但馬地方を行く 「続日本100名城」に選定された出石城跡へ
湖月堂内堀店を出たら、次に「出石城」に向かいます。出石城は1604年(慶長9年)小出吉英(こいでよしふさ)によって有子山の麓に築かれたお城です。1968年(昭和43年)3月30日付で豊岡市指定史跡に指定されています。
湖月堂内堀店を出たら出石城の内堀があって、そこには「旧大手門跡」を示す石碑が建っていました。ここに、かつて枡形虎口があって城を防御していたのでしょう。
「辰鼓楼」は、1871年(明治4年)に建設されたもので、高さ20㍍、1881年(明治14年)に大時計が取り付けられ、現在、1日2回に太鼓の音で時を知らせているそうです。
出石城には、谷山川に架かる「登城橋」から入りますが・・・江戸時代にはここに川も橋も無かったそうです。
ここから見える山頂に、有子山城がありました。下から40分から60分ぐらいで登れるそうですが、今日は予定に入れてません。1604年(慶長9年)に出石城を築城し、有子山城は廃城となる訳です。会社に、ここの出身者が居て、話を聞くと小学校の遠足で数え切れないぐらい登ったと言われてました。眺望は素晴らしいとのことです。
「登城門」から城内に入ります。前途したとおり、この辺りには埋門があったところ、この門も当時は無かった筈です。
出石城は1604年(慶長9年)小出吉英(こいでよしふさ)によって有子山の麓に築城された梯子郭式平山城で、最上段の稲荷曲輪から平地部分の三の丸まで階段状の曲輪を配置してた。城域は東西400㍍、南北350㍍もあったとされる。東西の斜面の堅堀、西側に蓮池、城の周囲に水堀と土塁を巡らせ、重要な三御門(大手門・東門・西門)は枡形虎口で防御を固めていた。出石城は、吉英の代でほぼ完成していたが、小出氏にかわり入城した松平忠周(忠徳)は、1702年(元禄15年)三の丸に対面所を建設し、それまで本丸・二の丸にあった藩主御殿・政治機関を移した。以降、1706年(宝永3年)に信州上田より入城した仙石氏もこれを踏襲し代々居所とした。1868年(明治元年)に出石城は取り壊されたが、1968年(昭和43年)に東西隅櫓が、1994年(平成6年)に登城門が建設され、登城橋も架けられた。
「登城門」から入って、最初の石段を登ると左手に「下の曲輪」に出ます。石段を上がる正面に、まともに太陽の光を浴びるので眩し過ぎます。
次に太陽の光を手で遮りながら石段を登ると、次に「二の丸」に出ます。ここから出石町の街並みが綺麗に見えました。
再建された「西隅櫓」で、町民の寄付によって建てられた模擬建築。白漆喰総塗籠の2層の隅櫓。
やっと「本丸」の入口に来たので、登ってきた石段を振り返りました。秋が深まり気候が良くなって最高の天気が何よりでしたね。
「本丸」から見た「稲荷曲輪」の高石垣です。高さ13㍍もあり但馬地方で最大規模を誇ります。
「本丸」から見た、出石町の街並みです。ここまで登ってきたんですね、そんなに疲れは無いです。気候が良くなったからでしょう。
「西隅櫓」を見ています。あとで知ることになりましたが、現存してるのかなぁ・・・とこの時は思ってました。
「本丸」にあった「感応殿(かんのうでん)」です。"戦国史上最も返り咲いた男"仙石権兵衛秀久が祀られています。
藩主仙石家の祖・秀久は古くから豊臣秀吉に仕えて、いち早く大名に出世した。九州攻めで失敗し秀吉の怒りをかい改易となるも、小田原攻めで奮戦し(地名・仙石原の由来)信州小諸城主として返り咲いた。天下の大泥棒・石川五右衛門を捕らえた剛勇としても知られている。本丸に建つ感応殿は、明治期に仙石家旧臣が造営したもので、中には小諸時代から伝わるとされる木像が安置されている。
「本丸」を横切って「東隅櫓」まで、やって来ました。築城時、ここに城主御殿がありましたが、松平氏以降はほとんど使用されなかったようです。ただ建物は残っていて、明治維新時に取り壊されました。
「本丸」を出る時に、稲荷曲輪の「高石垣」や「狭間」から市街地を覗いてみたりして楽しみました。
ここから「お城坂(稲荷参道)」を登って「有子山城跡」に行けるようです。この坂を多くの方が登って行かれました。
見ていると、登山の格好をされて登って行かれます。中には普通の服装のカップルもいましたが、ここに来て、初めて「有子山城跡」が山頂にあることを知りました。
私らは、登らず石段を下ります。下ると直ぐに右手に「山里丸」があったので、寄って見ました。しかし、何も無かったです。
再び「お城坂(稲荷参道)」を下って行き、左に「東隅櫓」、そして美しい「山里丸」の石垣を見ながら下りました。この石垣は2016年(平成28年)に改修工事をされ美しい姿を取り戻されました。
石段を降りていくと、左手に「稲荷社」がありました。先程みた「稲荷曲輪」には「有子山稲荷社」があったんですね、そこまで登れば良かったかなぁ・・・と。
修学旅行生か地元の高校生か分かりませんが、この橋を学生さんが渡って来られました。地図で見ると地元の高校生ですね。12時1分に「登城橋」まで戻って来ました。
有子山城跡・出石城跡は「続日本100名城」に選定されています。まだ「日本100名城」も回っていないのに、続・・・は、まだまだ先です。ここから先輩を誘って次の目的地に向かいました。
【出石城跡】
湖月堂内堀店を出たら出石城の内堀があって、そこには「旧大手門跡」を示す石碑が建っていました。ここに、かつて枡形虎口があって城を防御していたのでしょう。
「辰鼓楼」は、1871年(明治4年)に建設されたもので、高さ20㍍、1881年(明治14年)に大時計が取り付けられ、現在、1日2回に太鼓の音で時を知らせているそうです。
出石城には、谷山川に架かる「登城橋」から入りますが・・・江戸時代にはここに川も橋も無かったそうです。
ここから見える山頂に、有子山城がありました。下から40分から60分ぐらいで登れるそうですが、今日は予定に入れてません。1604年(慶長9年)に出石城を築城し、有子山城は廃城となる訳です。会社に、ここの出身者が居て、話を聞くと小学校の遠足で数え切れないぐらい登ったと言われてました。眺望は素晴らしいとのことです。
「登城門」から城内に入ります。前途したとおり、この辺りには埋門があったところ、この門も当時は無かった筈です。
出石城は1604年(慶長9年)小出吉英(こいでよしふさ)によって有子山の麓に築城された梯子郭式平山城で、最上段の稲荷曲輪から平地部分の三の丸まで階段状の曲輪を配置してた。城域は東西400㍍、南北350㍍もあったとされる。東西の斜面の堅堀、西側に蓮池、城の周囲に水堀と土塁を巡らせ、重要な三御門(大手門・東門・西門)は枡形虎口で防御を固めていた。出石城は、吉英の代でほぼ完成していたが、小出氏にかわり入城した松平忠周(忠徳)は、1702年(元禄15年)三の丸に対面所を建設し、それまで本丸・二の丸にあった藩主御殿・政治機関を移した。以降、1706年(宝永3年)に信州上田より入城した仙石氏もこれを踏襲し代々居所とした。1868年(明治元年)に出石城は取り壊されたが、1968年(昭和43年)に東西隅櫓が、1994年(平成6年)に登城門が建設され、登城橋も架けられた。
「登城門」から入って、最初の石段を登ると左手に「下の曲輪」に出ます。石段を上がる正面に、まともに太陽の光を浴びるので眩し過ぎます。
次に太陽の光を手で遮りながら石段を登ると、次に「二の丸」に出ます。ここから出石町の街並みが綺麗に見えました。
再建された「西隅櫓」で、町民の寄付によって建てられた模擬建築。白漆喰総塗籠の2層の隅櫓。
やっと「本丸」の入口に来たので、登ってきた石段を振り返りました。秋が深まり気候が良くなって最高の天気が何よりでしたね。
「本丸」から見た「稲荷曲輪」の高石垣です。高さ13㍍もあり但馬地方で最大規模を誇ります。
「本丸」から見た、出石町の街並みです。ここまで登ってきたんですね、そんなに疲れは無いです。気候が良くなったからでしょう。
「西隅櫓」を見ています。あとで知ることになりましたが、現存してるのかなぁ・・・とこの時は思ってました。
「本丸」にあった「感応殿(かんのうでん)」です。"戦国史上最も返り咲いた男"仙石権兵衛秀久が祀られています。
藩主仙石家の祖・秀久は古くから豊臣秀吉に仕えて、いち早く大名に出世した。九州攻めで失敗し秀吉の怒りをかい改易となるも、小田原攻めで奮戦し(地名・仙石原の由来)信州小諸城主として返り咲いた。天下の大泥棒・石川五右衛門を捕らえた剛勇としても知られている。本丸に建つ感応殿は、明治期に仙石家旧臣が造営したもので、中には小諸時代から伝わるとされる木像が安置されている。
「本丸」を横切って「東隅櫓」まで、やって来ました。築城時、ここに城主御殿がありましたが、松平氏以降はほとんど使用されなかったようです。ただ建物は残っていて、明治維新時に取り壊されました。
「本丸」を出る時に、稲荷曲輪の「高石垣」や「狭間」から市街地を覗いてみたりして楽しみました。
ここから「お城坂(稲荷参道)」を登って「有子山城跡」に行けるようです。この坂を多くの方が登って行かれました。
見ていると、登山の格好をされて登って行かれます。中には普通の服装のカップルもいましたが、ここに来て、初めて「有子山城跡」が山頂にあることを知りました。
私らは、登らず石段を下ります。下ると直ぐに右手に「山里丸」があったので、寄って見ました。しかし、何も無かったです。
再び「お城坂(稲荷参道)」を下って行き、左に「東隅櫓」、そして美しい「山里丸」の石垣を見ながら下りました。この石垣は2016年(平成28年)に改修工事をされ美しい姿を取り戻されました。
石段を降りていくと、左手に「稲荷社」がありました。先程みた「稲荷曲輪」には「有子山稲荷社」があったんですね、そこまで登れば良かったかなぁ・・・と。
修学旅行生か地元の高校生か分かりませんが、この橋を学生さんが渡って来られました。地図で見ると地元の高校生ですね。12時1分に「登城橋」まで戻って来ました。
有子山城跡・出石城跡は「続日本100名城」に選定されています。まだ「日本100名城」も回っていないのに、続・・・は、まだまだ先です。ここから先輩を誘って次の目的地に向かいました。
【出石城跡】
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