青モミジが美しい二尊院へ
7月30日(木)の午前10時に、気象台より近畿地方の梅雨明けが発表されました。6月10日に梅雨入りが発表された以来、長かったですね、こんな長雨は記憶にないほどです。それもそうで、平年より10日遅く、昨年と比べても7日遅かったそうです。梅雨入り期間中の降水量も平年の倍近く降ったようで、野菜の価格が高騰し我が家の家計も痛手に。ただ、この先は高気圧の覆われて晴れる見込みで、今度は高温が予想され猛暑日が続く見込みとか。その翌日、朝から晴れるなか7月17日に注文した商品を取りに行くため車で家を出発、その店の開店時間の前に二尊院に寄って行きました。
「総門」の前に駐車場があるので、ここに車を止めました。誰も管理する人が居ないので、ここは無料です。この門を9時23分にくぐりました。
晴れの日に出掛けるのは久しぶり・・・前はいつだっかなぁ・・・と思いながら右手にある「拝観受付所」に行き、拝観料500円を納めます。
余談ですが、拝観受付所の前に大型の蜂が飛んでいて、コロナ感染予防でビニールシート越しの対応ですが、私もお寺の方も怖々でしたね。蜂がいるから先を急ぎます。
秋には真っ赤に染まる「紅葉の馬場」も、この時期には人は少ないです。でも、誰も居ないことはないです。
入って直ぐの左手に「西行法師の庵の跡」と書かれた石碑があって、「我ものと 秋の梢をおもふかな 小倉の里に 家居せしより」(西行法師)と案内版には書かれていました。
青モミジも綺麗だなぁと思い歩いて行くと次石碑が。「春深し 佛の指の 置きどころ」(丸山海道)「萩咲かす 二尊に触れて 来し風に」(丸山佳子)と書いてありました。
汗をかきながら、ゆっくり上がって行きます。青モミジも綺麗ですね、紅葉だけではありません。
登り切ると左手に進むと、最初に見るのが「黒門」ですが、ここからは入りません。
次に「勅使門」(唐門)から入ると、正面に「本堂」が見えてきます。かつては天皇の使いだけが通れた勅使門をくぐります。
「本堂」は向かって左に下駄箱があるので、そこから上がります。ちなみに左手には「納経所」もあので、御朱印はそちらでいただけます。
奈良の仏師によってつくられた本尊は二尊で、木造釈迦如来立像 と阿弥陀如来像は、ともに重要文化財に指定されています。
お参りのあと、「本堂」の南に行くと“鹿威し”の音が聞こえますが、いつものように姿が見えません。通常非公開の茶室「御園亭」に入れば見えるらしい・・・です。
再び「本堂」の北側に回り、堂内の「角倉与一翁像」を見ました。角倉了以翁の孫にあたり、京二條角倉家の初代だそうです。
本堂の北側にある「御霊屋」です。離れているのと、薄暗いので堂内は殆ど見えないです。
「本堂」の裏側にも行ってみました。そこには山の斜面を利用して「六地蔵菩薩」が安置されているので、それを見に行きました。
上から「人間道」「畜生道」「餓鬼道」「天道」「地獄道」「修羅道」の順で撮りました。多分間違いないかと・・・。
本堂を降りて、最初に向かったのが「弁天堂」で、石段下には綺麗な「手水」がありますが、これは私が毎朝聞いてるKBS京都「笑福亭晃瓶のほっかほかラジオ」のパーソナリティ、中村薫さんがブログで紹介されたものでした。
この「弁天堂」の内陣は見えませんが、手前の写真にて九頭龍大神・宇賀神が祀られているようです。
弁天堂から戻ってきたら右手の急な石段を登ります。この暑さでは身体に堪えますが頑張ります。
その前に、右手にある「角倉了以翁像」を見ていきました。解説不要でしょうけど私財を投じて、ここから近くを流れている大堰川や、東の高瀬川を私財を投じて開削した人物です。
それで、少し登った所にある「鐘楼」、ここに寄っていくと自由に弾けることが分かりました。もちろん支納してから鐘を撞きました。
石段を登り途中の左手に「二條家墓」があります・・・これは境内図で分かったものです。二條家は、五摂家のひとつで公家でした。
元の石段に少しだけ登り、次は右手に入ると江戸時代の儒学者「伊藤仁斎(1626~1705)の墓」がありました。
また元の石段に戻って、最後の一踏ん張りして登り切ると正面に「湛空廟」があって、内部には石碑が祀られており、二尊院で教えを広めた僧、湛空上人の碑が納められています。
ここまで来ると「時雨亭跡」まで必ず行きます。空は晴れてますが、足元は長雨のためか滑るんで、気を遣いました。
ここからの展望が綺麗で、少々獣道で気持ち悪いですけど来て見ると良かったと思ってしまいます。
動物が苦手で、獣のが出てくるのが怖いので直ぐに元に戻ってきました。次は著名人の墓地を通って行きます。
最初は「三條西家のお墓」で、右から「三條西実隆(さんじょうにしさねたか)」「三條西公条」「三條西実枝」でした。室町時代から戦国時代、安土桃山時代にかけての公卿・歌人のようです。
南北朝の頃より明治維新まで、「黒戸四ヶ院」の一寺として京都御所御内仏殿をお守りしていた関係上、旧宮家である「嵯峨家廟」がここにあります。
次に、江戸時代初期の数学者の「吉田光由のお墓」があり、京都の豪商角倉家の一族だそうです。
下で銅像があった「角倉了以の墓」で左端がそうです。その隣が妻の墓。その横が長男「角倉素庵の墓」その横が妻の墓でした。
次に「鷹司家墓」を超えると、上に登れる石段があって、暑くて汗だくのなか登って行くと・・・。
そこには「三帝陵」があって、右から第83代土御門天皇、第88代後嵯峨天皇、第88代亀山天皇の分骨が祀られていました。
滑りやすい石畳を慎重に下っていくと「四條流包丁塚」と書かれた石碑がありました。知らなかったので調べると、平安時代から始まると伝えられる日本料理の流派のことでした。
さらに石畳を下ると、案内版が出ていて「阪東妻三郎墓(田村家)」と書かれています。今日はそちらには行きませんでした。
石畳を降りた先に「地蔵尊」が、そしてその先に「八社宮」がありました。伊勢神宮・松尾大社・愛宕神社・石清水八幡宮・熱田神宮・日吉神社・八坂神社・北野天満宮の八社を祀っています。
汗だくになりながら、再び本堂前に戻ってきました。こちらは「小倉餡発祥之地」と書かれた石碑です。
いつもはスルーしてましたが、こちらは菖蒲谷隧道から出土した「木桶-泥桶管」が展示してあります。これは先に「吉田光由のお墓」を見て来ましたが、その吉田光長・光由の功績だそうです。
行きに見てないところを見て行くと、こちらは「しのばれむ ものともなしに 小倉山 軒端の松になれて久しき」(藤原定家)と書かれていました。
次の石碑には「小倉山 峯のもみし葉 心あらは いまひとたひの みゆき待たなむ」(藤原忠平貞信公)と書かれていました。
境内を行きはくぐらなかった「黒門」から出ました。本堂前にはタクシーの運転手に連れて来られた観光客が居ましたね、是非石段を上がって貰いたいです。
こちらを10時9分に出ました。次の予定の時間を過ぎているので予定どおりですね、ここから車に戻りました。
そして10時10分頃に小倉山荘 嵯峨落柿舎前店に行くと、けっこう混雑してました。少し待って商品を受け取り店を出ようと・・・すると数が違っていることに気づき店に戻るハプニングが。最初受付した人との連絡不足ですね、ここから自宅に戻りました。
【二尊院】
「総門」の前に駐車場があるので、ここに車を止めました。誰も管理する人が居ないので、ここは無料です。この門を9時23分にくぐりました。
晴れの日に出掛けるのは久しぶり・・・前はいつだっかなぁ・・・と思いながら右手にある「拝観受付所」に行き、拝観料500円を納めます。
余談ですが、拝観受付所の前に大型の蜂が飛んでいて、コロナ感染予防でビニールシート越しの対応ですが、私もお寺の方も怖々でしたね。蜂がいるから先を急ぎます。
秋には真っ赤に染まる「紅葉の馬場」も、この時期には人は少ないです。でも、誰も居ないことはないです。
入って直ぐの左手に「西行法師の庵の跡」と書かれた石碑があって、「我ものと 秋の梢をおもふかな 小倉の里に 家居せしより」(西行法師)と案内版には書かれていました。
青モミジも綺麗だなぁと思い歩いて行くと次石碑が。「春深し 佛の指の 置きどころ」(丸山海道)「萩咲かす 二尊に触れて 来し風に」(丸山佳子)と書いてありました。
汗をかきながら、ゆっくり上がって行きます。青モミジも綺麗ですね、紅葉だけではありません。
登り切ると左手に進むと、最初に見るのが「黒門」ですが、ここからは入りません。
次に「勅使門」(唐門)から入ると、正面に「本堂」が見えてきます。かつては天皇の使いだけが通れた勅使門をくぐります。
「本堂」は向かって左に下駄箱があるので、そこから上がります。ちなみに左手には「納経所」もあので、御朱印はそちらでいただけます。
奈良の仏師によってつくられた本尊は二尊で、木造釈迦如来立像 と阿弥陀如来像は、ともに重要文化財に指定されています。
お参りのあと、「本堂」の南に行くと“鹿威し”の音が聞こえますが、いつものように姿が見えません。通常非公開の茶室「御園亭」に入れば見えるらしい・・・です。
再び「本堂」の北側に回り、堂内の「角倉与一翁像」を見ました。角倉了以翁の孫にあたり、京二條角倉家の初代だそうです。
本堂の北側にある「御霊屋」です。離れているのと、薄暗いので堂内は殆ど見えないです。
「本堂」の裏側にも行ってみました。そこには山の斜面を利用して「六地蔵菩薩」が安置されているので、それを見に行きました。
上から「人間道」「畜生道」「餓鬼道」「天道」「地獄道」「修羅道」の順で撮りました。多分間違いないかと・・・。
本堂を降りて、最初に向かったのが「弁天堂」で、石段下には綺麗な「手水」がありますが、これは私が毎朝聞いてるKBS京都「笑福亭晃瓶のほっかほかラジオ」のパーソナリティ、中村薫さんがブログで紹介されたものでした。
この「弁天堂」の内陣は見えませんが、手前の写真にて九頭龍大神・宇賀神が祀られているようです。
弁天堂から戻ってきたら右手の急な石段を登ります。この暑さでは身体に堪えますが頑張ります。
その前に、右手にある「角倉了以翁像」を見ていきました。解説不要でしょうけど私財を投じて、ここから近くを流れている大堰川や、東の高瀬川を私財を投じて開削した人物です。
それで、少し登った所にある「鐘楼」、ここに寄っていくと自由に弾けることが分かりました。もちろん支納してから鐘を撞きました。
石段を登り途中の左手に「二條家墓」があります・・・これは境内図で分かったものです。二條家は、五摂家のひとつで公家でした。
元の石段に少しだけ登り、次は右手に入ると江戸時代の儒学者「伊藤仁斎(1626~1705)の墓」がありました。
また元の石段に戻って、最後の一踏ん張りして登り切ると正面に「湛空廟」があって、内部には石碑が祀られており、二尊院で教えを広めた僧、湛空上人の碑が納められています。
ここまで来ると「時雨亭跡」まで必ず行きます。空は晴れてますが、足元は長雨のためか滑るんで、気を遣いました。
ここからの展望が綺麗で、少々獣道で気持ち悪いですけど来て見ると良かったと思ってしまいます。
動物が苦手で、獣のが出てくるのが怖いので直ぐに元に戻ってきました。次は著名人の墓地を通って行きます。
最初は「三條西家のお墓」で、右から「三條西実隆(さんじょうにしさねたか)」「三條西公条」「三條西実枝」でした。室町時代から戦国時代、安土桃山時代にかけての公卿・歌人のようです。
南北朝の頃より明治維新まで、「黒戸四ヶ院」の一寺として京都御所御内仏殿をお守りしていた関係上、旧宮家である「嵯峨家廟」がここにあります。
次に、江戸時代初期の数学者の「吉田光由のお墓」があり、京都の豪商角倉家の一族だそうです。
下で銅像があった「角倉了以の墓」で左端がそうです。その隣が妻の墓。その横が長男「角倉素庵の墓」その横が妻の墓でした。
次に「鷹司家墓」を超えると、上に登れる石段があって、暑くて汗だくのなか登って行くと・・・。
そこには「三帝陵」があって、右から第83代土御門天皇、第88代後嵯峨天皇、第88代亀山天皇の分骨が祀られていました。
滑りやすい石畳を慎重に下っていくと「四條流包丁塚」と書かれた石碑がありました。知らなかったので調べると、平安時代から始まると伝えられる日本料理の流派のことでした。
さらに石畳を下ると、案内版が出ていて「阪東妻三郎墓(田村家)」と書かれています。今日はそちらには行きませんでした。
石畳を降りた先に「地蔵尊」が、そしてその先に「八社宮」がありました。伊勢神宮・松尾大社・愛宕神社・石清水八幡宮・熱田神宮・日吉神社・八坂神社・北野天満宮の八社を祀っています。
汗だくになりながら、再び本堂前に戻ってきました。こちらは「小倉餡発祥之地」と書かれた石碑です。
いつもはスルーしてましたが、こちらは菖蒲谷隧道から出土した「木桶-泥桶管」が展示してあります。これは先に「吉田光由のお墓」を見て来ましたが、その吉田光長・光由の功績だそうです。
行きに見てないところを見て行くと、こちらは「しのばれむ ものともなしに 小倉山 軒端の松になれて久しき」(藤原定家)と書かれていました。
次の石碑には「小倉山 峯のもみし葉 心あらは いまひとたひの みゆき待たなむ」(藤原忠平貞信公)と書かれていました。
境内を行きはくぐらなかった「黒門」から出ました。本堂前にはタクシーの運転手に連れて来られた観光客が居ましたね、是非石段を上がって貰いたいです。
こちらを10時9分に出ました。次の予定の時間を過ぎているので予定どおりですね、ここから車に戻りました。
そして10時10分頃に小倉山荘 嵯峨落柿舎前店に行くと、けっこう混雑してました。少し待って商品を受け取り店を出ようと・・・すると数が違っていることに気づき店に戻るハプニングが。最初受付した人との連絡不足ですね、ここから自宅に戻りました。
【二尊院】
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