大徳寺中で最も古い大徳寺塔頭 龍源院へ
9時42分に瑞峯院を出て、次に向かったのは大徳寺塔頭 龍源院です。龍源院には、壺庭である「東滴壺(とうてきこ)」と、「一枝坦(いっしだん)」、「龍吟庭(りょうぎんてい)」、「滹沱底((こだてい)」の3つの枯山水庭園が見所です。
9時45分に重要文化財に指定されている「表門」前に着きました。1502年(文亀2年)建立です。
ここも2014年(平成26年)10月2日以来の訪問です。表門をくぐり右手にある「庫裏」の中に拝観受付所があって、拝観料350円を納めます。
靴を下駄箱に入れて上がると、最初に「書院」に入ります。6年振りの訪問で、入ると所々思い出してきます。
書院軒先にあるのが「滹沱底((こだてい)」で、別名が「阿吽の石庭」と呼ばれる石庭です。宗祖臨済禅師の住庵した寺の南に流れる川の名から取られました。
「書院」のガラスケースの中には、日本最古の「種子島銃」と、秀吉と家康が対局した「碁盤」が展示されていました。
最初に「方丈」の南側に広がる「一枝坦(いっしだん)」を見ました。丸く象った苔の中に石を立てた亀島があって、右には蓬莱山、その前に鶴島が配置されています。
次に室町時代の禅宗方丈建築として、その遺構を完全にとどめている最古と伝わる「方丈」の室内を見ていきます。
最初は「礼の間(れいのま)」から。和尚と修行僧修行僧らが一衆和合、公式の茶礼香礼等を行ったところです。
次が、この方丈の中心となる「室中の間」です。ここでは住持(和尚)が、禅の教えを説き、或いは問法し、時には儀式法要を行う所です。襖絵は「龍と波」の図は、江戸初期と思われますが、作者不詳です。
ご本尊は、重要文化財に指定されている「釈迦如来坐像」で鎌倉時代の作だと伝わります。
龍源院は1504年(永正1年)、大徳寺73世東渓宗牧(とうけいそうぼく)を開祖として能登の畠山義元、豊後の大友義長(大友宗麟の祖父)、周防の大内義興らがによって創建。龍源の寺号は、大徳寺の山号・龍宝山の「龍」と、「松源一脈」(中国臨済宗松源派の祖・松源崇岳の禅を正しく継承するの意)の「源」からとっています。明治の初めに神仏分離により大阪・住吉神社内の慈恩寺と岐阜・高山城主だった金森長近が大徳寺内に建立した金竜院を合併し今日に至っています。
方丈南側の最後の部屋は「檀那の間」で、和尚が檀家の者と、お茶など飲みながら親しく懇談する部屋です。
方丈を回り込むと「開祖堂」がありました。また、この前の苔に覆われた庭を「鶏足山(けいそくざん)」と名付けられています。
方丈裏(北側)にも庭園があって、こちらは「龍吟庭」で、作者は宗祖東渓という説もあるが不明です。緑苔の大海に屹立する須弥山石。龍が天空に上昇する姿を想像させる。
方丈の裏側にありますが、こちらがメインの庭園でしょう。ここも誰も来られ無かったので独占で見られました。次は方丈裏の部屋を覗きます。
最初は「上間(じょうかん)」、別名「衣鉢の間(えはつのま)」です。衣鉢とは出家僧の最も大切な三衣(袈裟のこと)と鉄鉢(食器)で、衣鉢を納める所です。
この部屋は「眠蔵(みんぞう)」と言って、物を眠らし蔵う(しまう)所で、今の納戸です。1964年(昭和39年)の解体修理の際に発見された古文書によって、寛永年間に仏間として造営された、この箇所を創建当時の姿に復元されたもの。
次も「眠蔵(みんぞう)」で、同じく復元されたものです。往時の禅僧の日常は簡素で、夜疲れては奥の二畳で休み、人目を避けて静かに座禅などをしたところです。
最後は「下間(げかん)」で、別名「書院の間」と呼ばれています。ここは現在の応接室、方丈の下手の間をいいます。
「方丈」の東側まできて、日本最小の石庭「東滴壷(とうてきこ)」を撮りました。1960年(昭和35年)に作庭された現代壺庭の傑作です。
2014年(平成26年)10月2日以来の龍源院をゆっくり散策したあと、時計の針を見ると10時になっていました。それで、ここを出て行くことにしました。
ここの表門を10時にくぐって出て行きました。ここも誰とも出会いませんでしたね。今日は次の所がメインで空いていたらなぁ・・・と思い向かいました。
【大徳寺塔頭 龍源院】
9時45分に重要文化財に指定されている「表門」前に着きました。1502年(文亀2年)建立です。
ここも2014年(平成26年)10月2日以来の訪問です。表門をくぐり右手にある「庫裏」の中に拝観受付所があって、拝観料350円を納めます。
靴を下駄箱に入れて上がると、最初に「書院」に入ります。6年振りの訪問で、入ると所々思い出してきます。
書院軒先にあるのが「滹沱底((こだてい)」で、別名が「阿吽の石庭」と呼ばれる石庭です。宗祖臨済禅師の住庵した寺の南に流れる川の名から取られました。
「書院」のガラスケースの中には、日本最古の「種子島銃」と、秀吉と家康が対局した「碁盤」が展示されていました。
最初に「方丈」の南側に広がる「一枝坦(いっしだん)」を見ました。丸く象った苔の中に石を立てた亀島があって、右には蓬莱山、その前に鶴島が配置されています。
次に室町時代の禅宗方丈建築として、その遺構を完全にとどめている最古と伝わる「方丈」の室内を見ていきます。
最初は「礼の間(れいのま)」から。和尚と修行僧修行僧らが一衆和合、公式の茶礼香礼等を行ったところです。
次が、この方丈の中心となる「室中の間」です。ここでは住持(和尚)が、禅の教えを説き、或いは問法し、時には儀式法要を行う所です。襖絵は「龍と波」の図は、江戸初期と思われますが、作者不詳です。
ご本尊は、重要文化財に指定されている「釈迦如来坐像」で鎌倉時代の作だと伝わります。
龍源院は1504年(永正1年)、大徳寺73世東渓宗牧(とうけいそうぼく)を開祖として能登の畠山義元、豊後の大友義長(大友宗麟の祖父)、周防の大内義興らがによって創建。龍源の寺号は、大徳寺の山号・龍宝山の「龍」と、「松源一脈」(中国臨済宗松源派の祖・松源崇岳の禅を正しく継承するの意)の「源」からとっています。明治の初めに神仏分離により大阪・住吉神社内の慈恩寺と岐阜・高山城主だった金森長近が大徳寺内に建立した金竜院を合併し今日に至っています。
方丈南側の最後の部屋は「檀那の間」で、和尚が檀家の者と、お茶など飲みながら親しく懇談する部屋です。
方丈を回り込むと「開祖堂」がありました。また、この前の苔に覆われた庭を「鶏足山(けいそくざん)」と名付けられています。
方丈裏(北側)にも庭園があって、こちらは「龍吟庭」で、作者は宗祖東渓という説もあるが不明です。緑苔の大海に屹立する須弥山石。龍が天空に上昇する姿を想像させる。
方丈の裏側にありますが、こちらがメインの庭園でしょう。ここも誰も来られ無かったので独占で見られました。次は方丈裏の部屋を覗きます。
最初は「上間(じょうかん)」、別名「衣鉢の間(えはつのま)」です。衣鉢とは出家僧の最も大切な三衣(袈裟のこと)と鉄鉢(食器)で、衣鉢を納める所です。
この部屋は「眠蔵(みんぞう)」と言って、物を眠らし蔵う(しまう)所で、今の納戸です。1964年(昭和39年)の解体修理の際に発見された古文書によって、寛永年間に仏間として造営された、この箇所を創建当時の姿に復元されたもの。
次も「眠蔵(みんぞう)」で、同じく復元されたものです。往時の禅僧の日常は簡素で、夜疲れては奥の二畳で休み、人目を避けて静かに座禅などをしたところです。
最後は「下間(げかん)」で、別名「書院の間」と呼ばれています。ここは現在の応接室、方丈の下手の間をいいます。
「方丈」の東側まできて、日本最小の石庭「東滴壷(とうてきこ)」を撮りました。1960年(昭和35年)に作庭された現代壺庭の傑作です。
2014年(平成26年)10月2日以来の龍源院をゆっくり散策したあと、時計の針を見ると10時になっていました。それで、ここを出て行くことにしました。
ここの表門を10時にくぐって出て行きました。ここも誰とも出会いませんでしたね。今日は次の所がメインで空いていたらなぁ・・・と思い向かいました。
【大徳寺塔頭 龍源院】
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