大宰府天満宮、北野天満宮とともに日本の「三菅廟」と言われる「和歌浦天満宮」へ
和歌山には「和歌の浦急峻3社寺巡り」があって、急な石段で有名な紀三井寺、和歌浦天満宮、紀州東照宮の3ヵ所を1日で回ると、登りきった人に健脚の証明として御朱印を押し、記念品が贈られます。発案した紀三井寺の前田泰道貫主は「自分の足で参詣し、和歌の浦の絶景を見て、各社寺のご利益を得てほしい」と話されました。3社寺には合わせて389段もの石段があり、それも急峻な石段で知られています。
私は既に紀州東照宮を11月5日に行ってので、この日にすべてを回ることはしませんが、雑賀崎灯台の次に和歌浦天満宮、そして紀三井寺と回る予定にしています。和歌浦天満宮は、紀州東照宮のすぐ近くにあって、11月5日に、ここの前を通っていたことで迷うことなく12時24分に、ここの駐車場に着きました。
駐車場は、この鳥居の中にあって、車から降りて先ずは「鳥居」と「社号標」を撮りました。
ここに車を止める時、「有料」の文字が見えました。ただ、よくよく読めば、ここを参拝するには「無料」と書いてあります。これで安心して石段を登れます。
紀州東照宮も急峻な石段でしたが、ここも下から見上げると同じようなものです。これから頑張って正面突破します。
菅原道真公は901年(延喜元年)に太宰府へ赴く途中、風波を避けてこの和歌浦に立ち寄られました。その時地元の漁民は艫綱を巻いて急ごしらえの座を作り、道真公をお迎えし、風波が収まり船出の時、和歌の浦を望みながら、2首の歌を詠まれました。時は過ぎ、第62代村上天皇の康保年間(964~968年)に、文章博士橘直幹(たちばなのなおもと)が和歌浦を訪れ、道真公を追慕して御神霊ほ勧請したのが和歌浦天満宮の始まりです。その後江戸時代の始め、1600年(慶長5年)に紀州の領主となった浅野幸長(あさのよしなが)が、1604年(慶長9年)頃から造営をはじめ1606年(慶長11年)に完成したのが現在の社殿です。
ここに来た時、ご近所の方でしょうか降りて来られてから、帰る時まで誰も来られませんでした。天神宮らしい粉犬ならぬ「狛牛」が鎮座・・・それも木像でした・・・。
手水舎かなぁ・・・と思ったら違ってて、それで石段下までやって来ました。そこから見上げたのがこの写真です。この石段、急で一段一段が高いんです。
紀州東照宮にもあったように、左手には「緩やかな石段」もあります。せっかく来たので前途したとおり正面突破を図ります。
コロナ禍のこのご時世、手すりを持つのは抵抗がありましたが、持たないと後ろに引っ張られます。危ないのでずっと手すりを持って上がりました。
重要文化財に指定されている「楼門」は、1605年(慶長10年)の建立。この楼門は「禅宗様式」で造られ、軒の垂木が扇を開いたように放射状に並ぶ「扇垂木」となっているのが特徴です。
「楼門」を入って振り返ります。すると絶景がそこにありました。先程くぐってきた「鳥居」の向こうに「御手洗池」が見えます。その先には、「和歌の浦」そして「片男波公園」の砂嘴まで見渡せました。
「楼門」に入って左手に「手水舎」があって、天満宮らしく神牛が居ます。ただ新型コロナウイルスの感染予防から水は出なくなっていました。
「本殿」は、1606年(慶長11年)に紀伊和歌山藩初代藩主浅野幸長が建立で、桃山建築の貴重な社殿として重要文化財に指定されています。
学問の神様である菅原道真公が祀られ、大宰府天満宮、北野天満宮とともに日本の「三菅廟」と言われています。この社殿は、紀州根来出身の平内(へいのうち)吉政・政信親子によって建てられました。後に政信は1632年(寛永9年)に江戸幕府の作事方大棟梁に就任し、当代屈指の工匠です。
「本殿」は、裄行五間、梁間二間、一重、入母屋造、正面千鳥破風付、向拝三間、檜皮葺。社殿は鮮やかな彫刻・・・絢爛豪華な彩色ら7彩られています。
お参りのあと、東西回廊にある「授与所」で、御朱印をお願いしました。ただ書いて貰ってるあいだ、境内をウロウロできず、待つことに・・・。
次に境内の東側にある末社を見に行きます。実は、朱印を書いて貰っている間に見に行ったんですが、呼び止められました。
本殿の東側の奥にあったのが重要文化財に指定されている「末社」です。それでは東側から見ていきます。
「白山比賣神社(しらやまひめじんじゃ)」夫婦円満、縁結び、和合に御利益がある神様。
重要文化財「天照皇大神宮 豊受大神宮」で、国家の安寧や平和の神様。毎日の食事に感謝する神様。
こちらも重要文化財に指定されている「多賀神社」で、延命長寿、無病息災に御利益がある神様です。
次に石段を降りて左手の末社を見ていきます。左から「白太夫神社」「香取神社 鹿島神社」「春日神社」「柿木神社」「神津神社」「八幡神社」「産霊神社」「天穂日神社」「三宝竃神社」でした。
最後に、小さな社殿が「住吉神社」でした。多分、住吉三神・・・底筒男命(そこつつのおのみこと)・中筒男命(なかつつのおのみこと)・表筒男命(うわつつのおのみこと)・・・が祀られているのでしょう。
こちらは、立派な石鳥居や社殿でしたが、御朱印で貰った由緒書きにも書いて無いので詳細は不明です。
こちらは「稲荷神社」のようでした。稲荷社らしく、多くの「狛狐」が鎮座しています。
この小さなな社殿は「白藤龍王 白高大神」と書かれていました。このあと、友人と入れ替わり私が境内の西側に移動します。
「本殿」の西側には、「筆塚」がありました。和歌浦天満宮大祭の開催日は、3月25日だそうですけど、年間行事が分からないので詳細は不明です。
境内のもっとも西側にあったのが「白鳥神社」です。日本武尊の伝説に因む白鳥信仰(しらとりしんこう)の神社でしょうか
今日は時間の都合で、この先には行きません。多分、展望所があるのでしょう、分かりませんが・・・。
境内東側に居る友人を、ほっといて私は緩やかな石段から降りました。途中にトイレも済ませて一段一段ゆっくり降りて行くと・・・。友人は、正面突破を図って降りてきます。
横から見ると急峻な角度が分かるでしょう。登りは出来ますが、下りは怖いです。さすがに登山家だけのことはありますね友人は。
私は、ゆっくり緩やかな石段から降りてきて、急峻な石段を降りてきた友人を待って、駐車場に戻りました。
12時46分に駐車場に戻りました。さすがにあの石段は、きつかったです。少し膝に・・・きましたね。
次も、急峻な石段で有名な紀三井寺に行きます。膝が持ちかどうか心配ですが、どうしても行きたい事情があるので頑張ります。
【和歌浦天満宮】
私は既に紀州東照宮を11月5日に行ってので、この日にすべてを回ることはしませんが、雑賀崎灯台の次に和歌浦天満宮、そして紀三井寺と回る予定にしています。和歌浦天満宮は、紀州東照宮のすぐ近くにあって、11月5日に、ここの前を通っていたことで迷うことなく12時24分に、ここの駐車場に着きました。
駐車場は、この鳥居の中にあって、車から降りて先ずは「鳥居」と「社号標」を撮りました。
ここに車を止める時、「有料」の文字が見えました。ただ、よくよく読めば、ここを参拝するには「無料」と書いてあります。これで安心して石段を登れます。
紀州東照宮も急峻な石段でしたが、ここも下から見上げると同じようなものです。これから頑張って正面突破します。
菅原道真公は901年(延喜元年)に太宰府へ赴く途中、風波を避けてこの和歌浦に立ち寄られました。その時地元の漁民は艫綱を巻いて急ごしらえの座を作り、道真公をお迎えし、風波が収まり船出の時、和歌の浦を望みながら、2首の歌を詠まれました。時は過ぎ、第62代村上天皇の康保年間(964~968年)に、文章博士橘直幹(たちばなのなおもと)が和歌浦を訪れ、道真公を追慕して御神霊ほ勧請したのが和歌浦天満宮の始まりです。その後江戸時代の始め、1600年(慶長5年)に紀州の領主となった浅野幸長(あさのよしなが)が、1604年(慶長9年)頃から造営をはじめ1606年(慶長11年)に完成したのが現在の社殿です。
ここに来た時、ご近所の方でしょうか降りて来られてから、帰る時まで誰も来られませんでした。天神宮らしい粉犬ならぬ「狛牛」が鎮座・・・それも木像でした・・・。
手水舎かなぁ・・・と思ったら違ってて、それで石段下までやって来ました。そこから見上げたのがこの写真です。この石段、急で一段一段が高いんです。
紀州東照宮にもあったように、左手には「緩やかな石段」もあります。せっかく来たので前途したとおり正面突破を図ります。
コロナ禍のこのご時世、手すりを持つのは抵抗がありましたが、持たないと後ろに引っ張られます。危ないのでずっと手すりを持って上がりました。
重要文化財に指定されている「楼門」は、1605年(慶長10年)の建立。この楼門は「禅宗様式」で造られ、軒の垂木が扇を開いたように放射状に並ぶ「扇垂木」となっているのが特徴です。
「楼門」を入って振り返ります。すると絶景がそこにありました。先程くぐってきた「鳥居」の向こうに「御手洗池」が見えます。その先には、「和歌の浦」そして「片男波公園」の砂嘴まで見渡せました。
「楼門」に入って左手に「手水舎」があって、天満宮らしく神牛が居ます。ただ新型コロナウイルスの感染予防から水は出なくなっていました。
「本殿」は、1606年(慶長11年)に紀伊和歌山藩初代藩主浅野幸長が建立で、桃山建築の貴重な社殿として重要文化財に指定されています。
学問の神様である菅原道真公が祀られ、大宰府天満宮、北野天満宮とともに日本の「三菅廟」と言われています。この社殿は、紀州根来出身の平内(へいのうち)吉政・政信親子によって建てられました。後に政信は1632年(寛永9年)に江戸幕府の作事方大棟梁に就任し、当代屈指の工匠です。
「本殿」は、裄行五間、梁間二間、一重、入母屋造、正面千鳥破風付、向拝三間、檜皮葺。社殿は鮮やかな彫刻・・・絢爛豪華な彩色ら7彩られています。
お参りのあと、東西回廊にある「授与所」で、御朱印をお願いしました。ただ書いて貰ってるあいだ、境内をウロウロできず、待つことに・・・。
次に境内の東側にある末社を見に行きます。実は、朱印を書いて貰っている間に見に行ったんですが、呼び止められました。
本殿の東側の奥にあったのが重要文化財に指定されている「末社」です。それでは東側から見ていきます。
「白山比賣神社(しらやまひめじんじゃ)」夫婦円満、縁結び、和合に御利益がある神様。
重要文化財「天照皇大神宮 豊受大神宮」で、国家の安寧や平和の神様。毎日の食事に感謝する神様。
こちらも重要文化財に指定されている「多賀神社」で、延命長寿、無病息災に御利益がある神様です。
次に石段を降りて左手の末社を見ていきます。左から「白太夫神社」「香取神社 鹿島神社」「春日神社」「柿木神社」「神津神社」「八幡神社」「産霊神社」「天穂日神社」「三宝竃神社」でした。
最後に、小さな社殿が「住吉神社」でした。多分、住吉三神・・・底筒男命(そこつつのおのみこと)・中筒男命(なかつつのおのみこと)・表筒男命(うわつつのおのみこと)・・・が祀られているのでしょう。
こちらは、立派な石鳥居や社殿でしたが、御朱印で貰った由緒書きにも書いて無いので詳細は不明です。
こちらは「稲荷神社」のようでした。稲荷社らしく、多くの「狛狐」が鎮座しています。
この小さなな社殿は「白藤龍王 白高大神」と書かれていました。このあと、友人と入れ替わり私が境内の西側に移動します。
「本殿」の西側には、「筆塚」がありました。和歌浦天満宮大祭の開催日は、3月25日だそうですけど、年間行事が分からないので詳細は不明です。
境内のもっとも西側にあったのが「白鳥神社」です。日本武尊の伝説に因む白鳥信仰(しらとりしんこう)の神社でしょうか
今日は時間の都合で、この先には行きません。多分、展望所があるのでしょう、分かりませんが・・・。
境内東側に居る友人を、ほっといて私は緩やかな石段から降りました。途中にトイレも済ませて一段一段ゆっくり降りて行くと・・・。友人は、正面突破を図って降りてきます。
横から見ると急峻な角度が分かるでしょう。登りは出来ますが、下りは怖いです。さすがに登山家だけのことはありますね友人は。
私は、ゆっくり緩やかな石段から降りてきて、急峻な石段を降りてきた友人を待って、駐車場に戻りました。
12時46分に駐車場に戻りました。さすがにあの石段は、きつかったです。少し膝に・・・きましたね。
次も、急峻な石段で有名な紀三井寺に行きます。膝が持ちかどうか心配ですが、どうしても行きたい事情があるので頑張ります。
【和歌浦天満宮】
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