日本最古の飛鳥大仏が残る飛鳥寺へ
高松塚古墳駐車場から再び川原寺跡や橘寺の前を通って、12時10分に到着したのが飛鳥寺です。ここには日本最古の飛鳥大仏が残っているので見に来ました。
12時10分に「山門」前にある駐車場に着きました。ここ二来るのは記憶が無いほど随分前で多分、子供の頃でしょう。それで駐車場が隣接していて、そんなに歩かないで済むことは知っていました。
山門前にある「飛鳥大仏標石」は、1792年(完成4年)に参拝者の道標として彫刻されたもの。台石は飛鳥寺創建時の礎石を用いたみたいです。
山門を入って、右手に「拝観受付所」があります。僧侶の方が受付されていて拝観料350円と朱印代300円を納めました。
本堂内は閉め切っているので扇風機が回っています。それでも暑いですけど・・・私は床に座りお参りさせてもらいました。
本尊は、重要文化財に指定されている「飛鳥大仏」(釈迦如来坐像)で、605年(推古天皇13年)第33代推古天皇が聖徳太子蘇我馬子及び皇子と誓いをたてて発願し。609年(推古天皇17年)鞍作鳥(止利仏師)によって造られた日本最古の仏像です。
飛鳥寺は、588年(崇峻天皇元年)蘇我馬子の発願により、596年(推古4年)に創建された仏教を保護した日本初の本格的寺院として始まりました。創建時は、三金堂(西金堂、中金堂、東金堂)が塔を囲み、中門からは回廊が延びるほど大寺でした。寺名を法興寺 元興寺、飛鳥寺(現在は安居院)とも呼ばれています。平城遷都に伴い奈良の地に新たに元興寺が建立されて以後は、本元興寺とも呼ばれました。鎌倉時代に伽藍の大半を焼失し室町時代以降は荒廃しましたが、1826年(文政9年)に再建されました。本尊の銅造釈迦如来坐像(重要文化財)は創建時、飛鳥時代の作で日本最古の仏像。飛鳥大仏の名で親しまれています。
内陣右側に祀られているのが木造「阿弥陀如来坐像」(藤原時代)です。私にはなじみのない藤原時代ですが、894年(寛平6年)の遣唐使の廃止から平家が滅亡した1285年(寿永4年)までをさすそうです。
また左側には木造「聖徳太子孝養像」(室町時代)が。聖徳太子16歳のとき、第31代用明天皇の病気回復を祈願されてるお姿です。
火災にも見舞われなくて残ったんでしょうね、今日の旅の最後になりましたが、ここも来て見て良かったです。
さほど広くない本堂を出て、「中庭」から「寺宝」を見て、出てきました。外は相変わらず猛烈に暑いです。
本堂のお隣の「思惟殿」で、ご本尊は聖観世音菩薩を先ずはお参りしました。手前には「沙羅の樹」が・・・釈迦が沙羅樹の林中で涅槃に入った時、その四方にに各日本の高い沙羅樹があったと逸話から植えられたのでしょう。
ここの「西門」を出て、80㍍ほど進むと「蘇我入鹿首塚」があります。鎌倉時代の五輪塔が、その首を埋めた塚とされたのものです。極悪人で描かれる蘇我入鹿ですが史実はどうなんでしょうね。
最後のもう一踏ん張りで80㍍を歩きました。そこにはかつての大寺だった「西門跡」が残っていました。
多分、36℃を超えているかとおもうほど暑くて暑くて、直ぐに「西門」に戻ると、手前に「地蔵尊」が祀られていました。
こちらは「鐘楼」です。1745年(延保2年)の建立で、梵鐘は戦時中に拠出されましたが、1958年(昭和33年)に新鋳されました。
「西門」から境内に入って、そのまま出て行こうと思いましたが、何かわかりませんが石碑があったので撮っておきました。もう何か調べる気力は残ってません。なお、「塔心礎」でしょうか残っていました。
こちらは「万葉歌碑」で、1937年(昭和12年)に辰巳利文氏を願主として建立。佐々木信綱博士の筆による山部赤人の長歌を,近衛文麿氏の筆による篆額が刻まれています。
外から見た「本堂」です。写真を見ても分かるかと思いますが、日差しは強烈です。
東門前まで戻って、石碑を見れば「春風以接人 秋霜以持己」と書いてあります。理由は看板にありましたが・・・。
ここで、拝観受付に戻り朱印帳を受取ました。その受付に妻の大好きな「ご当地キティ」があったので、お土産に買いました。今日のお土産はこれだけでしたが喜んでくれました。
12時30分に駐車場に戻りました。暑いけど、二組ほど入って行かれましたね、ほぼガラガラでゆっくり見られました。
ここで汗を拭い、水分の補給を自販機で買って出て行きました。帰りは、国道165号線から羽曳野東インターチェンジから南阪奈道路に入り、近畿自動車道、第二京阪道路に入り京都縦貫道路経由で大原野インターチェンジで高速を降り、国道9号線経由で帰ってきました。この日は暑くて暑くて、こんな暑いに出掛けのは考えもんですね。ここまで連れて帰ってきてくれた友人には感謝しかないです。自宅で冷えたビール2本を渡して帰ってもらいました。
【飛鳥寺】
12時10分に「山門」前にある駐車場に着きました。ここ二来るのは記憶が無いほど随分前で多分、子供の頃でしょう。それで駐車場が隣接していて、そんなに歩かないで済むことは知っていました。
山門前にある「飛鳥大仏標石」は、1792年(完成4年)に参拝者の道標として彫刻されたもの。台石は飛鳥寺創建時の礎石を用いたみたいです。
山門を入って、右手に「拝観受付所」があります。僧侶の方が受付されていて拝観料350円と朱印代300円を納めました。
本堂内は閉め切っているので扇風機が回っています。それでも暑いですけど・・・私は床に座りお参りさせてもらいました。
本尊は、重要文化財に指定されている「飛鳥大仏」(釈迦如来坐像)で、605年(推古天皇13年)第33代推古天皇が聖徳太子蘇我馬子及び皇子と誓いをたてて発願し。609年(推古天皇17年)鞍作鳥(止利仏師)によって造られた日本最古の仏像です。
飛鳥寺は、588年(崇峻天皇元年)蘇我馬子の発願により、596年(推古4年)に創建された仏教を保護した日本初の本格的寺院として始まりました。創建時は、三金堂(西金堂、中金堂、東金堂)が塔を囲み、中門からは回廊が延びるほど大寺でした。寺名を法興寺 元興寺、飛鳥寺(現在は安居院)とも呼ばれています。平城遷都に伴い奈良の地に新たに元興寺が建立されて以後は、本元興寺とも呼ばれました。鎌倉時代に伽藍の大半を焼失し室町時代以降は荒廃しましたが、1826年(文政9年)に再建されました。本尊の銅造釈迦如来坐像(重要文化財)は創建時、飛鳥時代の作で日本最古の仏像。飛鳥大仏の名で親しまれています。
内陣右側に祀られているのが木造「阿弥陀如来坐像」(藤原時代)です。私にはなじみのない藤原時代ですが、894年(寛平6年)の遣唐使の廃止から平家が滅亡した1285年(寿永4年)までをさすそうです。
また左側には木造「聖徳太子孝養像」(室町時代)が。聖徳太子16歳のとき、第31代用明天皇の病気回復を祈願されてるお姿です。
火災にも見舞われなくて残ったんでしょうね、今日の旅の最後になりましたが、ここも来て見て良かったです。
さほど広くない本堂を出て、「中庭」から「寺宝」を見て、出てきました。外は相変わらず猛烈に暑いです。
本堂のお隣の「思惟殿」で、ご本尊は聖観世音菩薩を先ずはお参りしました。手前には「沙羅の樹」が・・・釈迦が沙羅樹の林中で涅槃に入った時、その四方にに各日本の高い沙羅樹があったと逸話から植えられたのでしょう。
ここの「西門」を出て、80㍍ほど進むと「蘇我入鹿首塚」があります。鎌倉時代の五輪塔が、その首を埋めた塚とされたのものです。極悪人で描かれる蘇我入鹿ですが史実はどうなんでしょうね。
最後のもう一踏ん張りで80㍍を歩きました。そこにはかつての大寺だった「西門跡」が残っていました。
多分、36℃を超えているかとおもうほど暑くて暑くて、直ぐに「西門」に戻ると、手前に「地蔵尊」が祀られていました。
こちらは「鐘楼」です。1745年(延保2年)の建立で、梵鐘は戦時中に拠出されましたが、1958年(昭和33年)に新鋳されました。
「西門」から境内に入って、そのまま出て行こうと思いましたが、何かわかりませんが石碑があったので撮っておきました。もう何か調べる気力は残ってません。なお、「塔心礎」でしょうか残っていました。
こちらは「万葉歌碑」で、1937年(昭和12年)に辰巳利文氏を願主として建立。佐々木信綱博士の筆による山部赤人の長歌を,近衛文麿氏の筆による篆額が刻まれています。
外から見た「本堂」です。写真を見ても分かるかと思いますが、日差しは強烈です。
東門前まで戻って、石碑を見れば「春風以接人 秋霜以持己」と書いてあります。理由は看板にありましたが・・・。
ここで、拝観受付に戻り朱印帳を受取ました。その受付に妻の大好きな「ご当地キティ」があったので、お土産に買いました。今日のお土産はこれだけでしたが喜んでくれました。
12時30分に駐車場に戻りました。暑いけど、二組ほど入って行かれましたね、ほぼガラガラでゆっくり見られました。
ここで汗を拭い、水分の補給を自販機で買って出て行きました。帰りは、国道165号線から羽曳野東インターチェンジから南阪奈道路に入り、近畿自動車道、第二京阪道路に入り京都縦貫道路経由で大原野インターチェンジで高速を降り、国道9号線経由で帰ってきました。この日は暑くて暑くて、こんな暑いに出掛けのは考えもんですね。ここまで連れて帰ってきてくれた友人には感謝しかないです。自宅で冷えたビール2本を渡して帰ってもらいました。
【飛鳥寺】
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