七柱の神を祀る北陸道の総鎮守 越前國一之宮 氣比神宮へ
13時40分頃に「道の駅 越前」を出て、敦賀市に向かいます。敦賀市に入って、標識を見て「金ヶ崎城跡」に寄りました。ここは明智光秀ゆかりの地でしたが、げ゛んざいは「金崎宮」の境内に石碑が建っています。着いた頃に団体さんがガイドさんの話しを聞いたところです。ですから、私らは車から降りず、そのまま出て行きました。
そして14時30分頃、「越前國一之宮 氣比神宮」の「東駐車場」に無事到着しました。こちらの駐車場は大変広く、観光バスも止まってます。料金は無料でした。
東駐車場から「東神門」を通って境内に入りました。門には「菊花紋章」がありました。
境内は人が多いです。先ずは本殿前の「外拝殿」で参拝します。1945年(昭和20年)の空襲で本殿とともに焼失しましたが、1982年(昭和57年)に再建されましたものです。
本殿に主祭神の「伊奢沙別命(いざさわけのみこと)」「仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)」「神功皇后(じんぐうこうごう)」の三柱を祀り、総社宮に「応神天皇(おうじんてんのう)」、東殿宮に「日本武尊(やまとたけるのみこと)」、平殿宮に「玉姫命(たまひめのみこと)」、西殿宮に「武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)」が祀られています。
越前国敦賀には古くから多くの神社が建てられました。「延喜式神名帳」に記載された11郡126座のうち、敦賀郡が43座も占める。氣比神宮はその筆頭と言えます。南北朝時代に 氣比氏治大宮司(鎌倉時代後期から南北朝時代の武将 越前氣比神宮の大宮司 越前金ヶ崎城主)は後醍醐天皇を奉じて金ヶ崎の戦いで奮戦するも、城は兵糧攻めに遭い、尊良親王・新田義貞・世尊寺行房らと共に自害。戦国時代の氣比憲直大宮司は、織田信長の越前朝倉討伐を迎撃し大激戦を演じたが信長の勝利に終わり、氣比神宮の社領は衰退しました。江戸時代に入り越前国北ノ庄藩初代藩主結城秀康(徳川家康の次男)の援助を受け復興。秀康は本殿両流造、檜皮葺の壮麗な建造物で国宝に指定されましたが、1945年(昭和20年)の空襲で焼失。1950年(昭和25年)に本殿は再建され、1982年(昭和57年)「昭和の大造営」により、拝殿などが再建されました。
外拝殿の西側に鳥居があって、手前には由緒が書かれてました。ここには「九社之宮」と「神明両宮」があるようです。さっそく入ってみます。
摂社「伊佐々別(いささわけ)神社」祭神、御食津大神荒魂神(みつけおおかみあらみたまのかみ)。漁労を守る神であり北方の海に面す。応神天皇の臣下てある武内宿禰に命じて、新たに 氣比大神の荒魂を勧請したのが始まり。
末社「擬領(おおみやつこ)神社」祭神は、武功狭日命(たけいさひのみこと)。祭神は一説に大美屋都古神(おおみやつこのかみ)とも、玉佐々良彦命'たまささらひこのみこと)とも設がある。
摂社(式内社)「天伊弉奈彦(あめのいざなひこ)神社」祭神は、伊弉奈彦大神(あめのいざなひこのおおかみ)。天伊弉奈姫神社と同社は万物生成を司る造化陰陽の二柱を祀ると言われ、840年(承久7年)無位から従五位下に昇叙された。
摂社(式内社)「天伊弉奈姫(あめのいざなひめ)神社」祭神は、天比女若御子大神(あめひめわかみこのおおかみ)。天伊弉奈彦神社と一対になる神社であり、現在の社殿は1980年(昭和55年)に天伊弉奈彦神社とともに再建された。古くから縁結びの神として信仰を集める。
摂社(式内社)「天利劔(あめのとつるぎ)神社」祭神は、天利劔大神(あめのとつるぎのおおかみ)。社伝によると、仲哀天皇が 氣比神宮を参拝した際、宝剣を奉納したことに始まる。
末社「鏡神社」御祭神は、神功皇后奉献の宝鏡の神霊。別殿に「天鏡宮」として、国常立尊(くにのとこたちのみこと)とともに祀ったのが始まり。
末社「林(はやしの)神社」祭神は、林山姫神(はやまひめのかみ)。日吉大社で祀られている江州比叡 山氣比明神のご本社とされる。788年(延暦7年)同社霊鏡を最澄が比叡山の日吉神社に遷して祀ったという。
末社「金(かねの)神社」祭神は、素戔嗚尊。804年(延暦23年)空海が同社の霊鏡を 高野山に遷して祀ったと伝承があり。
末社「劔神社」祭神は、姫大神尊(ひめのおおかみのみこと)。往古神明の神託を受け、敦賀市莇生野の劔神社からの勧請し、 氣比神宮内に祀ったのが始まりという。
突き当たりに「神明両宮」があって祭神は、天照皇大神(内宮・右)、豊受大神(外宮・左)。外宮(左)は1612年(慶長17年)、内宮(右)は1615年(元和元年)の勧請。
「神明両宮」の前から「九社之宮」をすべて見ています。境内は人が多かったけど、ここには誰も居ませんでした。
境内の南側には神門が無く、朱塗りの「中鳥居」があるだけです。入ってきたときに居た団体さんも出て行って、この時はだけは誰も居なくなってました。
「氣比神宮」と書かれた扁額が架かった「中鳥居」を出ると、ここに「手水舎」がありました。柄杓は無いですね。
702年(大宝2年)に氣比神宮を修営時に突然地下水が噴出したと伝わる「氣比の長命水」が、中鳥井の近くにありました。神々が宿る神水として信仰され1300年以上長き亘り親しまれいます。
この氣比神宮には、重要文化財に指定されている大鳥居があるので反り橋を渡って写真を撮りに行きます。
1945年(昭和20年)の福井敦賀大空襲で、唯一焼失を免れたのが、この「大鳥居」です。
奈良の春日大社、広島の厳島神社の鳥居と並んで「日本三大鳥居」に数えられ、1645年(生保2年)に旧神領地佐渡国鳥居ケ原から奉納されたもので、初代810年(弘元元年)に境内の東側に建立されましたが、1343年(康永2年)暴風雨により倒壊したため、現在に再建されました。
このとき、14時50分頃になってましたが、参拝者は多かったです。巨大な狛犬や立派な鳥居を見たあと、参道に戻ると・・・。
入ると左手に末社「猿田彦神社」があったので寄って行きます。北に入り西に進むと小さな社殿があって、御祭神は、猿田彦大神でした。
1775年(安永4年)の鎮座。氣比大神を案内される神様を祀り、交通安全、家内安全の御神徳は高く日々の参詣者は多い。俗に庚申さまと唱えられている。
「中鳥居」の前にある松は南北朝時代、氣比神宮の氣比氏治大宮司が後醍醐天皇を奉じたというれる「旗掲松(はたかけのまつ)」です。
1336年(延元元年)の南北朝騒乱時代に、氣比氏治大宮司が第96代天皇および南朝初代天皇である後醍醐天皇を奉じ氣比大明神の神旗を掲げたという松です。金ケ崎城を築いて足利軍と奮戦するも、一門はことごとく討ち死にしました。今でも旧根が残り、二代目が成木として育っています。
他に「中鳥居」の前には、「松尾芭蕉像」と「句碑」があります。芭蕉は「奥の細道」の旅において、ここ氣比神宮の月を詠みました。
芭蕉は、1689年(元禄2年)8月14日の夕刻に敦賀に入り、旅籠出雲屋に宿をもちました。宿屋の主人から「北陸の天気は変わりやすいので今夜のうちに氣比神宮に参りませんか?」と言われそれならばと夜参りに出掛け月見を堪能したわけです。そこで「名月や 北国日和 定めなき」「月清し 遊行の持てる 砂の上」の名句を残しました。
2016年(平成28年)10月、氣比神宮境内地の全域が福井県内で初めて、国の名勝「おくのほそ道の風景地」に指定されています。ここから外拝殿には入らず、東駐車場に向かうと・・・?
境内の東南角には「神水苑」があって、日本庭園歴覧にも収録された名池「亀の池」を改修されたようです。
ほぼ境内の東南角に天然記念物「ユーカリ」の大木がありました。1936年(昭和11年)陸軍の有志から献木されたもの。
東駐車場まで戻ると、学生さんが集合時間になったのかどうか分かりませんが、大挙走って行かれます。急に静かになった駐車場に、境内社が見えたので、そちらに向かいます。
鳥居が二つ並んでいますが、右側から摂社(式内社)「角鹿(つぬが)神社」です。御祭神は都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)でした。
第10代崇神天皇の御代、任那'みまな・古代朝鮮半島に存在した地域を指す)の皇子の都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が氣比の浦に上陸し貢物を奉る。崇神天皇は、都怒我阿羅斯等に氣比大神宮の司祭と当国の政治を任せられる。その政所(まんどころ)の跡にこの命を祀った。その命の居館の跡が舞崎区であり同区の氏神が当社である。現在の敦賀のもとの地名は「角鹿」でこの御名に因る。往古は東門口が表通であったため氣比神宮本社の門神と云われる。
次に左隣に移動します。末社「兒宮(このみや)」で、御祭神は、伊弉冊尊(いざなみのみこと)でした。
平安朝時代、第65代花山天皇の御代、986年(寛和2年)9月20日遷宮の事が残されており由緒は古い。江戸時代から子宝祈願を始め安産の神と称され、更には小児の守神として信仰が篤い。
さらに左に社殿がありました。こちらは末社(式内社)「大神下前神社」で、御祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)です。
敦賀市内氣比大神四守護神の一社で、元は北東の天筒山麓に境外末社として鎮座されていたのを1911年(明治44年)現在の地に移転、稲荷神社と金刀比羅神社を合祀し、特に海運業者の信仰が篤い。
車に戻る前に、もう一つ鳥居を見付けたので近づいて見ました。多分・・・伊勢神宮の遙拝所かなぁ・・・と思ってたら違いました。この鳥居の先に社殿がありません。
「土公(どこう)」は、氣比大神降臨の地とされ当神宮鎮座にかかる聖地で、境内から天筒山の方角の敦賀北小学校校庭に小丘がその聖地にあたる。土公は陰陽道における神の名であって神宮の聖地とされており、周囲には卵形の石が八角形にめぐらされている。社伝では、氣比神はこの土公に降臨したといい、702年(大宝2年)の社殿造営以前は土公を神籬として祭祀が行われたとする。また社殿造営後も土公は古殿地として護られたとも、平安時代の名僧伝教大師最澄、弘法大師空海は当地で7日7夜の祈祷を行なったとも伝える。
時計の針は15時近くになって、ここに来て再び太陽が出てきたので西日が眩しいです。友人は、この辺りの道の駅を探していたので、早々と車に戻っているので私も戻りました。
ここを15時過ぎに出て「氣比の松原」に寄りました・・・と言うより道の駅を探していたんですが、見つからず・・・当初の予定では、ここから小浜に行って鯖街道を通って大原に抜けて帰るつもりでしたが、この時間ですので京都に戻ることにしました。ここから敦賀ICに入る北陸自動車道を何故か福井方面に走ります。朝に入った南条PAまで約25㌔を戻ってくれました。そこで福井の土産を買って、武生ICで降り再び武生ICに入り京都を目指しました。途中、多賀と黒丸サービスエリアで休憩をして家には18時30分頃に帰りました。
余談ですが、9日の一週間先の16日から18日におけて北陸地方は大雪となりました。福井県全域に大雪警報がだされたようです。福井の先の新潟県などで降った大雪による関越自動車道の立ち往生はニュース映像で何度も見ました。この冬の時期で福井県は曇りか雨か雪が多いのに奇跡的に晴れてくれて良かったです。電車では何度も通過している敦賀でしたが、多分、敦賀に降りたのは初めてでした。
【越前國一之宮 氣比神宮】
そして14時30分頃、「越前國一之宮 氣比神宮」の「東駐車場」に無事到着しました。こちらの駐車場は大変広く、観光バスも止まってます。料金は無料でした。
東駐車場から「東神門」を通って境内に入りました。門には「菊花紋章」がありました。
境内は人が多いです。先ずは本殿前の「外拝殿」で参拝します。1945年(昭和20年)の空襲で本殿とともに焼失しましたが、1982年(昭和57年)に再建されましたものです。
本殿に主祭神の「伊奢沙別命(いざさわけのみこと)」「仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)」「神功皇后(じんぐうこうごう)」の三柱を祀り、総社宮に「応神天皇(おうじんてんのう)」、東殿宮に「日本武尊(やまとたけるのみこと)」、平殿宮に「玉姫命(たまひめのみこと)」、西殿宮に「武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)」が祀られています。
越前国敦賀には古くから多くの神社が建てられました。「延喜式神名帳」に記載された11郡126座のうち、敦賀郡が43座も占める。氣比神宮はその筆頭と言えます。南北朝時代に 氣比氏治大宮司(鎌倉時代後期から南北朝時代の武将 越前氣比神宮の大宮司 越前金ヶ崎城主)は後醍醐天皇を奉じて金ヶ崎の戦いで奮戦するも、城は兵糧攻めに遭い、尊良親王・新田義貞・世尊寺行房らと共に自害。戦国時代の氣比憲直大宮司は、織田信長の越前朝倉討伐を迎撃し大激戦を演じたが信長の勝利に終わり、氣比神宮の社領は衰退しました。江戸時代に入り越前国北ノ庄藩初代藩主結城秀康(徳川家康の次男)の援助を受け復興。秀康は本殿両流造、檜皮葺の壮麗な建造物で国宝に指定されましたが、1945年(昭和20年)の空襲で焼失。1950年(昭和25年)に本殿は再建され、1982年(昭和57年)「昭和の大造営」により、拝殿などが再建されました。
外拝殿の西側に鳥居があって、手前には由緒が書かれてました。ここには「九社之宮」と「神明両宮」があるようです。さっそく入ってみます。
摂社「伊佐々別(いささわけ)神社」祭神、御食津大神荒魂神(みつけおおかみあらみたまのかみ)。漁労を守る神であり北方の海に面す。応神天皇の臣下てある武内宿禰に命じて、新たに 氣比大神の荒魂を勧請したのが始まり。
末社「擬領(おおみやつこ)神社」祭神は、武功狭日命(たけいさひのみこと)。祭神は一説に大美屋都古神(おおみやつこのかみ)とも、玉佐々良彦命'たまささらひこのみこと)とも設がある。
摂社(式内社)「天伊弉奈彦(あめのいざなひこ)神社」祭神は、伊弉奈彦大神(あめのいざなひこのおおかみ)。天伊弉奈姫神社と同社は万物生成を司る造化陰陽の二柱を祀ると言われ、840年(承久7年)無位から従五位下に昇叙された。
摂社(式内社)「天伊弉奈姫(あめのいざなひめ)神社」祭神は、天比女若御子大神(あめひめわかみこのおおかみ)。天伊弉奈彦神社と一対になる神社であり、現在の社殿は1980年(昭和55年)に天伊弉奈彦神社とともに再建された。古くから縁結びの神として信仰を集める。
摂社(式内社)「天利劔(あめのとつるぎ)神社」祭神は、天利劔大神(あめのとつるぎのおおかみ)。社伝によると、仲哀天皇が 氣比神宮を参拝した際、宝剣を奉納したことに始まる。
末社「鏡神社」御祭神は、神功皇后奉献の宝鏡の神霊。別殿に「天鏡宮」として、国常立尊(くにのとこたちのみこと)とともに祀ったのが始まり。
末社「林(はやしの)神社」祭神は、林山姫神(はやまひめのかみ)。日吉大社で祀られている江州比叡 山氣比明神のご本社とされる。788年(延暦7年)同社霊鏡を最澄が比叡山の日吉神社に遷して祀ったという。
末社「金(かねの)神社」祭神は、素戔嗚尊。804年(延暦23年)空海が同社の霊鏡を 高野山に遷して祀ったと伝承があり。
末社「劔神社」祭神は、姫大神尊(ひめのおおかみのみこと)。往古神明の神託を受け、敦賀市莇生野の劔神社からの勧請し、 氣比神宮内に祀ったのが始まりという。
突き当たりに「神明両宮」があって祭神は、天照皇大神(内宮・右)、豊受大神(外宮・左)。外宮(左)は1612年(慶長17年)、内宮(右)は1615年(元和元年)の勧請。
「神明両宮」の前から「九社之宮」をすべて見ています。境内は人が多かったけど、ここには誰も居ませんでした。
境内の南側には神門が無く、朱塗りの「中鳥居」があるだけです。入ってきたときに居た団体さんも出て行って、この時はだけは誰も居なくなってました。
「氣比神宮」と書かれた扁額が架かった「中鳥居」を出ると、ここに「手水舎」がありました。柄杓は無いですね。
702年(大宝2年)に氣比神宮を修営時に突然地下水が噴出したと伝わる「氣比の長命水」が、中鳥井の近くにありました。神々が宿る神水として信仰され1300年以上長き亘り親しまれいます。
この氣比神宮には、重要文化財に指定されている大鳥居があるので反り橋を渡って写真を撮りに行きます。
1945年(昭和20年)の福井敦賀大空襲で、唯一焼失を免れたのが、この「大鳥居」です。
奈良の春日大社、広島の厳島神社の鳥居と並んで「日本三大鳥居」に数えられ、1645年(生保2年)に旧神領地佐渡国鳥居ケ原から奉納されたもので、初代810年(弘元元年)に境内の東側に建立されましたが、1343年(康永2年)暴風雨により倒壊したため、現在に再建されました。
このとき、14時50分頃になってましたが、参拝者は多かったです。巨大な狛犬や立派な鳥居を見たあと、参道に戻ると・・・。
入ると左手に末社「猿田彦神社」があったので寄って行きます。北に入り西に進むと小さな社殿があって、御祭神は、猿田彦大神でした。
1775年(安永4年)の鎮座。氣比大神を案内される神様を祀り、交通安全、家内安全の御神徳は高く日々の参詣者は多い。俗に庚申さまと唱えられている。
「中鳥居」の前にある松は南北朝時代、氣比神宮の氣比氏治大宮司が後醍醐天皇を奉じたというれる「旗掲松(はたかけのまつ)」です。
1336年(延元元年)の南北朝騒乱時代に、氣比氏治大宮司が第96代天皇および南朝初代天皇である後醍醐天皇を奉じ氣比大明神の神旗を掲げたという松です。金ケ崎城を築いて足利軍と奮戦するも、一門はことごとく討ち死にしました。今でも旧根が残り、二代目が成木として育っています。
他に「中鳥居」の前には、「松尾芭蕉像」と「句碑」があります。芭蕉は「奥の細道」の旅において、ここ氣比神宮の月を詠みました。
芭蕉は、1689年(元禄2年)8月14日の夕刻に敦賀に入り、旅籠出雲屋に宿をもちました。宿屋の主人から「北陸の天気は変わりやすいので今夜のうちに氣比神宮に参りませんか?」と言われそれならばと夜参りに出掛け月見を堪能したわけです。そこで「名月や 北国日和 定めなき」「月清し 遊行の持てる 砂の上」の名句を残しました。
2016年(平成28年)10月、氣比神宮境内地の全域が福井県内で初めて、国の名勝「おくのほそ道の風景地」に指定されています。ここから外拝殿には入らず、東駐車場に向かうと・・・?
境内の東南角には「神水苑」があって、日本庭園歴覧にも収録された名池「亀の池」を改修されたようです。
ほぼ境内の東南角に天然記念物「ユーカリ」の大木がありました。1936年(昭和11年)陸軍の有志から献木されたもの。
東駐車場まで戻ると、学生さんが集合時間になったのかどうか分かりませんが、大挙走って行かれます。急に静かになった駐車場に、境内社が見えたので、そちらに向かいます。
鳥居が二つ並んでいますが、右側から摂社(式内社)「角鹿(つぬが)神社」です。御祭神は都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)でした。
第10代崇神天皇の御代、任那'みまな・古代朝鮮半島に存在した地域を指す)の皇子の都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が氣比の浦に上陸し貢物を奉る。崇神天皇は、都怒我阿羅斯等に氣比大神宮の司祭と当国の政治を任せられる。その政所(まんどころ)の跡にこの命を祀った。その命の居館の跡が舞崎区であり同区の氏神が当社である。現在の敦賀のもとの地名は「角鹿」でこの御名に因る。往古は東門口が表通であったため氣比神宮本社の門神と云われる。
次に左隣に移動します。末社「兒宮(このみや)」で、御祭神は、伊弉冊尊(いざなみのみこと)でした。
平安朝時代、第65代花山天皇の御代、986年(寛和2年)9月20日遷宮の事が残されており由緒は古い。江戸時代から子宝祈願を始め安産の神と称され、更には小児の守神として信仰が篤い。
さらに左に社殿がありました。こちらは末社(式内社)「大神下前神社」で、御祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)です。
敦賀市内氣比大神四守護神の一社で、元は北東の天筒山麓に境外末社として鎮座されていたのを1911年(明治44年)現在の地に移転、稲荷神社と金刀比羅神社を合祀し、特に海運業者の信仰が篤い。
車に戻る前に、もう一つ鳥居を見付けたので近づいて見ました。多分・・・伊勢神宮の遙拝所かなぁ・・・と思ってたら違いました。この鳥居の先に社殿がありません。
「土公(どこう)」は、氣比大神降臨の地とされ当神宮鎮座にかかる聖地で、境内から天筒山の方角の敦賀北小学校校庭に小丘がその聖地にあたる。土公は陰陽道における神の名であって神宮の聖地とされており、周囲には卵形の石が八角形にめぐらされている。社伝では、氣比神はこの土公に降臨したといい、702年(大宝2年)の社殿造営以前は土公を神籬として祭祀が行われたとする。また社殿造営後も土公は古殿地として護られたとも、平安時代の名僧伝教大師最澄、弘法大師空海は当地で7日7夜の祈祷を行なったとも伝える。
時計の針は15時近くになって、ここに来て再び太陽が出てきたので西日が眩しいです。友人は、この辺りの道の駅を探していたので、早々と車に戻っているので私も戻りました。
ここを15時過ぎに出て「氣比の松原」に寄りました・・・と言うより道の駅を探していたんですが、見つからず・・・当初の予定では、ここから小浜に行って鯖街道を通って大原に抜けて帰るつもりでしたが、この時間ですので京都に戻ることにしました。ここから敦賀ICに入る北陸自動車道を何故か福井方面に走ります。朝に入った南条PAまで約25㌔を戻ってくれました。そこで福井の土産を買って、武生ICで降り再び武生ICに入り京都を目指しました。途中、多賀と黒丸サービスエリアで休憩をして家には18時30分頃に帰りました。
余談ですが、9日の一週間先の16日から18日におけて北陸地方は大雪となりました。福井県全域に大雪警報がだされたようです。福井の先の新潟県などで降った大雪による関越自動車道の立ち往生はニュース映像で何度も見ました。この冬の時期で福井県は曇りか雨か雪が多いのに奇跡的に晴れてくれて良かったです。電車では何度も通過している敦賀でしたが、多分、敦賀に降りたのは初めてでした。
【越前國一之宮 氣比神宮】
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