万葉の時代からの景勝地 和歌浦の入江にある鹽竃神社へ
玉津島神社を出て、次に御朱印を先にいただいた鹽竃神社(しおがまじんじゃ)に向かいました。玉津島神社の西参道を通り、あしべ通りに出ると向かいに「不老橋」が見えました。
友人が「不老橋(ふろうばし)を見て来るわ」と言って道路を横断して見に行ったので、私もついて行きました。不老橋は、「国指定文化財(名勝)和歌の浦」「和歌山市指定文化財(建造物)」です。
紀州藩10代藩主・徳川治宝(はるとみ)公が、徳川家康を祀る東照宮の例大祭「和歌祭」の時に、徳川家や東照宮の人々が通る御成道として、1851年(嘉永4年)に不老橋を架け整備した。橋のアーチ部分は肥後熊本の石工が作り、雲の浮き彫りがある勾欄(手すり)部分は紀州湯浅の石工石屋忠兵衛が作ったという。
鏡山の麓に「鹽竃神社」があります。それで、不老橋から道路を横断させてもらいました。横断歩道ではありません・・・スイマセン。
渡る前に、先程まで居た「玉津島神社」の鳥居を撮りました。前途したとおり工事中のため、こちらからはくぐれません。
「不老橋」から見た「あしべ橋」です。この橋を渡れば、「片男波公園」がある訳です。
石鳥居をくぐると左手に「社務所」がありましたが、玉津島神社にあるのでこちらは無人です。
社殿は、「輿(こし)の窟(いわや)」と呼ばれる波の浸食によって出来た洞窟の中にあります。
ここも「手水舎」がありますが、新型コロナウイルスの感染予防から水はありません。
洞窟を入ると右手に「和合の松」がありました。ただ現在は幹だけです。調べると2012年(平成24年)6月23日に倒れたそうで、現在は、2世の苗木が育っているそうです。
御祭神は、「鹽槌翁尊(しおづちのおじのみこと)」「祓戸大神四座(はらへどのおおかみよざ)」で、四座とは「瀬織津比売神(せおりつひめのかみ)」「速開都比売神(はやあきつひめのかみ)」「速佐須良比売神(はやさすらひめのかみ)」「気吹戸主神(いぶきどぬしのかみ)のことです。安産・子授けの神様として、地元の方々から”しおがまさん”と親しまれています。
鹽竃神社は、万葉の時代から景勝地和歌の浦の入江、不老橋の前に坐して安産守護・子授けの神、不老長寿、漁業豊穣の神として知られています。主祭神の「鹽槌翁尊(しおづちのおじのみこと)は古事記「海幸彦・山幸彦」の神話に「鹽稚神(しおつちのかみ)」として登場する。兄・海幸彦に借りた釣り針を失くして兄の怒りにふれた弟・山幸彦に、海神(わたつみのかみ)のところへ行けと教え、送り出した神様です。これにより山幸彦は釣り針を見つけ、竜宮で海神の娘・豊玉姫(とよたまひめ)と出会い結婚します。そして姫は安産により御子を授かりました。この故事と、潮の満ち引きが出産に関わることから、尊は安産・子授けの神となりました。また、尊は潮の満ち引きが女性の出産に関係し、潮の功徳により人間が生まれることを説いて人々の出生、生命を守護された。そして塩が人々の食生活に重要なこととし、全国各地を廻られ13か所で製塩の法を伝えました。同地はその9か所目で、大正後期まで製塩が盛んに行われていました。以上のことの由緒から鹽竃神社は、和歌山県内はもとより京阪神等を含め全国から多くの参詣者が訪れます。
13時12分に、ここを出ました。たまたま寄った所に、神社が二箇所あって、ともに御朱印をいただけたのは良かったです。
13時15分に駐車場に戻りました。戻ると来た時に止まっていた車も居なくなってました。駐車場は広いです。
ちょっと寄り道しましたが、次は紀三井寺に向かいます。紀三井寺では50年に一度の特別開帳されているので楽しみです。
【鹽竃神社】
友人が「不老橋(ふろうばし)を見て来るわ」と言って道路を横断して見に行ったので、私もついて行きました。不老橋は、「国指定文化財(名勝)和歌の浦」「和歌山市指定文化財(建造物)」です。
紀州藩10代藩主・徳川治宝(はるとみ)公が、徳川家康を祀る東照宮の例大祭「和歌祭」の時に、徳川家や東照宮の人々が通る御成道として、1851年(嘉永4年)に不老橋を架け整備した。橋のアーチ部分は肥後熊本の石工が作り、雲の浮き彫りがある勾欄(手すり)部分は紀州湯浅の石工石屋忠兵衛が作ったという。
鏡山の麓に「鹽竃神社」があります。それで、不老橋から道路を横断させてもらいました。横断歩道ではありません・・・スイマセン。
渡る前に、先程まで居た「玉津島神社」の鳥居を撮りました。前途したとおり工事中のため、こちらからはくぐれません。
「不老橋」から見た「あしべ橋」です。この橋を渡れば、「片男波公園」がある訳です。
石鳥居をくぐると左手に「社務所」がありましたが、玉津島神社にあるのでこちらは無人です。
社殿は、「輿(こし)の窟(いわや)」と呼ばれる波の浸食によって出来た洞窟の中にあります。
ここも「手水舎」がありますが、新型コロナウイルスの感染予防から水はありません。
洞窟を入ると右手に「和合の松」がありました。ただ現在は幹だけです。調べると2012年(平成24年)6月23日に倒れたそうで、現在は、2世の苗木が育っているそうです。
御祭神は、「鹽槌翁尊(しおづちのおじのみこと)」「祓戸大神四座(はらへどのおおかみよざ)」で、四座とは「瀬織津比売神(せおりつひめのかみ)」「速開都比売神(はやあきつひめのかみ)」「速佐須良比売神(はやさすらひめのかみ)」「気吹戸主神(いぶきどぬしのかみ)のことです。安産・子授けの神様として、地元の方々から”しおがまさん”と親しまれています。
鹽竃神社は、万葉の時代から景勝地和歌の浦の入江、不老橋の前に坐して安産守護・子授けの神、不老長寿、漁業豊穣の神として知られています。主祭神の「鹽槌翁尊(しおづちのおじのみこと)は古事記「海幸彦・山幸彦」の神話に「鹽稚神(しおつちのかみ)」として登場する。兄・海幸彦に借りた釣り針を失くして兄の怒りにふれた弟・山幸彦に、海神(わたつみのかみ)のところへ行けと教え、送り出した神様です。これにより山幸彦は釣り針を見つけ、竜宮で海神の娘・豊玉姫(とよたまひめ)と出会い結婚します。そして姫は安産により御子を授かりました。この故事と、潮の満ち引きが出産に関わることから、尊は安産・子授けの神となりました。また、尊は潮の満ち引きが女性の出産に関係し、潮の功徳により人間が生まれることを説いて人々の出生、生命を守護された。そして塩が人々の食生活に重要なこととし、全国各地を廻られ13か所で製塩の法を伝えました。同地はその9か所目で、大正後期まで製塩が盛んに行われていました。以上のことの由緒から鹽竃神社は、和歌山県内はもとより京阪神等を含め全国から多くの参詣者が訪れます。
13時12分に、ここを出ました。たまたま寄った所に、神社が二箇所あって、ともに御朱印をいただけたのは良かったです。
13時15分に駐車場に戻りました。戻ると来た時に止まっていた車も居なくなってました。駐車場は広いです。
ちょっと寄り道しましたが、次は紀三井寺に向かいます。紀三井寺では50年に一度の特別開帳されているので楽しみです。
【鹽竃神社】
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