歴史文化財が点在する忍びの里・甲賀 油日神社へ
田村神社を出て、国道1号線を東に進み、次に県道129号線(南土山甲賀線)を南に進みます。途中から県道131号線と変わりますが、ひたすら南下し、車は三重県との県境近くまでやって来ました。そして14時12分に着いたのが油日神社の駐車場です。
駐車場から表に回り、正面の鳥居から境内に入りました。ここ油日(あぶらひ)は、白洲正子も愛した「かくれ里」です。
油日神社は、南鈴鹿の霊峰油日岳の麓に鎮座する古社です。古くから岳を神体山として、社伝では頂上に大明神が降臨して、油の火のような明かりを発したことから油日の名を付けられたとされ、山頂には岳大明神が祀られています。油日大明神を主神とし、罔象女命(みずはのめのみこと)、猿田彦命(さるたひこのみこと)を祀り、「日本三代実録」によれば、平安時代の877年(元慶元年)の条に「油日神」が神階を授かったことがみえます。室町時代に作成された「油日大明神縁起」には、聖徳太子によって勧請された由来が説かれ「聖徳太子絵伝」を始め、太子の本地である如意輪観音の懸仏や「聖徳太子絵伝」が所蔵されており、中世には甲賀武士たちが聖徳太子を軍神として崇めるとともに「甲賀の総社」として信仰されていました。1495年(明応4年)に建てられた本殿は、近隣の多くの武士たちが力を合わせて寄進したもので、戦国時代には油日神社が甲賀衆たちの拠り所となっていたことが分かります。
鳥居をくぐれば、紅葉の「表参道」を進みます。そして突き当たりには「楼門」がありました。「楼門」及び「東回廊」「西回廊」は重要文化財に指定されています。
「楼門」をくぐれば、正面に「拝殿」が見えます。「楼門」と「東西回廊」は、1566年(永禄9年)の建立です。
重要文化財に指定されている「拝殿」は、入母屋造妻入、檜皮葺で、天正年間(1573年~1592年)の建立。昇殿は禁止されていました。
油日神社の境内は、国の史跡で、南北に本殿・拝殿・楼門がそして左右に回廊が延びています。中世の神社景観を今に伝えており貴重な文化財といえます。拝所でお参りしましたが本殿は見えないですね。
拝所から拝殿越しに楼門を見ています。その先の鳥居まで直線で並んでいることが分かります。
多分、御神木でしょう「コウヤマキ(市指定天然記念物)」だと思います。樹齢は750年を超えるそうで、ひときわ目を引きます。
お参りのあと、境内の全景を見えています。楼門、東西回廊は重要文化財に指定されていますが、境内には誰も居ません。
少し下がると、本殿の屋根だけは見えます。「本殿」は、1493年(明応2年)に建立されました。三間社流造で動植物の透かし彫りや蟇股などの意匠に室町時代後期の特徴が表されているようです。
ここも境内に、摂社か末社がありましたが由緒書きにも書いてないので分かりません。ん「八幡神社」「神明神社」「日吉神社」「春日神社」「金比羅神社」「桜神社」「常松神社」「祖霊社」の神社名だけは分かりました。
楼門を出たら西側に鳥居が見えます。ここに来るとき、最初に見るのはこの鳥居になるでしょう。
この後、ダメ元で「社務所」に寄りました。すると神職さんが居て御朱印をお願いしました。
朱印帳を書いて貰っている間に、由緒書きも聞きました。「100円でお渡ししてますが、朱印の方には無料でお渡ししてます」と言うことで貰いました。最近は、観光バスで来られ、大量に持って行かれるので困っていると言われてました。それで1部100円にしたとか。
帰りも表の鳥居から出ました。ご覧のように、ここに車で道は狭いです。ただ観光バス・・・入って来られるのかなぁ。
駐車場に戻ると、ここのお祭りの写真がありました。5年に一度執り行われる油日祭りの奴振では、上野の頭殿(殿様)が奴を伴って油日神社に社参しますが、これもかつての甲賀武士たちの姿を伝えるものです。
14時30分頃、ここ油日神社を出ました。子供の頃に、この油日に来てSLの写真を撮ったことがあります。私が、子供の頃は普通にSLが走ってました。親が油日に来た理由は今では知りようもありませんが、小さな頃の思い出として、今も記憶にあります。ここから甲賀市に入り、甲賀ICから新名神高速道路に入りました。
そして15時10分頃でしょうか、「草津SA(下り)」に入り、ここで遅い昼食を摂ることに。今朝は血液検査のため朝食は抜いています。お腹はそんなに空いてませんでしたが・・・。
注文したのは「近江牛のコロッケ定食」にしました。ただ御飯の量が半端じゃないほど多かったです。普段はこんなに食べないです。
15時45分頃に、ここを出ると時、小学生の団体がトイレ休憩に入って来られました。名神高速道路は、京都東ICで降り、山科を経由して帰りました。家には17時前に着いたかと思います。甲賀市も忍者屋敷や、近くには信楽もあるので、今度はゆっくり散策したいものです。
【油日神社】
【草津SA(下り)】
駐車場から表に回り、正面の鳥居から境内に入りました。ここ油日(あぶらひ)は、白洲正子も愛した「かくれ里」です。
油日神社は、南鈴鹿の霊峰油日岳の麓に鎮座する古社です。古くから岳を神体山として、社伝では頂上に大明神が降臨して、油の火のような明かりを発したことから油日の名を付けられたとされ、山頂には岳大明神が祀られています。油日大明神を主神とし、罔象女命(みずはのめのみこと)、猿田彦命(さるたひこのみこと)を祀り、「日本三代実録」によれば、平安時代の877年(元慶元年)の条に「油日神」が神階を授かったことがみえます。室町時代に作成された「油日大明神縁起」には、聖徳太子によって勧請された由来が説かれ「聖徳太子絵伝」を始め、太子の本地である如意輪観音の懸仏や「聖徳太子絵伝」が所蔵されており、中世には甲賀武士たちが聖徳太子を軍神として崇めるとともに「甲賀の総社」として信仰されていました。1495年(明応4年)に建てられた本殿は、近隣の多くの武士たちが力を合わせて寄進したもので、戦国時代には油日神社が甲賀衆たちの拠り所となっていたことが分かります。
鳥居をくぐれば、紅葉の「表参道」を進みます。そして突き当たりには「楼門」がありました。「楼門」及び「東回廊」「西回廊」は重要文化財に指定されています。
「楼門」をくぐれば、正面に「拝殿」が見えます。「楼門」と「東西回廊」は、1566年(永禄9年)の建立です。
重要文化財に指定されている「拝殿」は、入母屋造妻入、檜皮葺で、天正年間(1573年~1592年)の建立。昇殿は禁止されていました。
油日神社の境内は、国の史跡で、南北に本殿・拝殿・楼門がそして左右に回廊が延びています。中世の神社景観を今に伝えており貴重な文化財といえます。拝所でお参りしましたが本殿は見えないですね。
拝所から拝殿越しに楼門を見ています。その先の鳥居まで直線で並んでいることが分かります。
多分、御神木でしょう「コウヤマキ(市指定天然記念物)」だと思います。樹齢は750年を超えるそうで、ひときわ目を引きます。
お参りのあと、境内の全景を見えています。楼門、東西回廊は重要文化財に指定されていますが、境内には誰も居ません。
少し下がると、本殿の屋根だけは見えます。「本殿」は、1493年(明応2年)に建立されました。三間社流造で動植物の透かし彫りや蟇股などの意匠に室町時代後期の特徴が表されているようです。
ここも境内に、摂社か末社がありましたが由緒書きにも書いてないので分かりません。ん「八幡神社」「神明神社」「日吉神社」「春日神社」「金比羅神社」「桜神社」「常松神社」「祖霊社」の神社名だけは分かりました。
楼門を出たら西側に鳥居が見えます。ここに来るとき、最初に見るのはこの鳥居になるでしょう。
この後、ダメ元で「社務所」に寄りました。すると神職さんが居て御朱印をお願いしました。
朱印帳を書いて貰っている間に、由緒書きも聞きました。「100円でお渡ししてますが、朱印の方には無料でお渡ししてます」と言うことで貰いました。最近は、観光バスで来られ、大量に持って行かれるので困っていると言われてました。それで1部100円にしたとか。
帰りも表の鳥居から出ました。ご覧のように、ここに車で道は狭いです。ただ観光バス・・・入って来られるのかなぁ。
駐車場に戻ると、ここのお祭りの写真がありました。5年に一度執り行われる油日祭りの奴振では、上野の頭殿(殿様)が奴を伴って油日神社に社参しますが、これもかつての甲賀武士たちの姿を伝えるものです。
14時30分頃、ここ油日神社を出ました。子供の頃に、この油日に来てSLの写真を撮ったことがあります。私が、子供の頃は普通にSLが走ってました。親が油日に来た理由は今では知りようもありませんが、小さな頃の思い出として、今も記憶にあります。ここから甲賀市に入り、甲賀ICから新名神高速道路に入りました。
そして15時10分頃でしょうか、「草津SA(下り)」に入り、ここで遅い昼食を摂ることに。今朝は血液検査のため朝食は抜いています。お腹はそんなに空いてませんでしたが・・・。
注文したのは「近江牛のコロッケ定食」にしました。ただ御飯の量が半端じゃないほど多かったです。普段はこんなに食べないです。
15時45分頃に、ここを出ると時、小学生の団体がトイレ休憩に入って来られました。名神高速道路は、京都東ICで降り、山科を経由して帰りました。家には17時前に着いたかと思います。甲賀市も忍者屋敷や、近くには信楽もあるので、今度はゆっくり散策したいものです。
【油日神社】
【草津SA(下り)】
この記事へのコメント