一面千手観世音菩薩立像」(重要文化財)を安置。左手には「訶梨帝(かりてい)菩薩」が祀られています。訶梨帝菩薩は、鬼子母神とされる安産と子宝授与の神様です。
この本堂からまだまだ奥に進むと、「多宝塔」があって、中央には石造りのお釈迦様が、左には伝教大師像が祀られています。
多宝塔の右側には、2000年(平成12年)4月2日と書かれた「愛染橋」があって、この愛宕念仏寺でもっとも高い所には「虚空蔵菩薩像」が祀られています。今日は、ここまで上がりませんでした。
行きと反対側の階段を下る途中には「三宝の鐘」があって、姉の孫が弾きたそうにしていたので、「撞いても良いよ」と言うと喜んで、撞くのは良いけど、やり過ぎるので親に注意されてました。この鐘は、それぞれ音色が違います。
ここでは、4名の方が先に来られていました。現在は、清滝行きの京都バスが1時間に1本しかありません。交通の便が悪くなったのに結構来られているなぁ・・・が感想です。
現在の京都市右京区の西院から東山区の東山方面にかけてを、昔は愛宕郡(おだぎぐん)と言ったそうです。奈良時代の末に、第45代・聖武天皇の娘の第46・48代・孝謙天皇(称徳)が東山松原通の地に寺を建てました。それが愛宕(おたぎ)の地に建てられたので愛宕寺と言いました。ところが平安時代の初め、鴨川の洪水で多くの堂宇が流れて廃寺となってしまいました。その復興を命じられたのが天台宗の千観内供(伝燈大法師)でした。その千観(918~984年)が、いつも念仏を唱えていたので「念仏上人」と 称され、寺名も愛宕念仏寺と言われるようになったとのことです。その後、荒廃を繰り返し最後は、本堂、地蔵堂、仁王門を残すばかりとなりました。1922年(大正11年)に奥嵯峨の地に移転され、1955年(昭和30年)西村公朝が住職となり、同寺の復興に当たりましたが、最初は困難を極めたそうです。1981年(昭和56年)、寺門興隆を祈念して、境内を500羅漢の石像で充満させたいと発願し、その10年後には1200羅漢を達成し「千二百羅漢落慶法要」を厳修され、今日に至っています。
ここには10時31分に出ていきました。再び妻に電話して迎えに来て貰いますが、こちらも歩いてくだり途中で待ち合わせすることにしました。
【愛宕念仏寺】
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