聖徳太子誕生の地といわれる橘寺へ
石舞台古墳を出て、次に高松塚古墳を目指し車は出発しました。そしてその途中に、聖徳太子誕生の地といわれる橘寺の前を通りかかったので、ここに寄って行くことにしました。
10時58分に着いて、「西門」前の駐車場に車を止めて入り受付を探すと「拝観料は本堂へ」と書いてありました。
入ると左手に「手水舎」があります。境内には百日紅が夏の強い日差しを浴び咲いています。
先に東向きに建っている「本堂(太子堂)」に上がります。そこには受付があって、拝観料(350円)と朱印代(300円)を納めます。
「写真撮影の有無を尋ねると」「堂内は撮影禁止です。あとで往生院に行ってください。綺麗な花天井があるので撮って貰って結構です」と聞きました。
創建年代不詳。文献に初めて登場するのは天武9年(680)。聖徳太子誕生の地といわれ、当時はここに「橘の宮」という第29代欽明天皇の別宮がありました。聖徳太子建立七大寺の一つ。8世紀には金堂・講堂・五重塔など66もの堂宇が立ち並ぶ大寺院で四天王寺式伽藍配置をとっていた。現在は江戸時代の1864年(元治元年)に再建された本堂(太子殿)など、わずかな諸堂を残すのみとなっており、ご本尊に室町時代の聖徳太子坐像(重要文化財)が祀られています。橘寺という名称は、垂仁天皇の命により不老不死の果物を取りに行った田道間守が持ち帰った橘の実を植えたことに由来するのだそうです。当初は法相宗でしたが、江戸時代中期に天台宗になり比叡山延暦寺の直末で仏頭山上宮皇院橘寺、別名菩提寺とも言われている。
なお、聖徳太子建立七大寺は、法隆寺(奈良県生駒郡斑鳩町)、広隆寺(京都市右京区)、法起寺(奈良県生駒郡斑鳩町)、四天王寺(大阪市天王寺区)、中宮寺(奈良県生駒郡斑鳩町)、橘寺(奈良県高市郡明日香村)、葛木寺(奈良県橿原市和田町?)です。
堂内は、確かに撮影禁止と書いてありました。聖徳太子誕生の地と言われるだけ、堂内は太子像が多かったです。内陣まで入れて、一つ一つじっくり鑑賞させて貰いました。
暑いけど境内は散策します。こちらは「二面石」です。飛鳥時代の石造物で、右が善面、左が悪面と2つの顔が刻まれています。
写真でも日差しの強さが分かるかと思います。「本堂(太子堂)」南側に咲いていた百日紅は綺麗でした。
こちらは「放生池」と奥に「水神」が祀られていました。近寄って撮ってないので、正直池があったとは・・・知りませんでした。
境内にあった石碑で、「くろごまの あさのあがきに ふませたる をかのくさねと なづさひぞこし」(歌人・会津八一作)1908年(明治41年)の夏初めての奈良旅行で詠まれた歌が書かれていました。
先程、本堂から東を撮った写真の右側なんですが、「蓮華塚」がありました。由来は、606年(推古天皇14年)天皇の命により、聖徳太子が勝鬘経(しょうまんきょう)講讃の時降った蓮の華を埋めたと伝わる所です。
お隣に移動して「経堂」に寄ります。堂内には入れませんが、阿弥陀如来坐像が祀られていました。
受付で伺った「往生院」を目指して歩いて行きます。場所は、この猛暑でも清掃されていたお寺の方に聞きました。
1997年(平成9年)に阿弥陀三尊を本尊に念仏写経研修道場として再建されました。天井には、著名な画家の強力により260点の天井画が奉納されていました。
往生院の向かいには収蔵庫があって、春と秋に特別公開されてるようです。その前に石碑がありました。「橘の 寺の長屋に わが率寝(ゐね)し童女放髪(うなゐはなり)は髪上げつらむか」(万葉集 第16巻 3822番)でした。
往生院を出て、東に進むと「鐘楼」があって、ここにはかつて「五重塔」が建っていました。1148年(久安4年)に落雷により焼失したと書いてありました。
暑いけど「東門」まで来て見ました。ここはかつて、中門、塔、金堂、講堂が東西に一直線に並んでいました。この東門は、「中門」にあたります。
東門からまっすぐ伸びる参道を西側に戻ってくる途中に、前途した「五重の塔跡」が残っています。飛鳥時代には約40㍍の五重塔が、ここに建っていました。
こちらは「阿字池」で、聖徳太子が梵字を形取り造られたと伝わり、また「三光石」もあって聖徳太子誕生が勝鬘経(しょうまんきょう)講讃の時、日・月・星の光を放ったと伝わる石造物です。
ここまで来ると「本堂(太子堂)」が見えて来ました。そして、この大木は香木である白檀の別名「センダン」でした。
こちらは「観音堂」で、内部には入れません。ご本尊には、 如意輪観音坐像が安置されてました。
観音堂の向こう側に、前途した「蓮華塚」があった所です。蓮の華を埋めたところを大化の改新で、これを一畝と定め、面積の基準として田畑が整備されたので、「畝割塚(うねわりづか)」とも呼ばれている。
先程「本堂(太子堂」からも見えていたので気になっていた馬の銅像です。これは聖徳太子の愛馬「黒駒像」で、聖徳太子は愛馬黒駒に乗って、各地の説法に行かれたそうです。
「観音堂」と「護摩堂」が並んで経っており、その護摩堂の横には、「写経塔」と、何故か「親鸞聖人像」がありました。ここは天台宗でしたね・・・。
暑いなか、少しでも歩いたら汗が噴き出してきて・・・境内の芙蓉の花を見ながら出口に急いでいると・・・。
「西門」から出て行きますが、この辺りにかつての「講堂跡」がありました。昔は大きな規模のお寺だったんでしょうね。
ここには11時16分に出て行ったので、11時17分までには、ここの駐車場を出て行きました。乗ったら車内は猛烈に暑いので、エアコンもフルパワーで付けてくれました。そして次の目的地に急ぎます。
【橘寺】
10時58分に着いて、「西門」前の駐車場に車を止めて入り受付を探すと「拝観料は本堂へ」と書いてありました。
入ると左手に「手水舎」があります。境内には百日紅が夏の強い日差しを浴び咲いています。
先に東向きに建っている「本堂(太子堂)」に上がります。そこには受付があって、拝観料(350円)と朱印代(300円)を納めます。
「写真撮影の有無を尋ねると」「堂内は撮影禁止です。あとで往生院に行ってください。綺麗な花天井があるので撮って貰って結構です」と聞きました。
創建年代不詳。文献に初めて登場するのは天武9年(680)。聖徳太子誕生の地といわれ、当時はここに「橘の宮」という第29代欽明天皇の別宮がありました。聖徳太子建立七大寺の一つ。8世紀には金堂・講堂・五重塔など66もの堂宇が立ち並ぶ大寺院で四天王寺式伽藍配置をとっていた。現在は江戸時代の1864年(元治元年)に再建された本堂(太子殿)など、わずかな諸堂を残すのみとなっており、ご本尊に室町時代の聖徳太子坐像(重要文化財)が祀られています。橘寺という名称は、垂仁天皇の命により不老不死の果物を取りに行った田道間守が持ち帰った橘の実を植えたことに由来するのだそうです。当初は法相宗でしたが、江戸時代中期に天台宗になり比叡山延暦寺の直末で仏頭山上宮皇院橘寺、別名菩提寺とも言われている。
なお、聖徳太子建立七大寺は、法隆寺(奈良県生駒郡斑鳩町)、広隆寺(京都市右京区)、法起寺(奈良県生駒郡斑鳩町)、四天王寺(大阪市天王寺区)、中宮寺(奈良県生駒郡斑鳩町)、橘寺(奈良県高市郡明日香村)、葛木寺(奈良県橿原市和田町?)です。
堂内は、確かに撮影禁止と書いてありました。聖徳太子誕生の地と言われるだけ、堂内は太子像が多かったです。内陣まで入れて、一つ一つじっくり鑑賞させて貰いました。
暑いけど境内は散策します。こちらは「二面石」です。飛鳥時代の石造物で、右が善面、左が悪面と2つの顔が刻まれています。
写真でも日差しの強さが分かるかと思います。「本堂(太子堂)」南側に咲いていた百日紅は綺麗でした。
こちらは「放生池」と奥に「水神」が祀られていました。近寄って撮ってないので、正直池があったとは・・・知りませんでした。
境内にあった石碑で、「くろごまの あさのあがきに ふませたる をかのくさねと なづさひぞこし」(歌人・会津八一作)1908年(明治41年)の夏初めての奈良旅行で詠まれた歌が書かれていました。
先程、本堂から東を撮った写真の右側なんですが、「蓮華塚」がありました。由来は、606年(推古天皇14年)天皇の命により、聖徳太子が勝鬘経(しょうまんきょう)講讃の時降った蓮の華を埋めたと伝わる所です。
お隣に移動して「経堂」に寄ります。堂内には入れませんが、阿弥陀如来坐像が祀られていました。
受付で伺った「往生院」を目指して歩いて行きます。場所は、この猛暑でも清掃されていたお寺の方に聞きました。
1997年(平成9年)に阿弥陀三尊を本尊に念仏写経研修道場として再建されました。天井には、著名な画家の強力により260点の天井画が奉納されていました。
往生院の向かいには収蔵庫があって、春と秋に特別公開されてるようです。その前に石碑がありました。「橘の 寺の長屋に わが率寝(ゐね)し童女放髪(うなゐはなり)は髪上げつらむか」(万葉集 第16巻 3822番)でした。
往生院を出て、東に進むと「鐘楼」があって、ここにはかつて「五重塔」が建っていました。1148年(久安4年)に落雷により焼失したと書いてありました。
暑いけど「東門」まで来て見ました。ここはかつて、中門、塔、金堂、講堂が東西に一直線に並んでいました。この東門は、「中門」にあたります。
東門からまっすぐ伸びる参道を西側に戻ってくる途中に、前途した「五重の塔跡」が残っています。飛鳥時代には約40㍍の五重塔が、ここに建っていました。
こちらは「阿字池」で、聖徳太子が梵字を形取り造られたと伝わり、また「三光石」もあって聖徳太子誕生が勝鬘経(しょうまんきょう)講讃の時、日・月・星の光を放ったと伝わる石造物です。
ここまで来ると「本堂(太子堂)」が見えて来ました。そして、この大木は香木である白檀の別名「センダン」でした。
こちらは「観音堂」で、内部には入れません。ご本尊には、 如意輪観音坐像が安置されてました。
観音堂の向こう側に、前途した「蓮華塚」があった所です。蓮の華を埋めたところを大化の改新で、これを一畝と定め、面積の基準として田畑が整備されたので、「畝割塚(うねわりづか)」とも呼ばれている。
先程「本堂(太子堂」からも見えていたので気になっていた馬の銅像です。これは聖徳太子の愛馬「黒駒像」で、聖徳太子は愛馬黒駒に乗って、各地の説法に行かれたそうです。
「観音堂」と「護摩堂」が並んで経っており、その護摩堂の横には、「写経塔」と、何故か「親鸞聖人像」がありました。ここは天台宗でしたね・・・。
暑いなか、少しでも歩いたら汗が噴き出してきて・・・境内の芙蓉の花を見ながら出口に急いでいると・・・。
「西門」から出て行きますが、この辺りにかつての「講堂跡」がありました。昔は大きな規模のお寺だったんでしょうね。
ここには11時16分に出て行ったので、11時17分までには、ここの駐車場を出て行きました。乗ったら車内は猛烈に暑いので、エアコンもフルパワーで付けてくれました。そして次の目的地に急ぎます。
【橘寺】
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