新撰組ゆかりの地 壬生寺へ
まもなく大型連休が始まる4月27日(月)に、私の故郷である壬生寺に寄りました。京都にも緊急事態宣言が出され、嵐山をはじめ観光地はどこもガラガラと新聞やテレビで報道されていますが、本当に今、嵐山が空いているかどうか、自分で確かめて見た訳では無いので実際は分かりません。ただ京都市嵐山観光駐車は閉場されているので、毎年大型連休では大混雑する嵐山・・・今年はどうでしょうか。
壬生寺の、この辺りの道路は、東西・南北、一方通行となっていますが、当たり前の話ですが、迷うことなく目的のコインパーキングに車を止めることができました。車から降りて見る景色は、昔からそんなに変わっていません。本当に懐かしいですね。
境内には「北門」から入りました。入ると直ぐの左手に保育園があるので、自転車やパイクで子供さんを預けに来られています。
私も、父にスクーターの後ろに乗せられ連れて来られていたので、半世紀以上前のことですが、昔と変わりませんね。変わったのは保育園の向かいに老人ホームが建ったことぐらです。
北門を入って西側に「三福川稲荷堂(みぶがわいなりどう)」があります。ここから東に行くと、壬生川通りがあるので、その地名が由来のようですね。今は、住宅街ですが近世までは壬生寺周辺は湿地帯で、田園風景に覆われていたようです。京野菜で知られる「壬生菜」の産地でもあったようで、五穀豊穣の神を祀る当社に祈願に来られる人が多かったようです。
懐かしい保育園の手前には重要文化財に指定されている「大念佛堂(狂言堂)」があって2017年(平成29年)1月28日の「京の冬の旅」で内部に入りました。ここでは毎年GW期間中に「壬生狂言」が演じられてます。
壬生狂言「令和2年 春の公開」4月29日~5月5日は中止されました。ただし4月29日のみ関係者だけで開催。
余談ですが、この保育園の前に老人ホームかあって、何台も何台もディサービスの車が入ってきます。この光景は昔と大きく変わりました。
壬生寺の御朱印は、こちらの門を入っていただけます。緊急事態宣言が出され、各寺院では朱印の受付も停止されているところもありますが、ここは受付されていたようです。
運動会は、ここで行われたんですが、私は覚えてません。写真が残っているから、ここだと分かりますが・・・そう言えば、卒園式の写真もここでした。
久しぶりに来たので、先にお参りです。ご近所の方でしょう数名の方がお参りに来られていました。この本堂、今は鉄筋コンクリート製で再建されています。
壬生寺の本堂は、1962年(昭和37年)年7月25日午前2時頃、放火により出火し全焼しました。幼い私は、殆ど記憶がありませんが、東の空が真っ赤に染まっていたのは覚えています。本堂の再建は、1970年(昭和45年)に鉄筋コンクリート製で再建されました。
通常非公開の本堂には入れませんが、毎年GW期間中に、「春の特別公開」として特別に公開され本堂に入れましたが、今年は新型コロナウイルス感染予防から中止されました。
次に「水掛地蔵」に寄りました。この石仏は、1649年(慶安2年)の作で、水を掛けてお祈りすると、一つだけ願いが叶うと言われています。
この奥に壬生塚があって、私の子供の頃は、自由に行き来できました。今は、拝観料が必要になりましたが・・・。
その東隣が「辨天堂」があって、1894年(明治27年)の再建です。本尊の秘仏・辨財天は、清水寺の延命院から移されたもので、弘法大師作と伝わります。
さらに東横に行くと「阿弥陀堂」があって、壬生塚に入るのは、ここで拝観料を払います。ただ、コロナウイルス感染予防から拝観は停止されています。
前途したとおり、私が子供の頃は自由に遊べました。塚の中にある「近藤勇胸像」も昔からありましたね。池に亀が居たことも覚えています。この阿弥陀堂は、2002年(平成14年)7月に完成したので、それ以降でしょうね拝観料が居るようになったのは・・・。
この地蔵菩薩・・・石仏は、「夜啼き地蔵」あるいは、「おせき地蔵」とも呼ばれ、病気平癒や幼児の夜泣きどめにご利益があるという。元は壬生寺の中院に祀られていました。
阿弥陀堂を更に東に行けば、句碑があって「土蜘蛛は 壬生の若葉に 栖みもせめ」と読み取れます。土蜘蛛は壬生狂言の演目ですね。
その句碑を挟んで「一夜天神堂」があります。ここも案内版があるので読んでみると・・・。
その昔、菅原道真公が筑紫へ流罪となった時に、この壬生の地に親戚を訪れ一夜を明かし別れを惜しんだという伝説にがあって、壬生の地に道実公をお祀りするようにというお告げに因んで神像を刻み、「一夜天神」を建立されました。御利益は学業上達との事で参拝され方も多いといいます。1852年(嘉永5年)の再建。堂内の中央に一夜天神、向かって右に金毘羅大権現、左に壬生寺の鎮守である六所明神が祀られています。
そして、坊城通りに出ます。ここには壬生寺の「表門」かあって、この前の風景も昔から変わらないです。
坊城通り沿いも懐かしいので散策したのを我慢して、再び境内に入ります。正面に向かって北側を見て来たので、次は南側を見ていきます。
先程、通った阿弥陀堂の向かいには壬生寺の塔頭寺院「中院」があります。洛陽三十三所観音霊場の第二十八番札所札所でもあります。
ご本尊は、十一面観世音菩薩(鎌倉時代作)。1624年~1643年(寛永年間)に、本良律師により創建されました。現在の本堂は、1815年(文化12年)の再建。明治時代に律宗の修行道場となってから中院と呼ばれるようになった。
その前に「手水舎」があって、ここには柄杓は置いてありました。新型コロナウイルス感染予防から撤去されるのが多いのにね・・・。
中院の西隣には「京都十二薬師霊場第四番札所本尊歯薬師如来三尊像」が祀られています。脇侍に向かって右、「日光菩薩像」、左に「月光菩薩像」が祀られていました。
2017年(平成29年)1月28日に来たときは、内部の写真は撮れましたが、今日来たら撮影禁止と書いてありました。
こちらは「鐘楼」です。前途したとおり、この前が子供の頃の遊び場でした。焼失してしまった「本堂」も、今では貴重な写真です。
南門から境内を出ていきますが、その前に「千体仏塔」を撮りました。この塔の石仏は明治時代、京都市の区画整理の際に各地から集められたもので、町時代からの阿弥陀如来像や地蔵菩薩像など1000体が、ミャンマーのパゴダに似て円錐形に安置されています。
この塔は、私の子供の頃には無かったです。調べると1988年(平成元年)に建立されていました。
壬生寺の境内を「南門」から出て行きました。私にとって、この南門がもっとも思い出深いもので、壬生寺に来たら必ず、ここを出て散策します。
この辺りの風景も、あまり変わってないので、懐かしいです。子供の頃の写真と同じ風景がそこには残っています。
南門を出ると、そこは仏光寺通りですが、車を置いてのが千本通りです・・・が、地元では東新道通りと呼んでた通りです。いったん車まで戻りましたが、このコインパーキングは、40分200円です。まだ時間が残っているので、連休中のお菓子でも買いに行こうと思い、そちらに向かいました。
【壬生寺】
壬生寺の、この辺りの道路は、東西・南北、一方通行となっていますが、当たり前の話ですが、迷うことなく目的のコインパーキングに車を止めることができました。車から降りて見る景色は、昔からそんなに変わっていません。本当に懐かしいですね。
境内には「北門」から入りました。入ると直ぐの左手に保育園があるので、自転車やパイクで子供さんを預けに来られています。
私も、父にスクーターの後ろに乗せられ連れて来られていたので、半世紀以上前のことですが、昔と変わりませんね。変わったのは保育園の向かいに老人ホームが建ったことぐらです。
北門を入って西側に「三福川稲荷堂(みぶがわいなりどう)」があります。ここから東に行くと、壬生川通りがあるので、その地名が由来のようですね。今は、住宅街ですが近世までは壬生寺周辺は湿地帯で、田園風景に覆われていたようです。京野菜で知られる「壬生菜」の産地でもあったようで、五穀豊穣の神を祀る当社に祈願に来られる人が多かったようです。
懐かしい保育園の手前には重要文化財に指定されている「大念佛堂(狂言堂)」があって2017年(平成29年)1月28日の「京の冬の旅」で内部に入りました。ここでは毎年GW期間中に「壬生狂言」が演じられてます。
壬生狂言「令和2年 春の公開」4月29日~5月5日は中止されました。ただし4月29日のみ関係者だけで開催。
余談ですが、この保育園の前に老人ホームかあって、何台も何台もディサービスの車が入ってきます。この光景は昔と大きく変わりました。
壬生寺の御朱印は、こちらの門を入っていただけます。緊急事態宣言が出され、各寺院では朱印の受付も停止されているところもありますが、ここは受付されていたようです。
運動会は、ここで行われたんですが、私は覚えてません。写真が残っているから、ここだと分かりますが・・・そう言えば、卒園式の写真もここでした。
久しぶりに来たので、先にお参りです。ご近所の方でしょう数名の方がお参りに来られていました。この本堂、今は鉄筋コンクリート製で再建されています。
壬生寺の本堂は、1962年(昭和37年)年7月25日午前2時頃、放火により出火し全焼しました。幼い私は、殆ど記憶がありませんが、東の空が真っ赤に染まっていたのは覚えています。本堂の再建は、1970年(昭和45年)に鉄筋コンクリート製で再建されました。
通常非公開の本堂には入れませんが、毎年GW期間中に、「春の特別公開」として特別に公開され本堂に入れましたが、今年は新型コロナウイルス感染予防から中止されました。
次に「水掛地蔵」に寄りました。この石仏は、1649年(慶安2年)の作で、水を掛けてお祈りすると、一つだけ願いが叶うと言われています。
この奥に壬生塚があって、私の子供の頃は、自由に行き来できました。今は、拝観料が必要になりましたが・・・。
その東隣が「辨天堂」があって、1894年(明治27年)の再建です。本尊の秘仏・辨財天は、清水寺の延命院から移されたもので、弘法大師作と伝わります。
さらに東横に行くと「阿弥陀堂」があって、壬生塚に入るのは、ここで拝観料を払います。ただ、コロナウイルス感染予防から拝観は停止されています。
前途したとおり、私が子供の頃は自由に遊べました。塚の中にある「近藤勇胸像」も昔からありましたね。池に亀が居たことも覚えています。この阿弥陀堂は、2002年(平成14年)7月に完成したので、それ以降でしょうね拝観料が居るようになったのは・・・。
この地蔵菩薩・・・石仏は、「夜啼き地蔵」あるいは、「おせき地蔵」とも呼ばれ、病気平癒や幼児の夜泣きどめにご利益があるという。元は壬生寺の中院に祀られていました。
阿弥陀堂を更に東に行けば、句碑があって「土蜘蛛は 壬生の若葉に 栖みもせめ」と読み取れます。土蜘蛛は壬生狂言の演目ですね。
その句碑を挟んで「一夜天神堂」があります。ここも案内版があるので読んでみると・・・。
その昔、菅原道真公が筑紫へ流罪となった時に、この壬生の地に親戚を訪れ一夜を明かし別れを惜しんだという伝説にがあって、壬生の地に道実公をお祀りするようにというお告げに因んで神像を刻み、「一夜天神」を建立されました。御利益は学業上達との事で参拝され方も多いといいます。1852年(嘉永5年)の再建。堂内の中央に一夜天神、向かって右に金毘羅大権現、左に壬生寺の鎮守である六所明神が祀られています。
そして、坊城通りに出ます。ここには壬生寺の「表門」かあって、この前の風景も昔から変わらないです。
坊城通り沿いも懐かしいので散策したのを我慢して、再び境内に入ります。正面に向かって北側を見て来たので、次は南側を見ていきます。
先程、通った阿弥陀堂の向かいには壬生寺の塔頭寺院「中院」があります。洛陽三十三所観音霊場の第二十八番札所札所でもあります。
ご本尊は、十一面観世音菩薩(鎌倉時代作)。1624年~1643年(寛永年間)に、本良律師により創建されました。現在の本堂は、1815年(文化12年)の再建。明治時代に律宗の修行道場となってから中院と呼ばれるようになった。
その前に「手水舎」があって、ここには柄杓は置いてありました。新型コロナウイルス感染予防から撤去されるのが多いのにね・・・。
中院の西隣には「京都十二薬師霊場第四番札所本尊歯薬師如来三尊像」が祀られています。脇侍に向かって右、「日光菩薩像」、左に「月光菩薩像」が祀られていました。
2017年(平成29年)1月28日に来たときは、内部の写真は撮れましたが、今日来たら撮影禁止と書いてありました。
こちらは「鐘楼」です。前途したとおり、この前が子供の頃の遊び場でした。焼失してしまった「本堂」も、今では貴重な写真です。
南門から境内を出ていきますが、その前に「千体仏塔」を撮りました。この塔の石仏は明治時代、京都市の区画整理の際に各地から集められたもので、町時代からの阿弥陀如来像や地蔵菩薩像など1000体が、ミャンマーのパゴダに似て円錐形に安置されています。
この塔は、私の子供の頃には無かったです。調べると1988年(平成元年)に建立されていました。
壬生寺の境内を「南門」から出て行きました。私にとって、この南門がもっとも思い出深いもので、壬生寺に来たら必ず、ここを出て散策します。
この辺りの風景も、あまり変わってないので、懐かしいです。子供の頃の写真と同じ風景がそこには残っています。
南門を出ると、そこは仏光寺通りですが、車を置いてのが千本通りです・・・が、地元では東新道通りと呼んでた通りです。いったん車まで戻りましたが、このコインパーキングは、40分200円です。まだ時間が残っているので、連休中のお菓子でも買いに行こうと思い、そちらに向かいました。
【壬生寺】
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