名勝「和歌の浦」に鎮まる玉津島神社へ
和歌浦天満宮を出て、紀三井寺に向かって走ります。県道151号線の「あしべ通り」を走っていると、和歌浦の景勝地の前を通りました。11月5日も、この前を通りましたが、観光バスが止まってて、ガイドさんが団体さんを案内されている所を車窓から見てました。今日は空いてるみたいで、友人にお願いしてここに止まってくれるように頼んだ次第です。このとき、12時52分でした。
11月5日に、車が信号待ちのとき車窓から撮った1枚です。この右側に団体さんとガイドさんが居たわけです。そして・・・。
標高35㍍の「奠供山(てんぐやま)」の下に、無料の駐車場があって、ここで綺麗な景勝を撮っていると・・・。
かつて料亭があったと思われる建物の奥に、展望所が見えています。後程分かることですが、ここに行くことになります。
この先に朱塗りの鳥居が見えました。ここに神社があることは、まったく知りませんでしたし、友人が「行ってみる?」と言ってくれたので、向かうことになりました。
「あしべ通り」沿いにある「朱塗りの鳥居」で、ちらは工事中でした。多分、建設中なんでしょう、まだくぐることは出来ません。
境内の西参道を進むと正面に「大鳥居」があって、右手には「社務所」があって「朱印」と書いてあります。それで、友人は申し訳なかったけど、もう一度車に朱印帳を取りに戻りました。
車に戻ったので、再びここに来たのが12時58分でした。約4分のロスタイムでしたね。巫女さんも社務所に戻られていたので、朱印帳を出して御朱印をお願いしました。
巫女さんから「宮司さんが同じで、ここから4分ぐらいの塩竈神社の朱印もありますが、どうされますか?」と聞かれたのでお願いました。ここで、また鹽竃神社の存在を聞くことになりました。
ここも「手水舎」も、新型コロナウイルスの感染予防から水が出ないようになっています。
朱印帳を預けて、先ずは「拝殿」でお参りです。御祭神は、「稚日女尊(わかひるめのみこと)」「息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)」「衣通姫尊(そとおりひめのみこと)」「明光浦霊(あかのうらのみたま)」の四柱です。
玉津島神社は、周辺に六つの小高い島山(玉津島六山)があって、古(いにしへ)より、これられの島山は潮が引くと陸続きであるが、潮が満ちると玉のように海中に点在するかのようになり、724年(神亀元年)に行幸された第45代聖武天皇は景観の美しさに感動され、同社に明光浦霊(あかのうらのみたま)を祀り、詔を発し景観を保護されました。なお、創建は上古(じょうこ)と極めて古いです。また、奈良時代の三十六歌仙の一人である山部赤人は「神代(かみよ)より然(しか)ぞ貴(とうと)き玉津島山」という玉津島の賛歌を詠まれています。
「拝殿」は、ガラス越しで向こうが見えましたが、どうしても「本殿」は見えません。石段の上部にあるみたいですが・・・。
横から見ても、「本殿」は見えません。見えているのは本殿に通じる門の屋根でしたね。和歌浦天満宮と同様に浅野幸長によって修復造営されたもので、老朽化により1992年(平成4年)に創建時の絢爛豪華に蘇ったようです。
拝殿前に左右二基の「石燈籠」は、紀州藩祖徳川頼宣公が寄進したようで、1990年(平成2年)に復元されたようです。
拝殿の左側から奥に進むと天然記念物「根上り松(名称:鶴松)」がありました。1921年(大正10年)に和歌山市髙松より移転保存とありました。
次に、少し上がった広場に「犬養孝先生揮毫(きごう)の万葉歌碑」がありました。横には解説もあって読まさせて貰いました。
「やすみしし わご大君の 常宮と 仕へ奉れる 雑賀野ゆ そがひに見ゆる 沖つ島 清き渚に 風吹けば 白波騒ぎ 潮干れば 玉藻刈りつつ 神代より しかぞ貴き 玉津島山」(万葉集⑥917) 「沖つ島 荒磯の玉藻 潮干満ち い隠り行かば 思ほえむかも」(万葉集⑥918) 「若の浦に 潮満ち来れば 潟を無み 葦辺をさして 鶴鳴き渡る」(万葉集⑥919)
この先に「展望台」がありました。ここに着いた時、下から見上げていた所です。眺望はイマイチでしたね。
展望台から再び拝殿前まで戻ってきました。徳川頼宣公寄進の石燈籠の裏には、頼宣公の刻印がありました。
次は、拝殿の右側に向かいます。そこには「奠供山碑」があって、紀州藩の儒学者、仁井田好古選文による碑のそうで、和歌山市指定文化財です。
この先に登山口があって、標高35㍍の「奠供山(てんぐやま)」は、ここから登りますが、今日は長保寺、和歌浦天満宮と登ってきたので、もう気力は無かったです。
玉津島神社を出て、向かいには鏡山の登山口があります。私は次の鹽竃神社に行くには、ここを登るものと思っていました。
友人が、「ここじゃないよ」と教えてくれて、再び「あしべ通り」に出て左手に向かいました。
【玉津島神社】
11月5日に、車が信号待ちのとき車窓から撮った1枚です。この右側に団体さんとガイドさんが居たわけです。そして・・・。
標高35㍍の「奠供山(てんぐやま)」の下に、無料の駐車場があって、ここで綺麗な景勝を撮っていると・・・。
かつて料亭があったと思われる建物の奥に、展望所が見えています。後程分かることですが、ここに行くことになります。
この先に朱塗りの鳥居が見えました。ここに神社があることは、まったく知りませんでしたし、友人が「行ってみる?」と言ってくれたので、向かうことになりました。
「あしべ通り」沿いにある「朱塗りの鳥居」で、ちらは工事中でした。多分、建設中なんでしょう、まだくぐることは出来ません。
境内の西参道を進むと正面に「大鳥居」があって、右手には「社務所」があって「朱印」と書いてあります。それで、友人は申し訳なかったけど、もう一度車に朱印帳を取りに戻りました。
車に戻ったので、再びここに来たのが12時58分でした。約4分のロスタイムでしたね。巫女さんも社務所に戻られていたので、朱印帳を出して御朱印をお願いしました。
巫女さんから「宮司さんが同じで、ここから4分ぐらいの塩竈神社の朱印もありますが、どうされますか?」と聞かれたのでお願いました。ここで、また鹽竃神社の存在を聞くことになりました。
ここも「手水舎」も、新型コロナウイルスの感染予防から水が出ないようになっています。
朱印帳を預けて、先ずは「拝殿」でお参りです。御祭神は、「稚日女尊(わかひるめのみこと)」「息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)」「衣通姫尊(そとおりひめのみこと)」「明光浦霊(あかのうらのみたま)」の四柱です。
玉津島神社は、周辺に六つの小高い島山(玉津島六山)があって、古(いにしへ)より、これられの島山は潮が引くと陸続きであるが、潮が満ちると玉のように海中に点在するかのようになり、724年(神亀元年)に行幸された第45代聖武天皇は景観の美しさに感動され、同社に明光浦霊(あかのうらのみたま)を祀り、詔を発し景観を保護されました。なお、創建は上古(じょうこ)と極めて古いです。また、奈良時代の三十六歌仙の一人である山部赤人は「神代(かみよ)より然(しか)ぞ貴(とうと)き玉津島山」という玉津島の賛歌を詠まれています。
「拝殿」は、ガラス越しで向こうが見えましたが、どうしても「本殿」は見えません。石段の上部にあるみたいですが・・・。
横から見ても、「本殿」は見えません。見えているのは本殿に通じる門の屋根でしたね。和歌浦天満宮と同様に浅野幸長によって修復造営されたもので、老朽化により1992年(平成4年)に創建時の絢爛豪華に蘇ったようです。
拝殿前に左右二基の「石燈籠」は、紀州藩祖徳川頼宣公が寄進したようで、1990年(平成2年)に復元されたようです。
拝殿の左側から奥に進むと天然記念物「根上り松(名称:鶴松)」がありました。1921年(大正10年)に和歌山市髙松より移転保存とありました。
次に、少し上がった広場に「犬養孝先生揮毫(きごう)の万葉歌碑」がありました。横には解説もあって読まさせて貰いました。
「やすみしし わご大君の 常宮と 仕へ奉れる 雑賀野ゆ そがひに見ゆる 沖つ島 清き渚に 風吹けば 白波騒ぎ 潮干れば 玉藻刈りつつ 神代より しかぞ貴き 玉津島山」(万葉集⑥917) 「沖つ島 荒磯の玉藻 潮干満ち い隠り行かば 思ほえむかも」(万葉集⑥918) 「若の浦に 潮満ち来れば 潟を無み 葦辺をさして 鶴鳴き渡る」(万葉集⑥919)
この先に「展望台」がありました。ここに着いた時、下から見上げていた所です。眺望はイマイチでしたね。
展望台から再び拝殿前まで戻ってきました。徳川頼宣公寄進の石燈籠の裏には、頼宣公の刻印がありました。
次は、拝殿の右側に向かいます。そこには「奠供山碑」があって、紀州藩の儒学者、仁井田好古選文による碑のそうで、和歌山市指定文化財です。
この先に登山口があって、標高35㍍の「奠供山(てんぐやま)」は、ここから登りますが、今日は長保寺、和歌浦天満宮と登ってきたので、もう気力は無かったです。
玉津島神社を出て、向かいには鏡山の登山口があります。私は次の鹽竃神社に行くには、ここを登るものと思っていました。
友人が、「ここじゃないよ」と教えてくれて、再び「あしべ通り」に出て左手に向かいました。
【玉津島神社】
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