修学院、山端地区の産土神である鷺森神社へ
10月20日(火)は、久し振りに友人と世界文化遺産の霊峰比叡山に行く予定で、7時頃に我が家を出発し比叡山に向かいました。ただ比叡山東塔の拝観受付が8時30分からのため、先に未訪の鷺森神社に寄って貰うようにお願いしたら快く先に行ってくれました。この鷺森神社周辺道路は、道が狭く入り組んでいるため、今まで私は未訪でしたが、友人がこの辺りの土地勘があるので地図を見ずにスイスイと7時32分に、ここの駐車場に着きました。
修学院・山端地区の鎮守社として親しまれている古社で、鳥居から本殿につづく長い参道の両脇はカエデの並木になっており、紅葉の名所として知られています。
白川通りから住宅街を東に進むと、正面に鳥居が現れます。車は、この鳥居をくぐって参道を東に進みますが、先に鳥居と扁額と社号標を撮りました。扁額には「鬚咫天王(すだてんのう)」と書かれています。鳥居をくぐる参道は、地元の月極駐車場になっており、参拝者用の駐車場はずっと奥にあるそうで・・・。
殆どが月極駐車場ですが、数台だけ参拝者用の駐車場が設けてありました。この時間ですので、まだ1台も止まっていません。
車を降り、北を見れば遠くに鳥居が見えています。境内には北側から入れるみたいですね。
それでは駐車場から境内に入って行きます。正面には御神木でしょうか、スギの大木があって、この時間でもお一人お参りに来られていました。
境内の中央に「拝殿」が会って、左手には「手水舎」がありました。ここには柄杓が置いてありました。ただ口を清めるにはまだまだ・・・怖いです。
先に石段を上がり、「本殿」前で参拝を済ませました。御祭神は、素戔嗚尊(すさのうのみこと)で、鳥居にあった扁額の鬚咫天王とも言われています。
修学院・山端築の産神として永く親しまれている鷺森神社の創建は、古く貞観年間(859~877)の平安時代初期に比叡山麓、赤山付近に創建と伝えられます。応仁の乱の兵火に遭い、今の修学院離宮の場所に移りましたが、江戸時代に入り、後水尾上皇の離宮造営により、1689年(元禄2年)に現在地に遷座。本殿南の御幸橋は離宮正面入口の音羽川に架設され天皇も渡られたと伝わる名橋です。1967年(昭和42年)に下賜され、社宝として宮川に架設されています。
本殿にお参りを済ませたあと、本殿に向かって右側の境内社を見ていきます。先ずは左から「住吉大明神」と「八幡大神」です。
「本殿」は南向きに建てられているので、次は西側・・・左側の境内社です。右から「天照皇太神宮」と「熊野皇太神」でした。
先にお参りに来られていた方も出て行かれたので、境内には誰も居なくなりました。写真は本殿から見た拝殿です。
本殿前の石段を降りる前に、東西にある「狛犬」を撮りました。阿吽(あうん)の形を取っていますね。
石段を降りて東側に、大きな石碑があります。触れると夫婦和合や良縁が授かるという「八重垣」の石がありました。
この「八重垣」は素戔嗚尊が櫛名田比売命(くしなだひめのみこと)を妻にする時に詠まれた「八重たつ 出雲八重垣妻籠に 八重垣つくるその八重垣を」という和歌にちなみも触れると夫婦和合、良縁が授かるご利益があるとされています。
先程、由緒に書いてあった「御幸橋」です。1967年(昭和42年)に下賜され、社宝として宮川に架設されています。
この川が由緒書きにあった「宮川」でしょうね。この先を進めば曼殊院門跡に行けるみたいです。
朝早く来ましたが、境内は綺麗に掃かれていました。綺麗な砂紋も見られましたね。それでこのあと駐車場に向かいました。
最初に見た「北鳥居」に続く参道途中にあった石碑です。ここでは案内版があったので読んでみました。すると「第112代霊元天皇 歌碑」で、そこには・・・。
「おりゐるを 見しさきのもり すきかてに わけきて今日は むかぶ神垣」と享保年間に参詣されたときに詠まれたもので、この文字は当社の氏子で、国語学者、国文学者、歌人でも あった吉澤義則氏によるものです。
7時42分に、ここを出て行きました。ここから比叡山延暦寺には、約30分ぐらいで行けます。それでまだまだ時間があるので、この辺りの寺院に寄って行くことにしました。
【鷺森神社】
修学院・山端地区の鎮守社として親しまれている古社で、鳥居から本殿につづく長い参道の両脇はカエデの並木になっており、紅葉の名所として知られています。
白川通りから住宅街を東に進むと、正面に鳥居が現れます。車は、この鳥居をくぐって参道を東に進みますが、先に鳥居と扁額と社号標を撮りました。扁額には「鬚咫天王(すだてんのう)」と書かれています。鳥居をくぐる参道は、地元の月極駐車場になっており、参拝者用の駐車場はずっと奥にあるそうで・・・。
殆どが月極駐車場ですが、数台だけ参拝者用の駐車場が設けてありました。この時間ですので、まだ1台も止まっていません。
車を降り、北を見れば遠くに鳥居が見えています。境内には北側から入れるみたいですね。
それでは駐車場から境内に入って行きます。正面には御神木でしょうか、スギの大木があって、この時間でもお一人お参りに来られていました。
境内の中央に「拝殿」が会って、左手には「手水舎」がありました。ここには柄杓が置いてありました。ただ口を清めるにはまだまだ・・・怖いです。
先に石段を上がり、「本殿」前で参拝を済ませました。御祭神は、素戔嗚尊(すさのうのみこと)で、鳥居にあった扁額の鬚咫天王とも言われています。
修学院・山端築の産神として永く親しまれている鷺森神社の創建は、古く貞観年間(859~877)の平安時代初期に比叡山麓、赤山付近に創建と伝えられます。応仁の乱の兵火に遭い、今の修学院離宮の場所に移りましたが、江戸時代に入り、後水尾上皇の離宮造営により、1689年(元禄2年)に現在地に遷座。本殿南の御幸橋は離宮正面入口の音羽川に架設され天皇も渡られたと伝わる名橋です。1967年(昭和42年)に下賜され、社宝として宮川に架設されています。
本殿にお参りを済ませたあと、本殿に向かって右側の境内社を見ていきます。先ずは左から「住吉大明神」と「八幡大神」です。
「本殿」は南向きに建てられているので、次は西側・・・左側の境内社です。右から「天照皇太神宮」と「熊野皇太神」でした。
先にお参りに来られていた方も出て行かれたので、境内には誰も居なくなりました。写真は本殿から見た拝殿です。
本殿前の石段を降りる前に、東西にある「狛犬」を撮りました。阿吽(あうん)の形を取っていますね。
石段を降りて東側に、大きな石碑があります。触れると夫婦和合や良縁が授かるという「八重垣」の石がありました。
この「八重垣」は素戔嗚尊が櫛名田比売命(くしなだひめのみこと)を妻にする時に詠まれた「八重たつ 出雲八重垣妻籠に 八重垣つくるその八重垣を」という和歌にちなみも触れると夫婦和合、良縁が授かるご利益があるとされています。
先程、由緒に書いてあった「御幸橋」です。1967年(昭和42年)に下賜され、社宝として宮川に架設されています。
この川が由緒書きにあった「宮川」でしょうね。この先を進めば曼殊院門跡に行けるみたいです。
朝早く来ましたが、境内は綺麗に掃かれていました。綺麗な砂紋も見られましたね。それでこのあと駐車場に向かいました。
最初に見た「北鳥居」に続く参道途中にあった石碑です。ここでは案内版があったので読んでみました。すると「第112代霊元天皇 歌碑」で、そこには・・・。
「おりゐるを 見しさきのもり すきかてに わけきて今日は むかぶ神垣」と享保年間に参詣されたときに詠まれたもので、この文字は当社の氏子で、国語学者、国文学者、歌人でも あった吉澤義則氏によるものです。
7時42分に、ここを出て行きました。ここから比叡山延暦寺には、約30分ぐらいで行けます。それでまだまだ時間があるので、この辺りの寺院に寄って行くことにしました。
【鷺森神社】
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