但馬地方を行く 江戸後期の上級武士(家老級)の居宅 出石家老屋敷へ
「出石城跡」を出てたら、目の前が「大手前有料駐車場」でした。あと「西の丸有料駐車場」もありますが、私らが止めた「鉄砲町有料駐車場」だけが離れています。空いていたのはそのためでしょうね
。しかし、最期に予定している寺院が近いので、まぁ・・・良いか
。
その大手前有料駐車場前の内堀通りを西に進むと「長屋門」が見えてきます。その門を入ると、次の目的地でした。

次の目的地は、江戸後期の上級武士(家老級)の居宅「出石家老屋敷」で、出石城内に残る唯一の武家屋敷です。
白亜の土塀と長屋門のあるこの屋敷を正面から見ると平屋に見えますが、実際は2階建てです。江戸時代後期に高級武士(家老級)の居宅として使われていたものです。出石城の内堀に囲まれた三の丸にあり、藩主の居宅兼執務施設であった対面所の近くに建っていたことから、この屋敷の主が藩の高級武士(家老級)だったことが窺えます。

玄関を入ると正面に受付があって、そこで入館料200円を払いました。そして写真撮影の有無を聞くと・・・OKで、早速見て回ります。

最初の部屋は展示室でした。それより学生さんが2名来られてましたね、地元の高校生のようでしたが・・・。


次の部屋に入ると、家老が座られてました。江戸時代における三大お家騒動の一つに挙げられる仙石騒動の中心人物である仙石左京の屋敷跡に建っているので「左京屋敷」とも呼ばれています。
この建物の外観は、平屋建に見えますが、内部には隠し階段が仕組まれており二階建なんです。この急な階段を登って上がります。
この隠し2階は、12畳と7畳の二間あって、敵から襲撃を防いだり秘密の会議に利用したもの。2階に上がったのち階段を上に引き上げると天井板で隠してしまい、下から見ても全く2階がないように見せかけ身を守る仕組みになっています。



まだ先輩も学生さんも上がって来なかったので、ここに座って見ました。いろいろ工夫されて面白かったです。
この押し入れの棚は強く出来ていて、足場として屋根づたいに出入りでき外へ通じるようになっています。"いざ"というときの逃げ道、隠密などの出入りにもなっていた訳です。

このあと、先輩と学生さんが上がって来られたので、私は膝が悪いので先に降りました。




次の間の「展示物」は、無形文化財の大名行列諸道具など出石藩に関する資料が公開されていました。
最近流行の「御城印」が、ここにもありました。京都の二条城にもありますが、私は興味が無いです。
ここに来て知った「仙石騒動」(江戸時代における三大お家騒動の一つ)ことが書かれてました。
1824年(文政7年)江戸参勤の途中病で急逝した藩主戦国政美の後継を巡って、主席家老仙石左京と老臣たちが9年間の長きに渡って対立し争った事件です。これが幕府の知るところとなって1835年(天保6年)左京以下31名の藩士は断罪され、仙石氏は5万8千石から3万石に減封されました。その後この騒動は講談や歌舞伎によって評判となり世に広く知れ渡ることになりました。

私は先に見学を終えたので、入口付近で先輩を待ちました。その間に学生さんも出て行かれたので、ここには誰も居ません。
最期に、先輩と合流してパネルを見てました。殆ど知らなかった歴代出石藩主の名前を知ることになりました。
12時14分頃に、ここを出て出石城を見ると、山頂に有子山城の石垣が見えました。321㍍の山頂まで登山ですが、一度見てみたいものです。
ここの受付で、次の目的地である「永楽館」の道順を聞きました。事前にGoogleマップで調べても良く分からなかったからです。道順は聞きました。約2分ぐらいだそうです。
行きから気になっていたので、寄りました。長屋門に展示されていた「屋台」です。明治初期の大火で殆どの屋台が焼失したが、これだけ残ったようです。城下の各町々にあって氏神の祭礼時に繰り出したようですね。
長屋門を出て、再び内堀通りに出ると、車が西向きに走って行きます。地元の人が大声で怒っていたので、振り向くと東向き一方通行だったようで、思い切り逆行してました。怒るのも無理ないですね
。
【出石家老屋敷】






白亜の土塀と長屋門のあるこの屋敷を正面から見ると平屋に見えますが、実際は2階建てです。江戸時代後期に高級武士(家老級)の居宅として使われていたものです。出石城の内堀に囲まれた三の丸にあり、藩主の居宅兼執務施設であった対面所の近くに建っていたことから、この屋敷の主が藩の高級武士(家老級)だったことが窺えます。








この隠し2階は、12畳と7畳の二間あって、敵から襲撃を防いだり秘密の会議に利用したもの。2階に上がったのち階段を上に引き上げると天井板で隠してしまい、下から見ても全く2階がないように見せかけ身を守る仕組みになっています。














1824年(文政7年)江戸参勤の途中病で急逝した藩主戦国政美の後継を巡って、主席家老仙石左京と老臣たちが9年間の長きに渡って対立し争った事件です。これが幕府の知るところとなって1835年(天保6年)左京以下31名の藩士は断罪され、仙石氏は5万8千石から3万石に減封されました。その後この騒動は講談や歌舞伎によって評判となり世に広く知れ渡ることになりました。


最期に、先輩と合流してパネルを見てました。殆ど知らなかった歴代出石藩主の名前を知ることになりました。

ここの受付で、次の目的地である「永楽館」の道順を聞きました。事前にGoogleマップで調べても良く分からなかったからです。道順は聞きました。約2分ぐらいだそうです。

長屋門を出て、再び内堀通りに出ると、車が西向きに走って行きます。地元の人が大声で怒っていたので、振り向くと東向き一方通行だったようで、思い切り逆行してました。怒るのも無理ないですね

【出石家老屋敷】
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