南山城古寺巡礼 「酬恩庵 一休寺 本堂」へ
酬恩庵 一休寺の「方丈」を出て次に「本堂」に向かいます。ここは臨済宗大徳寺派の寺院ですので、「方丈(本堂)」と思っていましたが、奥に「本堂」がありました。それで「中門」をくぐります。
この「中門」をくぐると正面に見えるのが「本堂」です。この日は少し色づき始めていましたが、京博で購入したポストカードには綺麗な紅葉の写真がありました。
「本堂」の内部は入れません。内部も見ましたが暗くて分かりませんが、臨済宗の寺院ですので、本尊は「釈迦如来坐像」でしょう。他に「文殊普賢菩薩像」が安置されているそうです。
当本堂は山城・大和地方の唐様建築中で最も古い建造物で、1429年~1441年の永享年間に、室町幕府6代目将軍足利義教(あしかがよしのり)公の帰依により建立されました。
「本堂」前は、6月下旬頃になると沙羅の花が咲くようですね。近場だったら毎年行くのにね。
次に、案内にしたがって「宝物館(一休禅師頂相・一休禅師遺偈)」に入ります。ここでは一休禅師の頂相や遺偈などの墨跡他を展示されています。
「方丈」ではレプリカの襖絵を見ましたが、ここでは本物が展示されています。「室中の間」にあった「瀟湘八景図」(狩野探幽筆)です。瀟湘八景とは「平沙落雁」「遠浦帰帆」「山市晴嵐」「江山暮雪」「洞庭秋月」「瀟湘夜雨」「煙寺晩鐘」「魚村夕照」の八つ画題によって構成されています。
こちらは「一休禅師頂相(ちんそう)」(重文)で肖像画のことです。忌日には頂相をかけ法要を営みます。
ここを二人でゆっくり鑑賞させて貰いました。二人とも歴史が好きで、興味津々でした。
「宝物館」を出たあと、隣接する「開山堂」に向かいます。その前に一休禅師の石造像がありました。
こちらが「開山堂(大応堂)」です。1913年(大正2年)に改築されましたが、様式は完全に昔のまま残っているそうです。
堂内の内部には入れません。内部中央に、妙勝寺を創建した「大応国師(南浦紹明)木像」が安置されていますが、暗くて見えません。これは一休禅師が荒廃をした妙勝寺を再建し63歳の時につくられたものです。
実は、特別公開時にしか見ることが出来ない「虎丘庵」を探していたんですが、ここかなぁ・・・と思い近づくと・・・違いました。
虎丘庵は、「一休禅師墓所」のお隣にあって、「方丈南庭」からは屋根は見えていました。特別公開を知っても、ここまでは遠いので、なかなか行けないですね。
境内の最奥に行くと、池があって「橋」がありました。その橋の立て札に「このはしわたるべからず」と書かれています。
「このはし渡るべからず」・・・有名な一休さんの頓知(とんち)ですよね。桔梗屋が一休に出した問題の一つ。店の前の橋を一休さんが渡ろうとすると、「このはしわたるべからず」と書いてある。しかし一休さんは、「この端(はし)渡るべからず」と切り返し、橋の真ん中を堂々と渡った・・・と。私らも、堂々と橋の真ん中を渡りました。
「橋」を渡って、案内にしたがって参道を進むと、「開山堂」「宝物館」「本堂」を通って、前方に「中門」が見えて来ましたが、その門をくぐらず横道にそれます。
こちらに「お帰り道」と案内が出てました。何処に出るのかなぁ・・・と興味津々でした。
その先には著名人の墓地があって案内版が出ています。こちらは「茶人寸松庵之墓」と書いてあって、寸松庵は、佐久間真勝(さくまさねかつ)という江戸時代前期の武士で、古田織部に茶道を学び、晩年京都大徳寺に寸松庵をたててこれを号としました。
次に案内版があったのは、「能楽観世流の墓」中央に三代音阿弥、右に15代元章、左に19代清興と書いてありました。
こちらは近江源氏「佐々木承禎(ささきじょうてい)の墓」南近江の戦国大名で、六角氏15代当主。観音寺城主。上洛を目指す織田信長の侵攻をうけ1568年(永禄11年)観音寺城を退去し流浪の身となった。1598年(慶長3年)に宇治田原町で病死した。承禎以外にも息子の義治などの一族の墓もある。
この道を帰りますが、面白い案内版がありました。「有漏無漏の路」(一休宗純) 「有漏路(うろじ)より無漏路(むろじ)へ 帰る一休み 雨ふらば 降れ 風ふかば 吹け」意味は、人生というのは、この世からあの世へと向かう ほんの一休み。雨が降ろうが風が吹こうが気にしない気にしない。 でした。
この先を進めば、本堂の入口にあたる「中門」前に出ます。そこには重要文化財に指定されている「鐘楼」がありました。
前途したとおり、特別公開でしか見られない「虎丘庵」を、この時も探していました。結果、こちらは通常非公開の「江庵」でした。
江庵では、1月1日生まれの一休禅師にちなみ毎年1月の最終日曜日に「一休善哉の日」が行われ、絵馬に今年一年の善きことをしるし祈祷奉納を行い、その後、善哉の接待を江庵で行われるそうです。
こちらが探していた「虎丘庵」前で、綺麗に木瓜の花が咲いています。遠いためハードルは高いけど、次の公開時に行きたいと思います。
その「虎丘庵」のお隣が「一休宗純の墓」普段の門は固く閉まってますが、11月21日の「開山忌」では、開門されてるそうです。ただ写真は百日紅が咲いているので、この時期の、この花を見られるか分かりません。
行きに通った「浴室」前を通って、参道に出ると驚くほど人が増えてました。団体で来られたのでしょう、そのため帰りにもう一度「総門」を撮ろうと思っていたところ無理となりました。
11時7分に駐車場に戻ってきました。そしてら係の方が近づいてきて、駐車場料金300円を払うことに。そこはきっちりされてます。
ここから予定通り、京都市内を目指します。酬恩庵 一休寺で、帰りは急ぐので田辺北ICから京奈和自動車道に入ります。京田辺JCTから第二京奈和自動車道に入り北上し、京都市市内を目指します。第二京奈和自動車道は、鴨川東ICで高速を降り、国道24号線から九条通りを右折し、東山を目指しました。
【酬恩庵 一休寺 本堂】
この「中門」をくぐると正面に見えるのが「本堂」です。この日は少し色づき始めていましたが、京博で購入したポストカードには綺麗な紅葉の写真がありました。
「本堂」の内部は入れません。内部も見ましたが暗くて分かりませんが、臨済宗の寺院ですので、本尊は「釈迦如来坐像」でしょう。他に「文殊普賢菩薩像」が安置されているそうです。
当本堂は山城・大和地方の唐様建築中で最も古い建造物で、1429年~1441年の永享年間に、室町幕府6代目将軍足利義教(あしかがよしのり)公の帰依により建立されました。
「本堂」前は、6月下旬頃になると沙羅の花が咲くようですね。近場だったら毎年行くのにね。
次に、案内にしたがって「宝物館(一休禅師頂相・一休禅師遺偈)」に入ります。ここでは一休禅師の頂相や遺偈などの墨跡他を展示されています。
「方丈」ではレプリカの襖絵を見ましたが、ここでは本物が展示されています。「室中の間」にあった「瀟湘八景図」(狩野探幽筆)です。瀟湘八景とは「平沙落雁」「遠浦帰帆」「山市晴嵐」「江山暮雪」「洞庭秋月」「瀟湘夜雨」「煙寺晩鐘」「魚村夕照」の八つ画題によって構成されています。
こちらは「一休禅師頂相(ちんそう)」(重文)で肖像画のことです。忌日には頂相をかけ法要を営みます。
ここを二人でゆっくり鑑賞させて貰いました。二人とも歴史が好きで、興味津々でした。
「宝物館」を出たあと、隣接する「開山堂」に向かいます。その前に一休禅師の石造像がありました。
こちらが「開山堂(大応堂)」です。1913年(大正2年)に改築されましたが、様式は完全に昔のまま残っているそうです。
堂内の内部には入れません。内部中央に、妙勝寺を創建した「大応国師(南浦紹明)木像」が安置されていますが、暗くて見えません。これは一休禅師が荒廃をした妙勝寺を再建し63歳の時につくられたものです。
実は、特別公開時にしか見ることが出来ない「虎丘庵」を探していたんですが、ここかなぁ・・・と思い近づくと・・・違いました。
虎丘庵は、「一休禅師墓所」のお隣にあって、「方丈南庭」からは屋根は見えていました。特別公開を知っても、ここまでは遠いので、なかなか行けないですね。
境内の最奥に行くと、池があって「橋」がありました。その橋の立て札に「このはしわたるべからず」と書かれています。
「このはし渡るべからず」・・・有名な一休さんの頓知(とんち)ですよね。桔梗屋が一休に出した問題の一つ。店の前の橋を一休さんが渡ろうとすると、「このはしわたるべからず」と書いてある。しかし一休さんは、「この端(はし)渡るべからず」と切り返し、橋の真ん中を堂々と渡った・・・と。私らも、堂々と橋の真ん中を渡りました。
「橋」を渡って、案内にしたがって参道を進むと、「開山堂」「宝物館」「本堂」を通って、前方に「中門」が見えて来ましたが、その門をくぐらず横道にそれます。
こちらに「お帰り道」と案内が出てました。何処に出るのかなぁ・・・と興味津々でした。
その先には著名人の墓地があって案内版が出ています。こちらは「茶人寸松庵之墓」と書いてあって、寸松庵は、佐久間真勝(さくまさねかつ)という江戸時代前期の武士で、古田織部に茶道を学び、晩年京都大徳寺に寸松庵をたててこれを号としました。
次に案内版があったのは、「能楽観世流の墓」中央に三代音阿弥、右に15代元章、左に19代清興と書いてありました。
こちらは近江源氏「佐々木承禎(ささきじょうてい)の墓」南近江の戦国大名で、六角氏15代当主。観音寺城主。上洛を目指す織田信長の侵攻をうけ1568年(永禄11年)観音寺城を退去し流浪の身となった。1598年(慶長3年)に宇治田原町で病死した。承禎以外にも息子の義治などの一族の墓もある。
この道を帰りますが、面白い案内版がありました。「有漏無漏の路」(一休宗純) 「有漏路(うろじ)より無漏路(むろじ)へ 帰る一休み 雨ふらば 降れ 風ふかば 吹け」意味は、人生というのは、この世からあの世へと向かう ほんの一休み。雨が降ろうが風が吹こうが気にしない気にしない。 でした。
この先を進めば、本堂の入口にあたる「中門」前に出ます。そこには重要文化財に指定されている「鐘楼」がありました。
前途したとおり、特別公開でしか見られない「虎丘庵」を、この時も探していました。結果、こちらは通常非公開の「江庵」でした。
江庵では、1月1日生まれの一休禅師にちなみ毎年1月の最終日曜日に「一休善哉の日」が行われ、絵馬に今年一年の善きことをしるし祈祷奉納を行い、その後、善哉の接待を江庵で行われるそうです。
こちらが探していた「虎丘庵」前で、綺麗に木瓜の花が咲いています。遠いためハードルは高いけど、次の公開時に行きたいと思います。
その「虎丘庵」のお隣が「一休宗純の墓」普段の門は固く閉まってますが、11月21日の「開山忌」では、開門されてるそうです。ただ写真は百日紅が咲いているので、この時期の、この花を見られるか分かりません。
行きに通った「浴室」前を通って、参道に出ると驚くほど人が増えてました。団体で来られたのでしょう、そのため帰りにもう一度「総門」を撮ろうと思っていたところ無理となりました。
11時7分に駐車場に戻ってきました。そしてら係の方が近づいてきて、駐車場料金300円を払うことに。そこはきっちりされてます。
ここから予定通り、京都市内を目指します。酬恩庵 一休寺で、帰りは急ぐので田辺北ICから京奈和自動車道に入ります。京田辺JCTから第二京奈和自動車道に入り北上し、京都市市内を目指します。第二京奈和自動車道は、鴨川東ICで高速を降り、国道24号線から九条通りを右折し、東山を目指しました。
【酬恩庵 一休寺 本堂】
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