平安宮朝堂院 大極殿跡へ
昨日、「虎屋菓寮 京都一条店」からの帰りに、車で千本通りを南下し丸太町通りの手前にさしかかったときに、とある石碑を見ました。信号待ちのためそんなにマジマジと見られませんでしたが、そこにあった文字は読み取れました。その翌日に、所用でこの近辺に行ったついでに、この石碑の謎を見に行きました。
千本丸太町を上がった西側に、この石碑はあります。今日は車で来てないので路上駐車の心配はありませんが、次の予定があるので足早に見ていきます。
石碑を見てから内野児童公園内に入って行くと、前方に大きな石碑が見えて来ました。
近づいて見てみると「大極殿遺阯」(だいごくでんいせき)と書かれています。この大極殿を中心に平安宮が造られたようで、この近くには案内版もありました。この大局殿も、平安時代中期になると律令体制が弛み次第に荒果てていき、何も残っていません。
大極殿とは大内裏朝堂院の正殿で、即位等国家的儀礼や諸政が行われる場所でした。876年(貞観18年)、創建後初めて焼失し、再三の被災で修復再建が繰り返されたが、1177年(安元3年)の大火で焼失して以降は再建されませんでした。1895年(明治28年)に、平安遷都1100年紀念祭にあたり、湯本文彦が平安京の実測を行い大極殿をこの地に比定しました。この石標はその比定地を示すものです。
ここでは呼んでる暇が無かったので、帰ってから読みました。
源氏物語ゆかりの地「平安宮朝堂院 大極殿跡」について、平安宮は大内裏とも称し、国政・儀式・年中行事などを行う宮殿や諸官衙(役所建物)と天皇に関わる生活空間からなり、今日の東京の皇居と霞ヶ関界隈に点在する役所をあわせたようなものでした。その規模は南北約1.4㌔、東西1.2㌔もあり、周囲は築地や壖地(ぜんち)(犬走)・隍(ほう)(濠)で厳重に囲み、14の門があったようです。平安宮の正門である朱雀門を入ると応手門をもつ朝堂院があり、この正殿が大局殿です。東西9間、南北2間の母屋の4面に庇をもち、4周に朱欄をめぐらせ、屋根は縁釉瓦で縁取られ、大棟には1対の鴟尾がのる平安宮最大の建物でした。この大極殿は、1177年(安元3年)の大火災後は再建されず、大極殿での儀式は内裏の紫宸殿へ移りました。
現在、「大極殿遺蹟の碑」がある所は、大極殿の北にあった昭慶門の西側回廊の上に立っていることが発掘調査によって判明しています。現在の平安神宮は朝堂院を5/8サイズに縮小して建設しましたが、拝殿が大極殿に相当します。
【平安宮朝堂院 大極殿跡】
千本丸太町を上がった西側に、この石碑はあります。今日は車で来てないので路上駐車の心配はありませんが、次の予定があるので足早に見ていきます。
石碑を見てから内野児童公園内に入って行くと、前方に大きな石碑が見えて来ました。
近づいて見てみると「大極殿遺阯」(だいごくでんいせき)と書かれています。この大極殿を中心に平安宮が造られたようで、この近くには案内版もありました。この大局殿も、平安時代中期になると律令体制が弛み次第に荒果てていき、何も残っていません。
大極殿とは大内裏朝堂院の正殿で、即位等国家的儀礼や諸政が行われる場所でした。876年(貞観18年)、創建後初めて焼失し、再三の被災で修復再建が繰り返されたが、1177年(安元3年)の大火で焼失して以降は再建されませんでした。1895年(明治28年)に、平安遷都1100年紀念祭にあたり、湯本文彦が平安京の実測を行い大極殿をこの地に比定しました。この石標はその比定地を示すものです。
ここでは呼んでる暇が無かったので、帰ってから読みました。
源氏物語ゆかりの地「平安宮朝堂院 大極殿跡」について、平安宮は大内裏とも称し、国政・儀式・年中行事などを行う宮殿や諸官衙(役所建物)と天皇に関わる生活空間からなり、今日の東京の皇居と霞ヶ関界隈に点在する役所をあわせたようなものでした。その規模は南北約1.4㌔、東西1.2㌔もあり、周囲は築地や壖地(ぜんち)(犬走)・隍(ほう)(濠)で厳重に囲み、14の門があったようです。平安宮の正門である朱雀門を入ると応手門をもつ朝堂院があり、この正殿が大局殿です。東西9間、南北2間の母屋の4面に庇をもち、4周に朱欄をめぐらせ、屋根は縁釉瓦で縁取られ、大棟には1対の鴟尾がのる平安宮最大の建物でした。この大極殿は、1177年(安元3年)の大火災後は再建されず、大極殿での儀式は内裏の紫宸殿へ移りました。
現在、「大極殿遺蹟の碑」がある所は、大極殿の北にあった昭慶門の西側回廊の上に立っていることが発掘調査によって判明しています。現在の平安神宮は朝堂院を5/8サイズに縮小して建設しましたが、拝殿が大極殿に相当します。
【平安宮朝堂院 大極殿跡】
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