南山城古寺巡礼 「酬恩庵 一休寺 方丈」へ
北吉野山 神童寺の駐車場を出て、山を下って行きます。行きと同じ府道70号線(上泊城陽線)に出て北上し、平尾の交差点を左折し府道71号線(枚方山城線)を西に進み、途中木津川を渡ります。次に谷の交差点を右折し府道22号線(山手幹線)を北上し、京田辺市を目指します。途中、同志社大学田辺キャンパスを通ると、学生さんが連なって歩いて行かれました。対面授業を再開されてるようですね。そして標識が出てないので分かりずらいかも知れませんが、一休とんちロードを左折し、ほとなくすると南山城古寺巡礼 酬恩庵 一休寺の駐車場に10時10分に着きました。
有料駐車場は、この時は空いてました。なお、駐車料金は300円です。私らの前に一組2名が先に行かれたので、私らはゆっくり歩いて行くことに。
色づき始めた参道に出て、先に「酬恩庵 一休寺 全景図」を見ました。友人は一度来ているので、ほぼ覚えているとのことです。
先に「総門」を撮っておきました。そして門をくぐり「拝観受付所」まで歩いて行きますが、その参道のモミジは、少し色づき初めています。
酬恩庵 一休寺の元の名は妙勝寺であって、鎌倉時代、臨済宗の高僧大應国師(南浦紹明・なんぽしょうみょう)が中国の虚堂(きどう)和尚に禅を学び帰朝後禅の道場をここに建てたのが始まりです。その後、1331年(元徳3年)の「元弘の乱」の戦火遭い衰退していきましたが、1456年(康正2年)一休宗純が草庵を結んで中興し、宗祖の遺風を慕い師恩に酬いる意味で酬恩庵と命名されました。禅師はここで後半生の生涯を送られ81歳で大徳寺住職となった後もこの寺より通われました。1481年(文明13年)11月21日に88歳で亡くなられ、当寺で葬られました。このように禅師が晩年を過ごされたことにより「一休寺」の通称で知られるようになりました。
拝観受付所までに、最初に見るのは「一休和尚碑」で、「諸悪莫作、衆善奉行」と書かれており、意味は「悪いことはするな、よいことをせよ」とのことです。上のモミジは色づいてますね。
その先に「手水舎」が、その先に「拝観受付所」がありましたが、この日は無人でした。ただ無料ではありません。
本堂に急ぎたい所、先に「浴室」を見ました・・・と言っても内部にははいれません。切妻造、妻入、本瓦葺の建物です。
禅宗七伽藍の一つ。本尊は、跋佗婆羅菩薩(ばったばらぼさつ)で、内部は蒸し風呂となっています。浴室は東司、禅堂、食堂などの三黙堂の一つとして静寂さを大切にする厳粛な修行の場です。
閉まっているので無料かなぁ・・・と思いましたが、後程いく方丈に拝観受付所がありました。
ここで「一休禅師墓所」があって、門は閉まっており、そこには菊の御紋がありました。隙間が覗いてみると・・・。
一休禅師は1481年(文明13年)11月21日に88歳で当寺で亡くなられました。これに先だって1475年(文明7年)ここに壽塔を建立し、平素敬慕されていた宋の慈明・楊岐禅師の名をとって慈楊塔と名付けられました。一休禅師は第100代(北朝第6代)後小松天皇の皇子であので、この一画は宮内庁の後陵墓として管理されています。
拝観入口の門をくぐると周面に「庫裏」が見えます。庫裏は、僧侶の居住の場であり時食を調える場で、方丈新築時に同じように前田家の手で新築されたものであり、江戸初期の建築様式をそのまま残しています。
雄大な「庫裏」に入って、靴を脱いで下駄箱に入れます。上がると左手に「拝観受付所」がありました。新型コロナウイルスの感染予防で厳重な警戒されてました。
拝観料500円と、御朱印が、この秋限定の特別版があって2枚見開き分を使用するものと、通常のもの2枚、計4枚分をお願いしました。朱印帳は帰りに受け取る方式です。
案内にしたがって、「方丈」に向かいます。最初の部屋は工事中で、「古井戸」と「方丈屋根獅子口(ししぐち)」を見て方丈へ。
先ずは「方丈南庭」を見ます。宗純王廟と虎丘を借景に、これら建物の北部斜面を利用してサツキの刈込があり西部に大きい蘇鉄が植えられています。
南庭の下の写真は、蟹満寺や神童寺と同様に2014年(平成2年)に京博で開催された「南山城の古寺巡礼展」において購入したポストカードです。方丈は、典型的な禅宗様式の建物となっていました。早速見て行きます。
重要文化財に指定されてる「方丈」は、1650年(慶安3年)加賀藩2代藩主、加賀前田家3代前田利常公の寄進により再建されたものです。
最初の部屋には「一休禅師使用の輿」がありました。81歳の時大徳寺47世住職となった時も、この輿で京都紫野の大徳寺に通われたものです。
方丈中央の内陣は撮影禁止でした。その訳は「一休禅師の木像」が安置されていたからです。この木像は一休禅師逝去の年に高弟墨済禅師に命じて作らせたもので自身の頭髪と髭を植えたとされています。
「方丈」の襖絵は狩野探幽斎守信の49歳の時の筆によるものですが、複製です。本物は後程、宝物館で見られます。
「方丈東庭」に行きました。ここは大小の石が立ち、また横になる様を十六羅漢になぞらえたとされています。
次に「方丈北庭」に回り込みました。事もあろうか庭の手入れの用具がそのまま置いてあります。この庭の景観をぶち壊してました。それで仕方ないのでポストカードを使いました。
北庭は禅院枯山水としての蓬莱庭園です。東北隅に巨石を配しいわゆる観音石として用いています。これに他の集団石組をもって枯滝落水の様子を表現しているとか。これら三方からなる庭園は江戸初期のものとしては第一流であり当代庭園の白眉とされています。
「方丈北庭」を見ながら、方丈裏の出っ張りを通りました。この出っ張り気になりますが何も書いて無いので不明のままです。そして、そのまま進み「庫裏」が見えて来ました。
拝観受付所までに戻って来たところ、疲れたので珈琲を飲みたくなったので、ここで友人と休憩することにしました。
暑い珈琲と、一休寺納豆を使用されたお菓子をいただきました。朝の渋滞と遠路、ここまで来た疲れから珈琲で疲れを癒やしました。
珈琲を飲み終わったら、受付に戻り朱印帳を受け取って10時44分に出て行きました。拝観は、これだけと思いましたが、一度行っている友人が、「まだ奥があるよ」と教えてくれました。
「庫裏」を出たら、「東司(お手洗い)」を見ました。残念ながら内部には入れませんでしたね。1650年(慶安3年)に新築されたものです。
この横に本物のトイレがあって、その時に「東司」を知ったんです。ここで休憩し友人に案内され、この奥に進みます。この寺は酬恩庵(しゅうおんあん)と言って、私が知っていた一休寺は通称だったんですね、ここに来て知りました。
【酬恩庵 一休寺 方丈】
有料駐車場は、この時は空いてました。なお、駐車料金は300円です。私らの前に一組2名が先に行かれたので、私らはゆっくり歩いて行くことに。
色づき始めた参道に出て、先に「酬恩庵 一休寺 全景図」を見ました。友人は一度来ているので、ほぼ覚えているとのことです。
先に「総門」を撮っておきました。そして門をくぐり「拝観受付所」まで歩いて行きますが、その参道のモミジは、少し色づき初めています。
酬恩庵 一休寺の元の名は妙勝寺であって、鎌倉時代、臨済宗の高僧大應国師(南浦紹明・なんぽしょうみょう)が中国の虚堂(きどう)和尚に禅を学び帰朝後禅の道場をここに建てたのが始まりです。その後、1331年(元徳3年)の「元弘の乱」の戦火遭い衰退していきましたが、1456年(康正2年)一休宗純が草庵を結んで中興し、宗祖の遺風を慕い師恩に酬いる意味で酬恩庵と命名されました。禅師はここで後半生の生涯を送られ81歳で大徳寺住職となった後もこの寺より通われました。1481年(文明13年)11月21日に88歳で亡くなられ、当寺で葬られました。このように禅師が晩年を過ごされたことにより「一休寺」の通称で知られるようになりました。
拝観受付所までに、最初に見るのは「一休和尚碑」で、「諸悪莫作、衆善奉行」と書かれており、意味は「悪いことはするな、よいことをせよ」とのことです。上のモミジは色づいてますね。
その先に「手水舎」が、その先に「拝観受付所」がありましたが、この日は無人でした。ただ無料ではありません。
本堂に急ぎたい所、先に「浴室」を見ました・・・と言っても内部にははいれません。切妻造、妻入、本瓦葺の建物です。
禅宗七伽藍の一つ。本尊は、跋佗婆羅菩薩(ばったばらぼさつ)で、内部は蒸し風呂となっています。浴室は東司、禅堂、食堂などの三黙堂の一つとして静寂さを大切にする厳粛な修行の場です。
閉まっているので無料かなぁ・・・と思いましたが、後程いく方丈に拝観受付所がありました。
ここで「一休禅師墓所」があって、門は閉まっており、そこには菊の御紋がありました。隙間が覗いてみると・・・。
一休禅師は1481年(文明13年)11月21日に88歳で当寺で亡くなられました。これに先だって1475年(文明7年)ここに壽塔を建立し、平素敬慕されていた宋の慈明・楊岐禅師の名をとって慈楊塔と名付けられました。一休禅師は第100代(北朝第6代)後小松天皇の皇子であので、この一画は宮内庁の後陵墓として管理されています。
拝観入口の門をくぐると周面に「庫裏」が見えます。庫裏は、僧侶の居住の場であり時食を調える場で、方丈新築時に同じように前田家の手で新築されたものであり、江戸初期の建築様式をそのまま残しています。
雄大な「庫裏」に入って、靴を脱いで下駄箱に入れます。上がると左手に「拝観受付所」がありました。新型コロナウイルスの感染予防で厳重な警戒されてました。
拝観料500円と、御朱印が、この秋限定の特別版があって2枚見開き分を使用するものと、通常のもの2枚、計4枚分をお願いしました。朱印帳は帰りに受け取る方式です。
案内にしたがって、「方丈」に向かいます。最初の部屋は工事中で、「古井戸」と「方丈屋根獅子口(ししぐち)」を見て方丈へ。
先ずは「方丈南庭」を見ます。宗純王廟と虎丘を借景に、これら建物の北部斜面を利用してサツキの刈込があり西部に大きい蘇鉄が植えられています。
南庭の下の写真は、蟹満寺や神童寺と同様に2014年(平成2年)に京博で開催された「南山城の古寺巡礼展」において購入したポストカードです。方丈は、典型的な禅宗様式の建物となっていました。早速見て行きます。
重要文化財に指定されてる「方丈」は、1650年(慶安3年)加賀藩2代藩主、加賀前田家3代前田利常公の寄進により再建されたものです。
最初の部屋には「一休禅師使用の輿」がありました。81歳の時大徳寺47世住職となった時も、この輿で京都紫野の大徳寺に通われたものです。
方丈中央の内陣は撮影禁止でした。その訳は「一休禅師の木像」が安置されていたからです。この木像は一休禅師逝去の年に高弟墨済禅師に命じて作らせたもので自身の頭髪と髭を植えたとされています。
「方丈」の襖絵は狩野探幽斎守信の49歳の時の筆によるものですが、複製です。本物は後程、宝物館で見られます。
「方丈東庭」に行きました。ここは大小の石が立ち、また横になる様を十六羅漢になぞらえたとされています。
次に「方丈北庭」に回り込みました。事もあろうか庭の手入れの用具がそのまま置いてあります。この庭の景観をぶち壊してました。それで仕方ないのでポストカードを使いました。
北庭は禅院枯山水としての蓬莱庭園です。東北隅に巨石を配しいわゆる観音石として用いています。これに他の集団石組をもって枯滝落水の様子を表現しているとか。これら三方からなる庭園は江戸初期のものとしては第一流であり当代庭園の白眉とされています。
「方丈北庭」を見ながら、方丈裏の出っ張りを通りました。この出っ張り気になりますが何も書いて無いので不明のままです。そして、そのまま進み「庫裏」が見えて来ました。
拝観受付所までに戻って来たところ、疲れたので珈琲を飲みたくなったので、ここで友人と休憩することにしました。
暑い珈琲と、一休寺納豆を使用されたお菓子をいただきました。朝の渋滞と遠路、ここまで来た疲れから珈琲で疲れを癒やしました。
珈琲を飲み終わったら、受付に戻り朱印帳を受け取って10時44分に出て行きました。拝観は、これだけと思いましたが、一度行っている友人が、「まだ奥があるよ」と教えてくれました。
「庫裏」を出たら、「東司(お手洗い)」を見ました。残念ながら内部には入れませんでしたね。1650年(慶安3年)に新築されたものです。
この横に本物のトイレがあって、その時に「東司」を知ったんです。ここで休憩し友人に案内され、この奥に進みます。この寺は酬恩庵(しゅうおんあん)と言って、私が知っていた一休寺は通称だったんですね、ここに来て知りました。
【酬恩庵 一休寺 方丈】
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