近江商人の財力を示す 旧伴家住宅へ

旧西川家住宅を出て、新町通りから京街道に出ると角に「旧伴家住宅(近江八幡市指定文化財)」が見えました。車から降りて見に行くと、ここも有料で見られるみたいで、ここも私だけ入ることにしました。

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IMG_7747.jpg入る前に、門の文字を読みました。「旧滋賀県蒲生郡八幡尋常高等小学校校舎」と読めます。ここは、小学校の校舎だったようですが・・・。

IMG_7748.jpg入ると左手に受付があって、中から人が出て来られます。入館料は400円でした。ここは受付の人が簡単に説明して貰えます。ただ蒸し暑くて・・・説明が耳に入ってこないです

旧伴家住宅は、江戸初期に活躍した近江商人である伴庄右衛門が、屋号を扇屋といい寛永年間(1624~1644)には、東京日本橋に出店し、麻布・畳表・蚊帳を商いました。5代目の伴蒿蹊(ばんこうけ)は18歳で家督を継ぎ、大坂淡路2丁目に出店。 学問にも興味を持ち、本居宣長、上田秋成、与謝蕪村らと親交のある国学者でもありました。 以後も、伴家は繁栄を誇りましたが、明治維新等の激動期に逆らえず1877年(明治20年)に終焉しました。 今に残る旧伴家住宅は7代目伴庄右衛門能尹(よしただ)が伴庄右衛門家本家として、1827年(文政10年)より1840年(天保11年)の十数年をかけて建築したものですが、明治時代になって当時の八幡町に譲渡してから小学校・役場・女学校と変遷しました。 戦後は近江兄弟社図書館として使用され後に近江八幡市立図書館となり、移転に伴い1997年(平成9年)にその役目を終了しました。 その後の整備事業を経て、2006年(平成18年)4月より市立資料館の一部として開館しました。

IMG_7749.jpgIMG_7750.jpgさっそく階段を上がると、中2階にあたるのでしょうか、ここは小学校の時には、「唱歌室」として使われていたようです。

IMG_7752.jpgIMG_7767.jpgこれは先程、訪れた「日牟禮八幡宮」の「左義長祭り」でしょうね。見たことがないので多分です

IMG_7765.jpgIMG_7766.jpg2階に上がって、突き当たりの部屋を見ると真っ暗で見えません。下から受付の方が来られて、ここが「校長室」だったことを教えてくれました。そして電気も付けて貰った次第です。

IMG_7754.jpgこちらの部屋では「朝鮮通信使と豪華な昼食膳」が展示されたので、さっと見させて貰いました。

IMG_7757.jpgIMG_7758.jpg2階からはお向かいの「近江八幡市立資料館(郷土資料館)」が見えています。ここは45畳もの「大広間」でした。

IMG_7759.jpgこちらの屏風を見ていると、下から受付の方が上がって来られて簡単に説明してくれました。

IMG_7761.jpgIMG_7762.jpgIMG_7763.jpgここは「土間」の奥から3階まで吹き抜けになっていることを教えてくれました。ここは3階建てだったんですね。

江戸時代には町屋の建築には、様々な規制がかかっていました。2階建ては原則禁止されていたようです。何故か、ここは3階建て・・・近江商人の伴家が、この規制を無視できたのは、何故かいただいた資料には、近江商人の財力を示していると書かれてましたが・・・。

IMG_7764.jpgIMG_7769.jpgIMG_7770.jpg前途したとおり、受付の方に電気を付けて貰ったので、残りの部屋をざっと見て、1階に降りてきました。

IMG_7773.jpg1階に降りてくると、この旧家の中央にある「土間」を目にします。そこには日牟禮八幡宮の「左義長まつり」の「山車」が展示されていしまた。本物かなぁ

IMG_7775.jpgIMG_7776.jpgIMG_7778.jpgIMG_7779.jpgIMG_7780.jpg最後に、入口を入って右手の棟に入って展示物をあっさり見学しました。ここは私以外、誰も入って来られません、旧西川家住宅ではお一人と出会いましたが・・・。

IMG_7781.jpg友人が外で待っていので、そんなに長居はしません。10時12分に、ここを出て来ました。

IMG_7782.jpg旧伴家住宅出て、お向かいの「近江八幡市立資料館(郷土資料館)」を撮りました。こちらも興味をひきましたが、これ以上友人を待たせる訳にもいかないので辞めました。

近江八幡市は、ここまでで次に草津市を目指します。草津市に向かって車を走らせていると時折、強い雨が降ってきます。どうも今日は晴れないようですね。

【旧伴家住宅】

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