京都市右京区京北町 山國護國神社へ
当初の予定では、愛宕山登山のあとは、昼頃に自宅へ送り届けて貰う予定でした。私もそのつもりで家を出ましたが、まだ昼前には時間的に余裕があるので、以前から行って見たいと思っていた、京都市右京区京北町にある「山國神社に行かないか?」と誘ったところ、「行きましょう」と言う話になって、車は京北町に入って来た訳です。京北町は、2005年(平成17年)3月31日まで京都府北桑田郡でした。現在は京都市右京区に属しています。
友人も、山國神社は知らなかったようで、車は「道の駅 ウッディー京北」に入り、地図を確認してから、そちらに向かうと・・・私も、スマホを見ながら助手席からアドバスすると標識が出ていたので、車はそちらに向かいました。私のスマホでは左折だったのに、標識は右折・・・あまりの暑さで勘違いしたんやなぁ・・・と。
事前に調べて来たら間違え無かったでしょうけど、山國神社だと思ってきたのが違ってたのは・・・後程気づきます。
こちらには9時33分に着きました。以前調べた風景と何だか違和感がありましたが、本殿に向かって石段を上がって行きます。
山国護國神社は、王政復古の政変に際し、勤皇隊の総司令官、西園寺公望公の要請に呼応して、山国庄の名主等が農民兵を組織して、勤皇隊に加わり、鳥羽、伏見の戦いはもとより遠く江戸、奥羽地方まで転戦した事は史実に基ずいても明らかな所であります。其の山国隊が、山国庄に明治2年2月21日凱旋した日に伍長会を開いて、辻村薬師山に、この度の戦いで、戦病死をした隊士の招魂場を設けることを議した後、2月24日全隊員が先ず五社明神に参拝して報告祭を催し、その足で先日決議した、薬師山に戦病死をした、七隊士の墓標をたて招魂祭を催した。その隊士の名は次ぎの通りである。
中西市太郎(江戸)、高室重蔵(江戸)、田中浅太郎(安塚)、高室治兵江(安塚)、田中伍右江門(上野)、北小路万之助(京都)、新井兼吉(安塚)
1875年(明治8年)12月15日最初の招魂祭を京都府の監督官の臨席のもとに催したがこれが恒例となって、毎年山国村村民が多数参列して現在に至るまで盛大に執行せられている。尚この間に1882年(明治15)年7月14日京都府は「自今招魂社祭祀及修繕等の諸経費は皆官費を以て被支給候事」、の通達を出し、1945年(昭和20年)の終戦に至るまで官費をもって招魂社の諸費は賄れて来た。又、1883年(明治16年)8月には社殿を新築し、石棚を造り招魂場としての体裁を整えた。招魂社が1869年(明治2年)に設けられて以来1883年(明治16年)までに支出した全員は二千余円の多額にのぼる旨が記録されている。憲法が改められて以来官営の招魂社は認められなくなり、1945年(昭和20年)法人山国郷社となり、1951年(昭和26年)宗教法人山国護国神社となって町民崇敬の社となっている。明治百年祭より、日清、日露、大東亜戦の戦病死者を1967年(昭和42年)より合祀されている。
石段途中にあった由緒です。社名は山国護國神社と書いてあるので、私が勘違いして覚えるの間違えたんだなぁ・・・と、思い込んでました。気がついたのは、ここを出発してからです。
愛宕山に登ったあとに来ましたが、そんなに疲れてないので、ぐんぐん上へ登って行きます。
登り切った所に「拝殿」が、そして正面の一段高い所にある小さな社殿が「本殿」のようです。祭神は護國の英霊です。
本殿から直ぐに下に降りてきます。登る時に気になっていた石碑を見ると案内版があって、池田慶徳1837年(天保8年)~1877年(明治10年)の墓石と書いてありました。
こちらは、原六郎(進藤俊三郎)1842年(天保13年)~1933年(昭和8年)の墓石と書いてありました。
右から「原六郎(進藤俊三郎)」「河田左久馬1828年(文政11年)~1897年(明治30年)」、他山國隊の墓標。
境内には、墓標がづらり並んでいます。一つ一つ確認してませんが、最初に見た由緒書きにあるように、日清、日露、大東亜戦の戦病死者の墓標なんでしょうね。
戊辰戦争(11868~1869)の時に山国郷の名主・農民等によって組織され、官軍に参加した「山国隊」の戦病没者を祀るため、1869年(明治2年)に設けられた招魂社が始まりのようです。
鳥居をくぐった先に駐車場があったので、友人はそこに車を止めました。最初の鳥居は歩いて戻り撮ったものです。また、境内にはお寺の本堂のような建物がありましたが、詳細はわかません。
9時42分頃、ここを出ました。来た時から私が以前、調べていた山國神社との違和感は最後までありました。車は再び国道477号線に戻るため右折し、京都市内に戻るコースを進むと前方に「式内社 山國神社」と書かれた看板が見えたので、車は左折し前方に見える鳥居に向かって走らせました。
【山國護國神社】
友人も、山國神社は知らなかったようで、車は「道の駅 ウッディー京北」に入り、地図を確認してから、そちらに向かうと・・・私も、スマホを見ながら助手席からアドバスすると標識が出ていたので、車はそちらに向かいました。私のスマホでは左折だったのに、標識は右折・・・あまりの暑さで勘違いしたんやなぁ・・・と。
事前に調べて来たら間違え無かったでしょうけど、山國神社だと思ってきたのが違ってたのは・・・後程気づきます。
こちらには9時33分に着きました。以前調べた風景と何だか違和感がありましたが、本殿に向かって石段を上がって行きます。
山国護國神社は、王政復古の政変に際し、勤皇隊の総司令官、西園寺公望公の要請に呼応して、山国庄の名主等が農民兵を組織して、勤皇隊に加わり、鳥羽、伏見の戦いはもとより遠く江戸、奥羽地方まで転戦した事は史実に基ずいても明らかな所であります。其の山国隊が、山国庄に明治2年2月21日凱旋した日に伍長会を開いて、辻村薬師山に、この度の戦いで、戦病死をした隊士の招魂場を設けることを議した後、2月24日全隊員が先ず五社明神に参拝して報告祭を催し、その足で先日決議した、薬師山に戦病死をした、七隊士の墓標をたて招魂祭を催した。その隊士の名は次ぎの通りである。
中西市太郎(江戸)、高室重蔵(江戸)、田中浅太郎(安塚)、高室治兵江(安塚)、田中伍右江門(上野)、北小路万之助(京都)、新井兼吉(安塚)
1875年(明治8年)12月15日最初の招魂祭を京都府の監督官の臨席のもとに催したがこれが恒例となって、毎年山国村村民が多数参列して現在に至るまで盛大に執行せられている。尚この間に1882年(明治15)年7月14日京都府は「自今招魂社祭祀及修繕等の諸経費は皆官費を以て被支給候事」、の通達を出し、1945年(昭和20年)の終戦に至るまで官費をもって招魂社の諸費は賄れて来た。又、1883年(明治16年)8月には社殿を新築し、石棚を造り招魂場としての体裁を整えた。招魂社が1869年(明治2年)に設けられて以来1883年(明治16年)までに支出した全員は二千余円の多額にのぼる旨が記録されている。憲法が改められて以来官営の招魂社は認められなくなり、1945年(昭和20年)法人山国郷社となり、1951年(昭和26年)宗教法人山国護国神社となって町民崇敬の社となっている。明治百年祭より、日清、日露、大東亜戦の戦病死者を1967年(昭和42年)より合祀されている。
石段途中にあった由緒です。社名は山国護國神社と書いてあるので、私が勘違いして覚えるの間違えたんだなぁ・・・と、思い込んでました。気がついたのは、ここを出発してからです。
愛宕山に登ったあとに来ましたが、そんなに疲れてないので、ぐんぐん上へ登って行きます。
登り切った所に「拝殿」が、そして正面の一段高い所にある小さな社殿が「本殿」のようです。祭神は護國の英霊です。
本殿から直ぐに下に降りてきます。登る時に気になっていた石碑を見ると案内版があって、池田慶徳1837年(天保8年)~1877年(明治10年)の墓石と書いてありました。
こちらは、原六郎(進藤俊三郎)1842年(天保13年)~1933年(昭和8年)の墓石と書いてありました。
右から「原六郎(進藤俊三郎)」「河田左久馬1828年(文政11年)~1897年(明治30年)」、他山國隊の墓標。
境内には、墓標がづらり並んでいます。一つ一つ確認してませんが、最初に見た由緒書きにあるように、日清、日露、大東亜戦の戦病死者の墓標なんでしょうね。
戊辰戦争(11868~1869)の時に山国郷の名主・農民等によって組織され、官軍に参加した「山国隊」の戦病没者を祀るため、1869年(明治2年)に設けられた招魂社が始まりのようです。
鳥居をくぐった先に駐車場があったので、友人はそこに車を止めました。最初の鳥居は歩いて戻り撮ったものです。また、境内にはお寺の本堂のような建物がありましたが、詳細はわかません。
9時42分頃、ここを出ました。来た時から私が以前、調べていた山國神社との違和感は最後までありました。車は再び国道477号線に戻るため右折し、京都市内に戻るコースを進むと前方に「式内社 山國神社」と書かれた看板が見えたので、車は左折し前方に見える鳥居に向かって走らせました。
【山國護國神社】
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