加賀前田家ゆかりの寺院 大徳寺塔頭 興臨院へ
大徳寺塔頭 黄梅院を10時30分頃に出て、先に訪れていた瑞峯院のお隣にある大徳寺塔頭 興臨院に向かいました。瑞峯院を出たときに、興臨院の前に看板が出ていて、秋期特別公開中、9月5日(土)~9月27日(日)まで、拝観料500円と書いてありました。2012年(平成24年)10月13日から来てませんが、当初は拝観予定になかった興臨院に行くことにしました。少々時間が余ったのでね
。
10時31分に「表門」前に着きました。堂内から外でも聞こえてくるぐらい賑やかな声が聞こえてきます。
この表門は、重要文化財に指定されています。平唐門、檜皮葺、一間一戸、蟇股を左右から挟む。細部を見ると、懸魚の唐草模様の中が透かし彫りなっているなど優れた工作が施されている。1975年(昭和50年)より3年間をかけて修復工事がなされました。

拝観受付所は、「庫裏」の中にありますが、どうも修学旅行生の団体がいるみたいで賑やかです。先に庫裏に入らず先ず・・・。
こちらは「唐門」で、ここから見える花頭窓から修学旅行生が見えました。コロナ禍のなかで、京都も修学旅行生増えて来ましたね。まだ少々早いような気がしないでもありませんが・・・。
こちらも1975年(昭和50年)より3年間をかけて修復工事がなされました。唐破風、檜皮葺、室町時代の特徴をよく表し、波形の連子窓、客持の花頭窓は禅宗様式を表している。
今日は、瑞峯院、龍源院、黄梅院と誰とも出会わずに拝観できましたが、ここは多そうです
。「庫裏」を入って右手に拝観受付所があって、500円を納めました。
多分、タクシーの運転手さんに連れて来られたみたいで、楽しいそうにスマホで動画か写真を撮っているので、その集団が去るのを待って、重要文化財に指定されている「方丈」から見ていきます。
創建当初に直ぐに焼失し、1533年(天文2年)の頃に再建。表門、唐門と同様1975年(昭和50年)より3年間をかけて修復工事がなされました。
第104代後柏原天皇の時代、大永年間(1521~1528)に能登の守護畠山左衛門佐義総(よしふさ)によって建立し、以後畠山家の菩提寺となりました。寺名は義総の法号興臨院殿伝翁徳胤大居士から名付けられました。開祖は大徳寺第八十六世小渓紹怤(しょうけいじょうふ)和尚で、畠山家没落後、1581年(天正9年)に前田利家によって方丈屋根の修復工事が行われ、以後前田家の菩提寺となりました。
重要文化財に指定されてる「唐門」から表門の方向を見ています。先程、外から写真を撮りました。なお、ここは出入り出来ません。
次は「花頭窓」から方丈前庭園です。庭園は、このあとゆっくり鑑賞します。このあと再び方丈に戻って・・・。


「方丈(本堂)」は、ここでは撮影禁止でした。ただ由緒書きでは、「室中の間」は「響き天井」となっており、この下で手を叩けば響くそうです。ただ室内には入れません。


「方丈前庭園庭園」は、前途したとおり昭和の大修理に際し、資料をもとに昭和の名作庭家である中根金作が復元した枯山水庭園です。


次に「方丈(本堂)」の西側に移動すると、最初に「爪塚」、次に「琴心塔」を目にします。琴で使う爪などを供養するためだそうですね。


「方丈(本堂)」北側の庭は綺麗な苔で覆われていました。西庭も北庭も2005年(平成17年)11月26日に来た時は、みごとな紅葉でした。
北庭にある茶室「涵虚亭(かんきょてい)」です。こちらは内部を見学できるので、修学旅行生が去ったあと入ります。




茶室に入る手前に、「手水鉢」があって綺麗な花が備えてあります。そして向かいの池には錦鯉でしょうか泳いでいます。


残念ながら内部には入れません。昭和初期の建築で、この名称は中国北宋代の詩人の「蘇東坡」の詩から名づけられたそうです。
古田織部好みの四畳台目に隅板を加えた茶室です。特徴として、給仕口から入った所が板敷きになっていること。床の間には袖壁が出ているために、中は洞のように見えることから「洞床(ほらどこ)」と呼ばれている。

茶室前も趣ある「露地庭園」ですね、綺麗でした。ここは修学旅行生の他に一般の拝観者も数名みかけました。



10時45分に、ここの庫裏を出て行きました。入れ違いに1組2名が入って来られましたね、観光客は増えてきました。
2020年10月3日~12月15日には「京都春秋」主催で特別拝観が始まります。拝観料は600円と100円高くなりますが、多分案内があるのでしょう。
コロナ禍の昨今、案内は無いかも知れませんね、黄梅院では2020年10月3日~12月6日にかけて拝観料800円で「京都春秋」主催で特別拝観が始まります。こちらは200円安くなりますね、こちらは写真が禁止されていので寺独自開催の方がお得かもしれません。
大徳寺塔頭 興臨院を出て、駐車場に向かう途中「千体地蔵塚」の前を通りました。何度か来ている大徳寺ですが、こんな所あったかなぁ・・・と思い寄っていくことにしました。


私の地元、壬生寺にも「千体地蔵」があって、子供の頃遊んだ記憶が、ここに来て蘇ります。そして、このお地蔵さんの頭からお賽銭すると、不思議な音が鳴るんです。

「千体地蔵(せんたいじぞう)」とは、一つの場所に多数の地蔵菩薩像や阿弥陀如来像を並べたもので、古くは室町時代からのものもあるそうです。
ここはあっさりとお参りし、ここを出ると目の前が「大徳寺 三門」でした。1526年(大永6年)連歌師宗長が初層を寄進し、1589年(天正17年)に千利休によって上層が完成し「金毛閣」と呼ばれている大徳寺の山門です。



千利休は、この三門を改修するにあたって楼上に自身の木像を安置したと言われいます。その下を豊臣秀吉を通らせたことで怒りをかい、1591年(天正19年)2月28日、聚楽屋敷で自刃させられたという。
現在、この山門は非公開のため柵の中にはいれませんし、この門をくぐるこは出来ません。ここは特別公開は無いですね、一度登ってみたいと思っているんですが・・・
。
10時51分に、再び「総門」から出ていきました。驚いたことに、多分お寺の方でしょうか、車が3台この総門を入っていかれました。修学旅行生も多く歩いているので危ないですよね。ここから少し早いなぁ・・・と思いながら駐車場に戻りました。
駐車場に戻って、荷物を整理し車を出し精算すると10時55分出庫でした。ですから2時間以内、500円で済みました
。
これから大徳寺は秋の特別公開が始まります。ただ大徳寺本坊は長期の修復工事に入られるみたいで、当分見られないでしょう。修学旅行生も増えてきて、秋の紅葉に向けて観光客は増えそうです。
【大徳寺塔頭 興臨院】

【大徳寺千体地蔵塚】



この表門は、重要文化財に指定されています。平唐門、檜皮葺、一間一戸、蟇股を左右から挟む。細部を見ると、懸魚の唐草模様の中が透かし彫りなっているなど優れた工作が施されている。1975年(昭和50年)より3年間をかけて修復工事がなされました。



こちらも1975年(昭和50年)より3年間をかけて修復工事がなされました。唐破風、檜皮葺、室町時代の特徴をよく表し、波形の連子窓、客持の花頭窓は禅宗様式を表している。


多分、タクシーの運転手さんに連れて来られたみたいで、楽しいそうにスマホで動画か写真を撮っているので、その集団が去るのを待って、重要文化財に指定されている「方丈」から見ていきます。

第104代後柏原天皇の時代、大永年間(1521~1528)に能登の守護畠山左衛門佐義総(よしふさ)によって建立し、以後畠山家の菩提寺となりました。寺名は義総の法号興臨院殿伝翁徳胤大居士から名付けられました。開祖は大徳寺第八十六世小渓紹怤(しょうけいじょうふ)和尚で、畠山家没落後、1581年(天正9年)に前田利家によって方丈屋根の修復工事が行われ、以後前田家の菩提寺となりました。























古田織部好みの四畳台目に隅板を加えた茶室です。特徴として、給仕口から入った所が板敷きになっていること。床の間には袖壁が出ているために、中は洞のように見えることから「洞床(ほらどこ)」と呼ばれている。







コロナ禍の昨今、案内は無いかも知れませんね、黄梅院では2020年10月3日~12月6日にかけて拝観料800円で「京都春秋」主催で特別拝観が始まります。こちらは200円安くなりますね、こちらは写真が禁止されていので寺独自開催の方がお得かもしれません。
大徳寺塔頭 興臨院を出て、駐車場に向かう途中「千体地蔵塚」の前を通りました。何度か来ている大徳寺ですが、こんな所あったかなぁ・・・と思い寄っていくことにしました。





ここはあっさりとお参りし、ここを出ると目の前が「大徳寺 三門」でした。1526年(大永6年)連歌師宗長が初層を寄進し、1589年(天正17年)に千利休によって上層が完成し「金毛閣」と呼ばれている大徳寺の山門です。




現在、この山門は非公開のため柵の中にはいれませんし、この門をくぐるこは出来ません。ここは特別公開は無いですね、一度登ってみたいと思っているんですが・・・




これから大徳寺は秋の特別公開が始まります。ただ大徳寺本坊は長期の修復工事に入られるみたいで、当分見られないでしょう。修学旅行生も増えてきて、秋の紅葉に向けて観光客は増えそうです。
【大徳寺塔頭 興臨院】
【大徳寺千体地蔵塚】
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