国指定名勝 元紀州徳川家庭園「養翠園」へ

次の目的地は、2007年(平成19年)8月11日以来の「養翠園(ようすいえん)」です。当時は、和歌山市内からバスで移動しました。今日は、車で来ているので、紀州東照宮の駐車場を出て、海岸通りを走り、新和歌浦の交差点から大浦街道に出て、市立松下体育館前の交差点を左折し、再び海岸通りに出て、道なりに進むと左手に懐かしい「養翠園バス停」がありました。変わってないですね。そのバス停の手前を右折します。その右折手前には「養翠園」と大きな看板が出ているので道を間違えることはないでしょう。

右折すると、汐の香りがします。海に近づいたことを実感できますね。養翠園に近づくと道路が大変狭くなります。すれ違いは不可能で、友人も一度すれ違いのため待ちました。車は養翠園の正門の前を通り過ぎて奥の駐車場に13時15分に着きました。

CIMG4586.jpg道路は狭いけど、駐車場は広いです。前回はバス出来たので、ここは知りません。駐車料金は無料でした。

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庭園入口の「正門」です。入口の石柱には「養翠園」と書いてあって、その横には由緒が書かれていました。

養翠園は1818年(文政元年)より1825年(文政8年)にわたり、紀州徳川家第10代藩主・徳川治宝(はるとみ)により西浜御殿(治宝の隠居)から清遊の場として水軒御用地内に造営された大名庭園です。養翠園庭園は松を主とした約3300m2におよび、池は海水を取り入れた汐入の池で全国的にも珍しく、池には鯔(ボラ)がはね、四季折々の花が咲き誇ります。明治維新まで55万5千石の大大名として、また御三家の一つとして誇った旧藩主の遺蹟として、旧地に旧状のまま良く保存された庭園と建物で、文化財として国指定名勝の指定を受けています。

CIMG4514.jpg「正門」を入って、直ぐに「拝観受付所」があって、入園料600円を払います。それでは13年降り養翠園に入ります。

CIMG4516.jpg入ると右手に「養翠亭」が見えますが、こちらは裏側にあたるので後程、正面から見られます。

CIMG4517.jpgCIMG4518.jpgCIMG4519.jpgCIMG4521.jpgここは大名庭園でありながらお茶を楽しむ為の庭として、松を主体としています。その松を抜けると、いよいよ池が見えてきます。

CIMG4525.jpgIMG_9498.jpg帰ってから調べた借景となる山の名は「天神山」(左)と「章魚頭姿山(たこずしやま)(右)」でした。また、「三ツ橋」も見えています。

CIMG4528.jpgCIMG4530.jpgここから見ると「天神山」が綺麗に見えます。右端に見えている「章魚頭姿山」・・・「高津子山」のことを指すみたいです。

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CIMG4532.jpgこちらは池の北岸にあたります。この池から対岸にかけて純日本庭園の様相を呈し、曲線的な護岸を形成してます・・・と書いてありましたが、そうかなぁ・・・が私の感想です

CIMG4535.jpgCIMG4536.jpgすっかり忘れてましたが、この「三つ橋」を渡ります。遠くから見ると、渡れそうにも無いように思えましたが、充分広いです。この三つ橋は、中国浙江省の西湖にある蘇堤(そてい)にならったといいます。

CIMG4540.jpgここまで来ると、「章魚頭姿山」・・・「高津子山」の展望台も見えて来ました。あそこから見ると眺望は良いでしょうね。老眼でも、まだまだ遠くは良く見えます

CIMG4541.jpgこの池の「北岸」を見ています。ここは海辺にありながら、あたかも山中に在るかの様に人々に感じさせる意匠となっています・・・と書いてありましたが、京都では感じない・・・汐の香りがしているので私は、そうは思わなかったです。

CIMG4542.jpgCIMG4548.jpg守護神島」までやって来ました。この社殿は右に「弁財天」と左に「稲荷神」が祀られています。

CIMG4547.jpgIMG_9502.jpgこの池の中央に守護神島を造り、その先には南岸へ渡る木橋の「太鼓橋」が架かっています。

CIMG4545.jpgこの島から四方を見てみます。先ずは西側ですが、こちらには行けません。湖畔の松林の老木は、樹齢300年以上と伝わります。

CIMG4549.jpg今、渡ってきた「三つ橋」です。この「三つ橋」と「太鼓橋」は、元の姿は土橋だったようです。

CIMG4550.jpgここからやっと「養翠亭」が見えるようになりました。少しビルなんか見えるので、もう少し高さ制限をしたら良いのになぁ・・・と思います

IMG_9504.jpgCIMG4551.jpgCIMG4552.jpg南岸を東に向かって歩くと、左手に「元金柑畑」がありました。紀州藩は、奥女中に金柑狩りをさせていたようです。現在は樹齢60年の松が植わっています。

CIMG4554.jpgCIMG4557.jpg堤坊下の細長い場所を「御馬場」と呼んでます。ここは特に馬を走らせた場でもなく、藩公の供揃えの場でありました。

CIMG4559.jpgその堤から外を覘いて見ました。「水軒川」の河口ですね。直ぐ先が海に出られるので船が停泊しています。

CIMG4561.jpg池の東端までやって来ましたやって来ました。先程、渡ってきた「三ツ橋」が、あんなに遠くに見えています。

IMG_9507.jpg少し移動して、「養翠亭」の前から、借景の「天神山」を見ています。今日は、雲一つない晴天で、綺麗な庭園に青空が映えますね

CIMG4563.jpg御茶屋 養翠亭」は、茶室「実際庵(二畳台目)」や、左斜め登り御廊下などの貴重な遺構が保存されています。予約したら有料で内部を見られるみたいです。

CIMG4566.jpgCIMG4567.jpgCIMG4568.jpgCIMG4569.jpg事前に調べておいたら良かったですね、内部を見たくなりました。でも、遠方だし、そう度々来られ無いです

CIMG4570.jpgCIMG4571.jpgCIMG4573.jpg次に、案内にしたがって歩いて行くと「御船蔵(おふなくら)」と書かれた所で写真を撮りました。10代藩主・徳川治宝公が、西浜御殿より船で来遊された時、この場に入り左側より、御馬場へ上陸されたようです。

紀州藩10代藩主・徳川治宝公は、8代藩主・徳川重倫公の第二子として1771年(明和8年)に生まれ、19歳で藩主となりました。在中は歴代藩主中の名君と称されました。学問好きで知られた治宝公は、学問を奨励され8歳以上33歳以下の藩士子弟の修学を義務化し「明教館」「医学館」「松阪学校」を開設されましたし、本居宣長を始め多くの招いたようです。「紀伊続風土記」「紀伊国名所図絵」などの編纂するなど、紀州文学史上に多大の功績を残されました。また治宝公は、表千家に就き茶道を極め書画、音楽にと多能多芸にして、西浜御殿に竈築き、京師より楽右衛門、永楽善五郎を招き陶器を造らせました。退位後も、従一位に昇叙し、権大納言を拝し82歳で亡くなられました。

CIMG4575.jpgCIMG4576.jpg「養翠園」を出たら2006年(平成18年)11月より公開されている「湊御殿」に向かいました。

CIMG4577.jpgCIMG4578.jpg湊御殿」は有料ですが、「養翠園」のチケットがあれば、ここは無料ではいれます。友人と、入るかどうか相談していたら、中から係の方が出てこられ「どうぞ、上がって下さい。ただし内部は撮影禁止です」と言われたので写真はありません。

湊御殿は、紀州2代目藩主・徳川光貞が1698年(元禄11年)に造営し、その後、歴代藩主が使用した。特に8代藩主・徳川重倫(しげのり)は、多用したと言われてる。湊御殿はいくどか焼失したが、1832年(天保3年)、11代藩主・徳川斉順(なりゆき)が新御殿の造営に着手し、1834年(天保5年)に完成した。この時、新築された湊御殿は紀州江戸屋敷を模したとも言われ、広壮善美を尽くした御殿であったと伝えられる。明治初年に御殿は取り壊されたが、いくつかの建物は寺院や個人に移築され残された。

CIMG4580.jpgCIMG4582.jpg2007年(平成19年)8月11日に来た時は、ここは完成されてました。写真も確認しましたが建物はありました・・・が、入った記憶が全くありません。入ってなかったか記憶が無いのか分かりませんが、じっくり見させて貰いました。

CIMG4583.jpg13時43分に駐車場に戻りました。友人は初めての訪問で、綺麗な庭園を見て喜んでくれました

養翠園の駐車場で、次の目的地をナビで投入してます。友人は一度行ってて、勧めてくれたので、そちらに向かいますが、私は初めての所です。車は、来た道と違うルートで行くようです。

【養翠園】

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