新田義貞公墓所 明智光秀ゆかりの「称念寺」へ
丸岡城の駐車場を出て、ほぼ西に進みます。約3㌔、10分程度で次の目的地である称念寺に10時頃に着きました。ただ駐車場が何処にあるのか分からないので調べると、こちはらは直ぐに分かりました。
境内の西側に「山門」があって、ここで車を降り写真だけ撮りました。山門の右手には「史跡 新田義貞公墓所」と左手には「時宗 長林山 称念寺」と書いてあります。
称念寺(しょうねんじ)は、福井県坂井市丸岡町長崎にある時宗の寺院。山号は長林山。院号は往生院。
その「山門」前に、駐車場の案内が出ていました。そこで車に乗って北に向いて走らせると・・・?。
Googleのストリートビューで見ると、田畑だった所に「称念寺駐車場」が出来てました。明智光秀人気でしょうかね。
再び「山門」前に戻って境内に入ります。ここに来た目的は、新田義貞と明智光秀です。
駐車場には車が数台止まってましたが、何故か境内には誰も居ないようです。それでは入って行きます。
境内を進むと、土日限定のお土産屋さん「煕光庵」があって、朱印も置いてあるようなことが書いてありました。今日は平日ですので誰も居ません・・・残念。
721年(養老5年)から続く歴史あるお寺です。北陸における時宗布教の中心道場として、朝廷や足利将軍家の祈願所となり、朝倉家はじめ歴代の越前国主から熱く保護されました。また南北朝時代に新田義貞の遺骸が運ばれ葬られた「太平記」のことから、義貞の墓所もあります。また1562年(永禄5年)より約10年間、明智光秀公が家族で寄宿していました。さて明智光秀は、1556年(弘治2年)に「長良川の戦い」で齊藤義龍の大軍に敗れ、妻の熈子や家族と伴に、越前大野を経て越前の称念寺に来ました。これは光秀が幼い時に、母のお牧の方の縁である西福庵に縁があったことによります。1562年(永禄5年)より貧しいながらも夫婦で、門前に寺子屋を開き、仲良く生活していましたようです。称念寺は時宗という宗派ですから、詩歌に優れた住職が多かったのです。また「遊行」といって全国を旅する布教が特徴なので、光秀は天下を狙う情報を、この北国街道の称念寺で、十分把握できたわけです。やがて称念寺住職の口ぞえで、朝倉家家臣の黒坂備中守に仕えます。鎌倉時代から称念寺に安置されている阿弥陀三尊来迎仏像は、光秀も手を合わせたものだと寺に伝えられています。
私は覚えて無かったんですが、2020年(令和2年)5月17日にNHK大河ドラマ「麒麟がくる」第18回放送の「紀行」にて、この称念寺が紹介されました。
ここも明智光秀人気で有名になったみたいですね。臨時の土産物店もあったりして。ただ光秀ゆかりのものは、無いみたいです。
ここに来た目的は「新田義貞公墓所」があるのを知ったからです。何故、越前の称念寺に墓所があるのか興味がありました。
1338年(延元3年・建武5年)7月2日、新田義貞は越前国藤島(現在の福井市)の「灯明寺畷の戦い」において、斯波高経が送った細川出羽守、鹿草公相の軍勢と交戦中に眉間に矢を受け戦死。越前国で勢いを盛り返し、自ら京へ上洛しようと画策していた矢先の出来事であった。義貞公の遺骸は葬礼のため時衆の僧(時宗の陣僧)8人が輿に乗せ、坂井市丸岡町長崎の道場(往生院)に運ばれ、手厚く葬られました。これにより、称念寺は新田義貞公の菩提寺として知られるようになりました。
拝所から奥には行けないので、隙間から垣間見ると立派な墓所でしたね。新田義貞公の死から500年以上の明治維新後に、義貞は正一位を贈位されてます。
義貞の死後、首級は京都に送られたそうで、「太平記」よると都大路を引き回されたのち、獄門に掛けられたとあるそうです。それと関係あるのかどうか分かりませんが、京都市右京区にある滝口寺に新田義貞の首塚があります。
滝口寺は、家から近いので何度か行ってます。「太平記」では、京の三条河原で晒し首になっていたものを、妻・勾当内侍(こうとうのないし)が、首を盗み出し嵯峨野に埋葬し弔ったと言うことです。
次に「本堂」に行きました。石段を上がって扉を開けて見ましたが鍵がかかっており内部を見ることはできません。
入口にパンフが置いてあったので持ち帰りました。内陣中央には「」が安置されているようです。本尊左の「阿弥陀三尊来迎仏」は明智光秀も手を合わせたと伝わるものです。
本堂前にあったのは「宝篋印塔」です。前途したとおりパンフに境内図があって分かりました。
黒髪伝説に感銘を受けた松尾芭蕉は、奥の細道の途中に称念寺に立ち寄り、光秀の夫婦愛を聞き詠んだ俳句が句碑になってます。「月さびよ 明智が妻の 咄せむ」と書いてありました。
本堂から見て左奥には「忠霊塔」があります。その先には建設中の「北陸新幹線」で敦賀まで延伸工事中ですが・・・最近の報道で開通が伸びるみたいです。
明智光秀・明智煕子は称念寺の門前に住み、玉子(後のガラシア)がここで生まれとか(諸説あり)。その人気にあやかるような・・・境内は、そんな雰囲気がありましたね。
10時15分頃に称念寺の駐車場に戻って来ました。ここから北陸新幹線の高架工事が見えます。この時は知らなかったんですが、帰ってからテレビのニュースで知ることになります。
北陸新幹線の金沢と福井県の敦賀を結ぶ区間は2023年春の開業予定が1年半遅れるという国の見通しに対し、与党のプロジェクトチームが見直しを求めていました。これを受けて、国土交通省の検証委員会は、開業の遅れを半年間短縮しておよそ1年とし、追加の事業費は200億円余り圧縮し、2600億円程度とする案で調整を進めていることが分かりました。
10時17分頃に、次の目的地「三國」に向かって車は出て行きました。
【時宗 長林山 称念寺】
境内の西側に「山門」があって、ここで車を降り写真だけ撮りました。山門の右手には「史跡 新田義貞公墓所」と左手には「時宗 長林山 称念寺」と書いてあります。
称念寺(しょうねんじ)は、福井県坂井市丸岡町長崎にある時宗の寺院。山号は長林山。院号は往生院。
その「山門」前に、駐車場の案内が出ていました。そこで車に乗って北に向いて走らせると・・・?。
Googleのストリートビューで見ると、田畑だった所に「称念寺駐車場」が出来てました。明智光秀人気でしょうかね。
再び「山門」前に戻って境内に入ります。ここに来た目的は、新田義貞と明智光秀です。
駐車場には車が数台止まってましたが、何故か境内には誰も居ないようです。それでは入って行きます。
境内を進むと、土日限定のお土産屋さん「煕光庵」があって、朱印も置いてあるようなことが書いてありました。今日は平日ですので誰も居ません・・・残念。
721年(養老5年)から続く歴史あるお寺です。北陸における時宗布教の中心道場として、朝廷や足利将軍家の祈願所となり、朝倉家はじめ歴代の越前国主から熱く保護されました。また南北朝時代に新田義貞の遺骸が運ばれ葬られた「太平記」のことから、義貞の墓所もあります。また1562年(永禄5年)より約10年間、明智光秀公が家族で寄宿していました。さて明智光秀は、1556年(弘治2年)に「長良川の戦い」で齊藤義龍の大軍に敗れ、妻の熈子や家族と伴に、越前大野を経て越前の称念寺に来ました。これは光秀が幼い時に、母のお牧の方の縁である西福庵に縁があったことによります。1562年(永禄5年)より貧しいながらも夫婦で、門前に寺子屋を開き、仲良く生活していましたようです。称念寺は時宗という宗派ですから、詩歌に優れた住職が多かったのです。また「遊行」といって全国を旅する布教が特徴なので、光秀は天下を狙う情報を、この北国街道の称念寺で、十分把握できたわけです。やがて称念寺住職の口ぞえで、朝倉家家臣の黒坂備中守に仕えます。鎌倉時代から称念寺に安置されている阿弥陀三尊来迎仏像は、光秀も手を合わせたものだと寺に伝えられています。
私は覚えて無かったんですが、2020年(令和2年)5月17日にNHK大河ドラマ「麒麟がくる」第18回放送の「紀行」にて、この称念寺が紹介されました。
ここも明智光秀人気で有名になったみたいですね。臨時の土産物店もあったりして。ただ光秀ゆかりのものは、無いみたいです。
ここに来た目的は「新田義貞公墓所」があるのを知ったからです。何故、越前の称念寺に墓所があるのか興味がありました。
1338年(延元3年・建武5年)7月2日、新田義貞は越前国藤島(現在の福井市)の「灯明寺畷の戦い」において、斯波高経が送った細川出羽守、鹿草公相の軍勢と交戦中に眉間に矢を受け戦死。越前国で勢いを盛り返し、自ら京へ上洛しようと画策していた矢先の出来事であった。義貞公の遺骸は葬礼のため時衆の僧(時宗の陣僧)8人が輿に乗せ、坂井市丸岡町長崎の道場(往生院)に運ばれ、手厚く葬られました。これにより、称念寺は新田義貞公の菩提寺として知られるようになりました。
拝所から奥には行けないので、隙間から垣間見ると立派な墓所でしたね。新田義貞公の死から500年以上の明治維新後に、義貞は正一位を贈位されてます。
義貞の死後、首級は京都に送られたそうで、「太平記」よると都大路を引き回されたのち、獄門に掛けられたとあるそうです。それと関係あるのかどうか分かりませんが、京都市右京区にある滝口寺に新田義貞の首塚があります。
滝口寺は、家から近いので何度か行ってます。「太平記」では、京の三条河原で晒し首になっていたものを、妻・勾当内侍(こうとうのないし)が、首を盗み出し嵯峨野に埋葬し弔ったと言うことです。
次に「本堂」に行きました。石段を上がって扉を開けて見ましたが鍵がかかっており内部を見ることはできません。
入口にパンフが置いてあったので持ち帰りました。内陣中央には「」が安置されているようです。本尊左の「阿弥陀三尊来迎仏」は明智光秀も手を合わせたと伝わるものです。
本堂前にあったのは「宝篋印塔」です。前途したとおりパンフに境内図があって分かりました。
黒髪伝説に感銘を受けた松尾芭蕉は、奥の細道の途中に称念寺に立ち寄り、光秀の夫婦愛を聞き詠んだ俳句が句碑になってます。「月さびよ 明智が妻の 咄せむ」と書いてありました。
本堂から見て左奥には「忠霊塔」があります。その先には建設中の「北陸新幹線」で敦賀まで延伸工事中ですが・・・最近の報道で開通が伸びるみたいです。
明智光秀・明智煕子は称念寺の門前に住み、玉子(後のガラシア)がここで生まれとか(諸説あり)。その人気にあやかるような・・・境内は、そんな雰囲気がありましたね。
10時15分頃に称念寺の駐車場に戻って来ました。ここから北陸新幹線の高架工事が見えます。この時は知らなかったんですが、帰ってからテレビのニュースで知ることになります。
北陸新幹線の金沢と福井県の敦賀を結ぶ区間は2023年春の開業予定が1年半遅れるという国の見通しに対し、与党のプロジェクトチームが見直しを求めていました。これを受けて、国土交通省の検証委員会は、開業の遅れを半年間短縮しておよそ1年とし、追加の事業費は200億円余り圧縮し、2600億円程度とする案で調整を進めていることが分かりました。
10時17分頃に、次の目的地「三國」に向かって車は出て行きました。
【時宗 長林山 称念寺】
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