徳川御三家の一つ紀州藩の菩提寺 長保寺へ

道成寺を出て、来た道を戻ります。行きで降りた川辺ICから阪和自動車道に入り、北上します。車窓からはミカン色の風景が続くので、帰りにはミカン買いたくなりますね。海南ICで高速を降り、国道42号線から県道165号線と走っていると、次の目的地であ「長保寺」の看板が出ているので迷うことはありません。そして10時40分に、紀州藩菩提寺 長保寺の駐車場に着きました。

CIMG4733.jpgCIMG4842.jpgCIMG4734.jpgこの長保寺(ちょうほうじ)を知ったのは、11月5日(木)に養翠園に行ったからです。養翠園を造った紀州藩第10代藩主・徳川治宝公を調べていると、ここ長保寺が紀州藩の菩提寺と知った訳です。

調べると、国宝が「大門」「多宝塔」「本堂」とあり、また、国指定史跡に、「和歌山藩主徳川家墓所」もあって、見所も多いみたいだし・・・と言うことで、今日寄って見た次第です。

CIMG4840.jpg駐車場から国宝「大門」に向かって歩いて行くと、右手に「境内図」がありました。長保寺のHPと同じですが、友人は知らないのでゆっくり見ていくことに

CIMG4738.jpgCIMG4836.jpgCIMG4739.jpgCIMG4740.jpg無料エリアに無造作に建っている国宝大門」です。大門の左右には和歌山県指定文化財金剛力士立像」が。ここまでは自由に出入りできるようです。

第100代天皇および北朝第6代天皇の後小松天皇の勅宣を受けて寺僧実然が1388年(嘉慶2年)に再建。三間一戸、入母屋造り、本瓦葺の建物で、組物は和様を基調とした三手先斗栱(みてさきときょう)に尾垂木を組み、軒を受けるなど室町時代食の特徴をよく表し、形態がよく整った点においては代表的な門の一つです。現在、架かる額は、紀州藩初代藩主徳川頼宣公が藩の儒学者季梅渓に命じて模写させたものであり、当初の扁額は1417年(応永24年)妙法院二品親王の御筆で大門と供に指定されています。なお、仁王像は湛慶作と伝わり、1286年(弘安9年)の造営であることが確認されたので、今後重要文化財に指定されるかも知れません。

CIMG4835.jpgCIMG4741.jpg国宝「大門」をくぐり、拝観受付所を探しました。正面にはミカン畑が広がっています。さすがに和歌山県ですね

長保寺は、1000年(長保2年)に、第66代一条天皇の勅願で創建されました。一条天皇皇后の藤原定子のお付きの女官が「枕草子」を書いた清少納言で、中宮の藤原彰子のお付きの女官が「源氏物語」を書いた紫式部でした。1666年(寛文6年)に紀州藩初代藩主徳川頼宣公により、菩提寺に定められ、全国唯一の規模を誇る藩主墓所が築かれた。墓所には牧夫の将軍に就任した第5代藩主吉宗公(第8代将軍)、第13代藩主慶福(よしとみ)後の14代将軍家茂を除く歴代藩主の墓所が設けられました。

CIMG4742.jpgCIMG4743.jpgCIMG4745.jpgCIMG4746.jpg参道を進み、石段を上がる途中に「拝観受付所」がありました。新型コロナウイルスの感染予防からか支納方式で、300円を箱に入れるシステムでした。もちろん入れましたよ。御朱印は中止と書いてありました・・・残念

CIMG4747.jpgCIMG4748.jpg遠方のため、もう多分再訪はありません。少々ガッカリして再び石段を上がります。

CIMG4749.jpgCIMG4751.jpgIMG_9708.jpgIMG_9709.jpgCIMG4755.jpgCIMG4756.jpgCIMG4757.jpg石段を上がりきると、正面に国宝本堂」があるので、お参りしました。内陣は覗けたので見てみると、左から「広目天立像(江戸時代)」、脇侍「文殊菩薩坐像(平安時代)」、本尊釈迦如来坐像(鎌倉時代)」、脇侍「普賢菩薩坐像(平安時代)」、「毘沙門天立像(江戸時代)」でした。

CIMG4750.jpgこちらも、国宝多宝塔」で、1357年(南朝 正平12年・北朝 延文2年)の建立です。堂内には、「金剛界大日如来坐像(平安時代)」が祀られていました。

堂内は、ガラス越しで見られますが、暗かったです。でもご本尊は見えました。国宝の多宝塔があるのは、石山寺(滋賀県)、金剛三昧院(高野山)、慈眼院(大阪府泉佐野市)、浄土寺(広島県尾道市)、根來寺(和歌山県)と長保寺だそうです。

CIMG4752.jpgCIMG4753.jpg境内の西側を見ると、右から「護摩堂」と「阿弥陀堂」が、そして「鐘楼」がありました。

次に、紀州徳川家の御廟に入ります。この御廟が思っていた以上に広大で、アップダウンあり、参道が荒れてたりしてキツかったです。それは次頁で

【長保寺】

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