史蹟 天塚古墳へ
5月11日(月)は、私にとって大型連休の最終日でした
。そこで以前から行ってみようと思っていた天塚古墳(あまづかこふん)に行ってみました。
場所は、地図を見ていても少々分かりづらくて・・・太秦広隆寺の前の道路を南に下っていくと、右手に京都民医連中央病院の交差点に出ます。その信号を左折しますが、この辺りのコインパーキングに車を止めました。そこから東に歩くこと5分ぐらいで、(有)谷口水道工業の看板があるので、そこを南に下がっていき、突き当たりの手前を西に入り、最初の路地を南に下がると・・・。
この古墳の入口には伯清稲荷社の鳥居があるので、それが目印です。住宅街の中を歩いていき、鳥居をくぐり石段を上がります。


石段を上がると、右と左と歩いて行けますが、私は右周りで奥に進んで行くことにしました。




おそらく古墳の後円部を右周りで歩いて行ってるものと、この時は思っていました・・・が、ただ石棺入口が見当たらない・・・
。






多分、後円部の最上部まで来て見ました。もちろん石棺入口は見当たりません。ひょっとして、行きすぎたのかなぁ・・・と思い、奥へ奥へ歩いて行くと・・・。

それで、歩いて行くと最初の出発点に戻って来ました。このとき初めて後円部を一周したのが分かった次第です。
そして、再び右周りで歩いて行くことに。一周歩いているときは、何処に出るのか不安で不安、出発点に戻って来たときは「あれっ」て、それが感想です。
それで右周りで、再び歩いて行くと、目立たない左手に石棺入口を見付けました。最初は知らずに行き過ぎてましたね
。
蛇塚古墳も、そうでしたが大陸から渡来してこの地域を開いた、秦氏一族の墓でしょうね。内部には祭壇が置かれていました。
石室を出ると、向かいは三菱自動車工業の工場です。古代の遺跡が、こんな所にありました。
帰る時に、入口にあった京都市の説明書きを写真に撮りました。ここでは読まずに家に帰ってから読んでみると・・・
。
この古墳は6世紀前半に造られたと推定される前方後円墳です。嵯峨野・太秦古墳群のなかで、史蹟蛇塚古墳に次ぐ全長70㍍余りの規模をもっている。墳丘には珍しく後円部西側の無袖式と、西側くびれ部の片袖式と、2基の横穴式石室がある。1887年(明治20年)の石室発掘調査の際には、銅・鏡・馬具・勾玉・鉄轡など約400点の副葬品が出土した。それらは今、京都国立博物館や京都大学にて保管されている。近辺の古墳分布や遺物などを考え合わせると、この天塚は近くの蛇塚古墳や甲塚古墳と同じく、大陸から渡来してこの地域を開いた、秦氏一族の墓と推定され、往時の土木技術や一族の勢力圏を探る貴重な手がかりとなっている。石室内には現在、伯清稲荷大神の祭壇が置かれ、巨石の組み合わせを見ることができます。
この天塚古墳を知ったのは、随分昔の話で・・・ウェブリブログでは古いお付き合いのおーちゃんさんの「いつものことではあるけれど」の記事で知りました。2011年(平成23年)のことですが、不思議と覚えてて行ってみようと思いつつ、今年になってしまった訳です。それで帰ってから案内文を読んでみると、"2基の横穴式石室がる"と書かれています。それで、もう一度、いつものことではあるけれどの記事を読み直してみると、やっぱり石室が2基あるようです。そうなったら、もう一基を確認したくなって・・・5月19日(火)に近くまで行く用があったので、再び訪れてみました。



前回、見てなかったのは石段を上がった「社務所」です。それで、真っ先に行ってみると左手に石室入り口が見えました。
ただ、社務所が閉まっているので、これ以上は入ることが出来ません。これは仕方ないですね、今日は、少し急ぐので、これを確認できただけでも良かったです。早々に戻りました。
それで、いろいろ画像を探していると、この石室内部の写真を見付けました。案内にもあったように珍しいですね、2基の石室がありました。
この古墳の入口に「白清稲荷大神」の石柱が読み取れます。この古墳の発掘調査の際、木嶋坐天照御魂神社(蚕ノ社)の境内に移されたようです。
先般、訪れた木嶋坐天照御魂神社(蚕ノ社)の境内に、確かにありました。それも、ここと同じく石室内に・・・。何か関連があるかも知れませんね。
最後に、この石碑は「清水山古墳跡」と書かれています。横穴式石室を持つ前方後円墳で、5世紀末~6世紀初頭の首長墓と考えられています・・・が、1973年(昭和48年)に、宅地開発により破壊され消滅しました。
この太秦や広沢一帯には、秦氏一族の墓が点在しているようです。探せば、まだまだあるかも知れません。新型コロナウイルスの影響で、まだ京都では緊急事態宣言が出されたままです。早く、普通の日常に戻る日を願っています。
【天塚古墳】


場所は、地図を見ていても少々分かりづらくて・・・太秦広隆寺の前の道路を南に下っていくと、右手に京都民医連中央病院の交差点に出ます。その信号を左折しますが、この辺りのコインパーキングに車を止めました。そこから東に歩くこと5分ぐらいで、(有)谷口水道工業の看板があるので、そこを南に下がっていき、突き当たりの手前を西に入り、最初の路地を南に下がると・・・。
この古墳の入口には伯清稲荷社の鳥居があるので、それが目印です。住宅街の中を歩いていき、鳥居をくぐり石段を上がります。


















そして、再び右周りで歩いて行くことに。一周歩いているときは、何処に出るのか不安で不安、出発点に戻って来たときは「あれっ」て、それが感想です。






この古墳は6世紀前半に造られたと推定される前方後円墳です。嵯峨野・太秦古墳群のなかで、史蹟蛇塚古墳に次ぐ全長70㍍余りの規模をもっている。墳丘には珍しく後円部西側の無袖式と、西側くびれ部の片袖式と、2基の横穴式石室がある。1887年(明治20年)の石室発掘調査の際には、銅・鏡・馬具・勾玉・鉄轡など約400点の副葬品が出土した。それらは今、京都国立博物館や京都大学にて保管されている。近辺の古墳分布や遺物などを考え合わせると、この天塚は近くの蛇塚古墳や甲塚古墳と同じく、大陸から渡来してこの地域を開いた、秦氏一族の墓と推定され、往時の土木技術や一族の勢力圏を探る貴重な手がかりとなっている。石室内には現在、伯清稲荷大神の祭壇が置かれ、巨石の組み合わせを見ることができます。
この天塚古墳を知ったのは、随分昔の話で・・・ウェブリブログでは古いお付き合いのおーちゃんさんの「いつものことではあるけれど」の記事で知りました。2011年(平成23年)のことですが、不思議と覚えてて行ってみようと思いつつ、今年になってしまった訳です。それで帰ってから案内文を読んでみると、"2基の横穴式石室がる"と書かれています。それで、もう一度、いつものことではあるけれどの記事を読み直してみると、やっぱり石室が2基あるようです。そうなったら、もう一基を確認したくなって・・・5月19日(火)に近くまで行く用があったので、再び訪れてみました。




ただ、社務所が閉まっているので、これ以上は入ることが出来ません。これは仕方ないですね、今日は、少し急ぐので、これを確認できただけでも良かったです。早々に戻りました。
それで、いろいろ画像を探していると、この石室内部の写真を見付けました。案内にもあったように珍しいですね、2基の石室がありました。
この古墳の入口に「白清稲荷大神」の石柱が読み取れます。この古墳の発掘調査の際、木嶋坐天照御魂神社(蚕ノ社)の境内に移されたようです。
先般、訪れた木嶋坐天照御魂神社(蚕ノ社)の境内に、確かにありました。それも、ここと同じく石室内に・・・。何か関連があるかも知れませんね。
最後に、この石碑は「清水山古墳跡」と書かれています。横穴式石室を持つ前方後円墳で、5世紀末~6世紀初頭の首長墓と考えられています・・・が、1973年(昭和48年)に、宅地開発により破壊され消滅しました。
この太秦や広沢一帯には、秦氏一族の墓が点在しているようです。探せば、まだまだあるかも知れません。新型コロナウイルスの影響で、まだ京都では緊急事態宣言が出されたままです。早く、普通の日常に戻る日を願っています。
【天塚古墳】
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