人里離れた山寺に かくれた文化財の宝庫 金剛寺「天皇御在所・庭園・宝物館」へ
11月5日(木)は、以前から計画していた大阪府河内長野市にある天野山 金剛寺に行って来ました。この寺を知ったのは、MBS毎日放送「ミント」のコーナーで、笑い飯の哲夫さんが担当する「ナゼトキ」で、この金剛寺が紹介されたのを見たからです。
この中で、普段は見られない「国宝三尊」を間近で見られる、秋期「国宝特別公開」が11月1日(日)~5日(木)まで開催されるのを知り、たまたま友人も休みだったので、誘った次第です。
自宅を6時40分頃出発し、途中、友人がガソリンスタンドに寄りましたが、五条天神川から国道9号線に入り、亀岡方面の西に進みます。朝の通勤ラッシュで渋滞しているなか、緩やかに登りが続く約7㌔先にある沓掛の信号を左折し、大原野ICから京都縦貫道に入り、途中、京滋バイパスに入り、久御山JTCから第二京坂自動車道に入ります。次に門真JCTから近畿自動車道に入り、そのまましばらく南下し、松原JCTから阪和自動車道に入りました。車は阪和自動車道を南下し、岸和田和泉ICで高速を降り、ナビの誘導で国道170号線から無事に天野山 金剛寺の駐車場に8時37分に到着することが出来ました。
普段の金剛寺を知らないので、何とも言えませんが、駐車場の入口で駐車料金500円を払いました。入って来た入口ある門は、「南大門(重文)」です。
友人が「開門は9時にしか開きませんか?」と聞いてくれて「そうです」と。まだ20分もあるので、この辺をゆっくり散策します。
金剛寺は、標高170㍍にあって、広さが5㌶(甲子園が4㌶)もあって、広大な寺領を有します。ここには国宝が5件、重文が29件もあります。
車を降り、先ずは「楼門(重文)」を見ました。鎌倉時代に建てられた楼門は、聞いた通り閉門したままです。この時間で1組2名の先客が居ました。
冷え込んだ空気の中、参道を歩いて行くと無量壽院に架かる「禅之橋」を撮りました。
反対側を見ると「魔尼院」(南朝行在所)があって、ここも閉まっています。こちらは、後程、入ります。
北に向かって参道を歩いて行くと、次に「観蔵院門」がありました。本坊の大玄関に入る門だと思います。
その反対側には、「講堂」に架かる「忍之橋」を撮りました。余談ですが、この前を一人の僧侶が清掃されてました。何処かで見たことが・・・と。
10月9日(金)にMBS毎日放送で放送されたとき、笑い飯の哲夫さんとMBSアナウンサー野嶋紗己子さんに対応されていた、座主の方が参道の清掃されてましたね。声を掛ける勇気は無かったです。
次の「壇之橋」は渡りました。そこから拝観受付のある「寺務所」を見ています。
特に行く所もないので、10分前に着きましたが、ここで待つことにしました。特別公開期間は、受付も特別のようです。
待っている間に、拝観料を確認しました。拝観は2箇所のようで、「金堂国宝三尊」が、1000円。「天皇御在所・庭園・宝物館」が400円。共通券が1300円でした。もちろん共通券を買います。
天野山 金剛寺は、奈良時代に行基菩薩が第45代聖武天皇の勅命によって開創し、平安時代には、弘法大師が密教修練された聖地です。金剛寺は、その後400年のあいだに荒廃してしまいます。しかし、平安時代の終わりに高野山より阿観(あかん)上人が、後白河上皇とその妹の八条女院(はちじょうにょいん)の帰依を受け高野山より真如親王筆の弘法大師像を拝受し御影堂を建立し、金堂(本堂)、多宝塔、楼門、食堂(じきどう)などの伽藍を再興して行きます。再興当時から弘法大師をお祀りしてさらに女性が弘法大師にお参りができたことで、明治初年まで女人禁制だった高野山に対し、女人高野と呼ばれるようになりました。
8時56分になって、受付の方が来られたので、共通券を購入し「本坊」から入ります。正面に見えているのは「本坊」の「大玄関」でした。
入ると、いきなり見事な庭園を目にします。「室町式庭園」と呼ばれ、国の史跡指定されています。
庭園は、コの字に見られるので、先ずは南側の廊下を進みました。見えている建物は「客殿」(右)と「持仏堂」(左)です。
この庭は、枯山水庭園で、杉苔の中に「鶴島」「亀島」を配しています。こちらは「鶴島」で、樹齢600年の立派な松が見事です。
「大玄関」の部屋が開いてました。室内には入れませんが、旧子院群の統合に際し建てられたもの。、
このまま奥に進むと、天皇が住まわれた「奥殿」(観蔵院)が見えて来ました。奥殿は、元金剛寺塔頭観蔵院で、北朝の御在所となりました。
見事な庭園を見ながら歩いて行くと左手に「観蔵院門」があって、石碑に「北朝光厳天皇行在所」と書かれています。光厳天皇は、北朝初代で、歴代天皇には含まれません。行在所(あんざいしょ)は、天皇の行幸(ぎょうこう)時の仮宮(かりみや)のこと。
渡り廊下を通って、「奥殿(北朝御座所)」に入ります。ここは室内に入れるので楽しみの一つでした。
「奥殿(北朝御座所)」から見た、「室町式庭園」です。京都で綺麗な庭園を見慣れていますが、ここのは見事です。では室内に入ります。
入ると国宝「日月山水図」屏風 六曲一双(上:右隻・下:左隻)室町時代で、作者不明。ただ私らが見たのはレプリカでした。本物は11月1日(日)~3日(祝・火)の間に公開されました。
浜松の背後に四季の山並みを置き、空に日月を浮かべる。山や波の大きなうねりに松や波頭が絡みつき、それが大胆な金銀の装飾と響き合って、現在でも観者に強く訴えかけてくる。絵画性と装飾性が融合した日本絵画の特質をよく表した逸品である。
室内は撮影禁止でした。本物が、3日までは知ってましたが、5日しか来られ無かったので納得済みです。友人は、レプリカでも喜んでくれました。
写真は、パンフからの抜粋です。こちらに北朝の三上皇(光厳・光明・崇光)が居たところです。
南北朝時代に、金剛寺は南朝方の拠点となり、1354年(正平9年)からの6ケ年にわたり、南朝の第97代後村上天皇が、子院の「摩尼院」と「食堂(じきどう)」を行宮として用いていました。その間、 一時、北朝の三上皇(光厳・光明・崇光)及び直仁親王が、子院「観蔵院(かんぞういん)」に幽閉されたことがありました。
「奥殿(北朝御座所)」を出て、渡り廊下を通って、向こうに見えている「持仏堂」や「宝物館」に向かいます。
「持仏堂」は、江戸時代の建物で、元中院(金剛寺本坊)の本堂で、本尊は不動明王でした。
「持仏堂」の奥には「茶室」があって内部は見られません。また、その横には「枯滝石組」が造られていました。
最後に「宝物館」に入りました。内部には「大日如来坐像(重文・鎌倉時代)」があって、これは多宝塔の本尊でした。他もゆっくり見させて貰い出てきました。
帰りに「客殿」で、僧侶の方に御朱印を尋ねたら、「楼門」前と聞きました。ここではポストカードを購入して出て行きました。
ここを出たら、共通券を購入しているので「楼門」に向かいます。が、その前に「魔尼院(南朝行在所)」に寄って行きます。
魔尼院は、ここに来るまで知らなかったですし、何も調べて来なかったので、楽しみです。
【金剛寺 奥殿(北朝御在所)】
この中で、普段は見られない「国宝三尊」を間近で見られる、秋期「国宝特別公開」が11月1日(日)~5日(木)まで開催されるのを知り、たまたま友人も休みだったので、誘った次第です。
自宅を6時40分頃出発し、途中、友人がガソリンスタンドに寄りましたが、五条天神川から国道9号線に入り、亀岡方面の西に進みます。朝の通勤ラッシュで渋滞しているなか、緩やかに登りが続く約7㌔先にある沓掛の信号を左折し、大原野ICから京都縦貫道に入り、途中、京滋バイパスに入り、久御山JTCから第二京坂自動車道に入ります。次に門真JCTから近畿自動車道に入り、そのまましばらく南下し、松原JCTから阪和自動車道に入りました。車は阪和自動車道を南下し、岸和田和泉ICで高速を降り、ナビの誘導で国道170号線から無事に天野山 金剛寺の駐車場に8時37分に到着することが出来ました。
普段の金剛寺を知らないので、何とも言えませんが、駐車場の入口で駐車料金500円を払いました。入って来た入口ある門は、「南大門(重文)」です。
友人が「開門は9時にしか開きませんか?」と聞いてくれて「そうです」と。まだ20分もあるので、この辺をゆっくり散策します。
金剛寺は、標高170㍍にあって、広さが5㌶(甲子園が4㌶)もあって、広大な寺領を有します。ここには国宝が5件、重文が29件もあります。
車を降り、先ずは「楼門(重文)」を見ました。鎌倉時代に建てられた楼門は、聞いた通り閉門したままです。この時間で1組2名の先客が居ました。
冷え込んだ空気の中、参道を歩いて行くと無量壽院に架かる「禅之橋」を撮りました。
反対側を見ると「魔尼院」(南朝行在所)があって、ここも閉まっています。こちらは、後程、入ります。
北に向かって参道を歩いて行くと、次に「観蔵院門」がありました。本坊の大玄関に入る門だと思います。
その反対側には、「講堂」に架かる「忍之橋」を撮りました。余談ですが、この前を一人の僧侶が清掃されてました。何処かで見たことが・・・と。
10月9日(金)にMBS毎日放送で放送されたとき、笑い飯の哲夫さんとMBSアナウンサー野嶋紗己子さんに対応されていた、座主の方が参道の清掃されてましたね。声を掛ける勇気は無かったです。
次の「壇之橋」は渡りました。そこから拝観受付のある「寺務所」を見ています。
特に行く所もないので、10分前に着きましたが、ここで待つことにしました。特別公開期間は、受付も特別のようです。
待っている間に、拝観料を確認しました。拝観は2箇所のようで、「金堂国宝三尊」が、1000円。「天皇御在所・庭園・宝物館」が400円。共通券が1300円でした。もちろん共通券を買います。
天野山 金剛寺は、奈良時代に行基菩薩が第45代聖武天皇の勅命によって開創し、平安時代には、弘法大師が密教修練された聖地です。金剛寺は、その後400年のあいだに荒廃してしまいます。しかし、平安時代の終わりに高野山より阿観(あかん)上人が、後白河上皇とその妹の八条女院(はちじょうにょいん)の帰依を受け高野山より真如親王筆の弘法大師像を拝受し御影堂を建立し、金堂(本堂)、多宝塔、楼門、食堂(じきどう)などの伽藍を再興して行きます。再興当時から弘法大師をお祀りしてさらに女性が弘法大師にお参りができたことで、明治初年まで女人禁制だった高野山に対し、女人高野と呼ばれるようになりました。
8時56分になって、受付の方が来られたので、共通券を購入し「本坊」から入ります。正面に見えているのは「本坊」の「大玄関」でした。
入ると、いきなり見事な庭園を目にします。「室町式庭園」と呼ばれ、国の史跡指定されています。
庭園は、コの字に見られるので、先ずは南側の廊下を進みました。見えている建物は「客殿」(右)と「持仏堂」(左)です。
この庭は、枯山水庭園で、杉苔の中に「鶴島」「亀島」を配しています。こちらは「鶴島」で、樹齢600年の立派な松が見事です。
「大玄関」の部屋が開いてました。室内には入れませんが、旧子院群の統合に際し建てられたもの。、
このまま奥に進むと、天皇が住まわれた「奥殿」(観蔵院)が見えて来ました。奥殿は、元金剛寺塔頭観蔵院で、北朝の御在所となりました。
見事な庭園を見ながら歩いて行くと左手に「観蔵院門」があって、石碑に「北朝光厳天皇行在所」と書かれています。光厳天皇は、北朝初代で、歴代天皇には含まれません。行在所(あんざいしょ)は、天皇の行幸(ぎょうこう)時の仮宮(かりみや)のこと。
渡り廊下を通って、「奥殿(北朝御座所)」に入ります。ここは室内に入れるので楽しみの一つでした。
「奥殿(北朝御座所)」から見た、「室町式庭園」です。京都で綺麗な庭園を見慣れていますが、ここのは見事です。では室内に入ります。
入ると国宝「日月山水図」屏風 六曲一双(上:右隻・下:左隻)室町時代で、作者不明。ただ私らが見たのはレプリカでした。本物は11月1日(日)~3日(祝・火)の間に公開されました。
浜松の背後に四季の山並みを置き、空に日月を浮かべる。山や波の大きなうねりに松や波頭が絡みつき、それが大胆な金銀の装飾と響き合って、現在でも観者に強く訴えかけてくる。絵画性と装飾性が融合した日本絵画の特質をよく表した逸品である。
室内は撮影禁止でした。本物が、3日までは知ってましたが、5日しか来られ無かったので納得済みです。友人は、レプリカでも喜んでくれました。
写真は、パンフからの抜粋です。こちらに北朝の三上皇(光厳・光明・崇光)が居たところです。
南北朝時代に、金剛寺は南朝方の拠点となり、1354年(正平9年)からの6ケ年にわたり、南朝の第97代後村上天皇が、子院の「摩尼院」と「食堂(じきどう)」を行宮として用いていました。その間、 一時、北朝の三上皇(光厳・光明・崇光)及び直仁親王が、子院「観蔵院(かんぞういん)」に幽閉されたことがありました。
「奥殿(北朝御座所)」を出て、渡り廊下を通って、向こうに見えている「持仏堂」や「宝物館」に向かいます。
「持仏堂」は、江戸時代の建物で、元中院(金剛寺本坊)の本堂で、本尊は不動明王でした。
「持仏堂」の奥には「茶室」があって内部は見られません。また、その横には「枯滝石組」が造られていました。
最後に「宝物館」に入りました。内部には「大日如来坐像(重文・鎌倉時代)」があって、これは多宝塔の本尊でした。他もゆっくり見させて貰い出てきました。
帰りに「客殿」で、僧侶の方に御朱印を尋ねたら、「楼門」前と聞きました。ここではポストカードを購入して出て行きました。
ここを出たら、共通券を購入しているので「楼門」に向かいます。が、その前に「魔尼院(南朝行在所)」に寄って行きます。
魔尼院は、ここに来るまで知らなかったですし、何も調べて来なかったので、楽しみです。
【金剛寺 奥殿(北朝御在所)】
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