大原問答の舞台 魚山大原寺 勝林院へ
2020年(令和2年)8月22日にNHK総合にて「NHK総合歴史発掘ミステリー 京都 千年蔵 大原 勝林院」が放送されました。内容は勝林院の蔵に眠る文化財1853点を調査するということで、全国から専門家が集結し“蔵の中身の全部出し調査”を決行するということでした。その事を思い出したので、実光院を出たあと、「魚山大原寺 勝林院」に寄ることに決めた次第です。
晴れたり曇ったり雪が降ってきたり雨か降ったりして、ころころ変わる天気のなか、勝林院の「拝観受付所」までやって来ました・・・と言っても実光院のすぐ横なんですけど。
ここには2015年(平成27年)6月24日(水)に一度来ています。ただ観光バスの集合時間に間に合わせるため駆け足で巡ったので記憶が・・・殆どないです。お隣の「宝泉院」とのセット券もあるそうですが、今日は勝林院だけにしました。拝観料は300円です。
入ると正面が「本堂」です。屋根は椹の杮葺でしたが、現在、寺は困窮しお堂の中まで雨漏りがする状態だそうで、この日訪れたら椹を葺く前の状態のように思えました。
大原寺勝林院(だいげんじしょうりんいん)本堂(阿弥陀堂)は、1778年(安永7年)の再建。総欅造り七間六間の大堂で、屋根は椹(さわら)の杮葺。江戸時代初期、江戸幕府3代将軍・徳川家光の時代に春日局の願によりお江の方(崇源院)の菩提のために本堂が再建されましたが、1736年(享保21年)正月の火災により本堂は焼失。1778年(安永7年)に再建されました。
堂内に入ると、ご本尊の阿弥陀如来坐像にお参りします。この阿弥陀様は、「証拠の阿弥陀」と呼ばれ、大原問答の折、この阿弥陀様が自ら光明を放ち極楽往生の証拠を示したと言われています。
こちらは「不動明王立像」 。大日如来坐の化身とされ、如来の命を受けて怒りの相を現し、煩悩や悪魔を降伏して人々に菩提心(ぼだいしん)をおこさせ成仏させる力を持つ。
反対側のこちらは「毘沙門天立像」。もともとヒンズーの神であったが、仏教に取り入れられて北方の世界を守護する天神となった。
中央のこちらは「仏舎利厨子」です。仏様の舎利(納骨)が中央正面の容器の中に祀られています。漆塗りの厨子は豪華にして両面扉には舎利を守る不動明王と愛染明王が美しく描かれています。
テレビでは、「阿弥陀如来坐像」の中に入って調査されてましたね。歴史学者の磯田道史さんも入られました。年明けの1月5日(火)には、NHK京都ローカル「ニュース630 京いちにち」で「大原の謎を追う」と題して、この続編が放送されました。勝林院の蔵より古文書が発見され、今から700年前の大原には49もの僧坊が建ち並び百人を超す多くの僧侶が暮らしていた・・・ということが分かったそうです。その僧坊は、三千院より南に位置する丘陵地に点在していた。今はすっかり山林となっている所に僧坊の跡が見つかった・・・という内容でした。
ご本尊の右手から奥に進みます。そして最初に見るのは「十一面観世音菩薩」でした。そしてさらに奥に進むと・・・?
こちらは「元三大師」(慈恵大師良源画像)です。第18代天台宗座主となり、荒廃していた比叡山を復興れさたことから、不動明王の化身と言われるほど霊験豊なことから魔除けの大師として信仰を集めました。
左から「普賢菩薩像」「白衣観音」「崇源院(お江・浅井長政の娘、徳川幕府2代将軍・徳川秀忠の正室、3代将軍・家光の母)の位牌」が並んでいます。そこにはお江と春日局の関係が蔵の調査で明らかになりました・・・?。
本堂の銅板の「擬宝珠」に、再建の由来が書かれており、それによると「勝林院は春日局のお願いによって建立されました」と書かれています。春日局は江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母であり江戸城大奥を造り上げた女傑です。戦国時代の1544年(天文13年)に大洪水によって損壊した勝林院を、その再建を行ったのが春日局でした。寺に伝わる記録によると、2代将軍・徳川秀忠の妻・崇源院(お江)を弔うためだったといいます。しかし、春日局とお江は対立関係にあったというのが通説です。江戸幕府3代将軍に長男・家光を推す春日局と、寵愛する次男・忠長を推すお江は激しく対立したと言われています。何故春日局は、対立していたお江を勝林院で弔ったのか?その手がかりとなる新資料が勝林院の蔵で発見されました。見つかったのは1670年(寛文10年)頃の勝林院の住職の書いた書状です。それによると「春日局 寛永年中に御再興なされ」と書かれており、「きっちり勝林院の堂舎を直してもらって、それ以降きっちりと法要を勤めています」とも書いてあります。それには、お江の死後50年たっても、お江の月命日に勝林院で毎月かかさず法要を執り行っていると記されていました。その背景には春日局の「檀主深重の思い」お江を手厚く弔いたいとする春日局の希望があったというのです。お江を弔う春日局の思いは500年先まで続くほど深いものだ・・・春日局にとってお江は大切な存在だった・・・お江と春日局の関係を読み解く上で大きな発見だったと言っていいでしょう。
他にも妙心寺塔頭麟祥院「春日局普略(1686年)」(麟祥院蔵)では、お江の女中の推薦により春日局が乳母となる・・・お江と最も近かった女中が春日局を選んだということはお江の意思に反することは無いと専門家は言います。お江の死から400年、勝林院の片隅には「崇源院(お江)」今も大切な位牌が置かれていました・・・。戦乱の世を生き抜き江戸幕府を支えた2人の女性は互いを尊重しあう関係であったのでは無いか?と蔵で眠ったていた資料は語りかけているようでした。
次に、ご本尊の左側に移動します。テレビでは、この本堂内での雨漏りの様子が放送されてましたね。貴重な文化財をこれからも守っていただきたいものです。
右から「法然上人坐像(江戸時代)」「踏出阿弥陀如来立像(鎌倉時代末期~南北朝時代)」「寂源上人画像(開山)」が祀られていました。
このボタンを押すと「声明」が聞けます。勝林院の創建は、1013年(長和2年)の平安時代まで遡り、その声明は、お経に節を付けて唱える仏教音楽。ここはその聖地として知られいます。
魚山大原寺 勝林院は、1013年(長和2年)に円仁(第3代天台座主・慈覚大師ともいう)より数えて9代目の弟子寂源上人により法儀声明念仏三昧の根本道場として創建されました。
京都市内でも、大原の里は寒いですね、少し雪が残っています。前回と違って堂内をゆっくり鑑賞できました。
本堂を出て、右手の山手に登って見ました。そこには勝林院の鎮守「山王社」が祀られていました。その横は「観音堂」です。
「観音堂」の、さらに奥にあるのが、「宝篋印塔」(鎌倉時代末期)で、重要文化財に指定されています。
境内東側を散策していると石碑を見付けました。「夕ほたる 末は一つの 律呂川」(丸山海道)、「大阿弥陀 いだく魚山に 初音澄む」(丸山桂子)と書いてあるらしいです。2015年(平成27年)6月24日(水)に来た時は、苔もなく綺麗に読めました。
こちらには、かつて「西林院」というお堂が建っていた跡地です。天台宗様式の常行三昧の道場である阿弥陀堂であった思われるお堂でした。
そして西側にある「北の蔵」と「南の蔵」の中にあった、1853点もの文化財を調査されたのが前途した番組で見た訳です。
帰りに「鐘楼堂」を撮りました。この鐘楼堂も春日局による再建だと伝わっています。「梵鐘」は、平安時代中期で、重要文化財に指定されています。
11時32分に、ここを出ました。そろそろお昼も近いので食事のことも考えながら駐車場に向かいました。
法然上人(1133~1212)は、「南無阿弥陀仏」とひたすら念仏を唱えたらすべての人が極楽往生できると説かれ、何人たりとも救われるということを大原問答ではっきり示されたら、ご本尊の阿弥陀如来仏が、自からまばゆい光を放って、その主張が正しいことの証拠を示されたので、どんな人も極楽浄土へ生まれ変われると知った聴衆が喜び、三日三晩念仏を唱え続けたといいます。そんな念仏と声明の聖地をあとにしました。
【勝林院】
晴れたり曇ったり雪が降ってきたり雨か降ったりして、ころころ変わる天気のなか、勝林院の「拝観受付所」までやって来ました・・・と言っても実光院のすぐ横なんですけど。
ここには2015年(平成27年)6月24日(水)に一度来ています。ただ観光バスの集合時間に間に合わせるため駆け足で巡ったので記憶が・・・殆どないです。お隣の「宝泉院」とのセット券もあるそうですが、今日は勝林院だけにしました。拝観料は300円です。
入ると正面が「本堂」です。屋根は椹の杮葺でしたが、現在、寺は困窮しお堂の中まで雨漏りがする状態だそうで、この日訪れたら椹を葺く前の状態のように思えました。
大原寺勝林院(だいげんじしょうりんいん)本堂(阿弥陀堂)は、1778年(安永7年)の再建。総欅造り七間六間の大堂で、屋根は椹(さわら)の杮葺。江戸時代初期、江戸幕府3代将軍・徳川家光の時代に春日局の願によりお江の方(崇源院)の菩提のために本堂が再建されましたが、1736年(享保21年)正月の火災により本堂は焼失。1778年(安永7年)に再建されました。
堂内に入ると、ご本尊の阿弥陀如来坐像にお参りします。この阿弥陀様は、「証拠の阿弥陀」と呼ばれ、大原問答の折、この阿弥陀様が自ら光明を放ち極楽往生の証拠を示したと言われています。
こちらは「不動明王立像」 。大日如来坐の化身とされ、如来の命を受けて怒りの相を現し、煩悩や悪魔を降伏して人々に菩提心(ぼだいしん)をおこさせ成仏させる力を持つ。
反対側のこちらは「毘沙門天立像」。もともとヒンズーの神であったが、仏教に取り入れられて北方の世界を守護する天神となった。
中央のこちらは「仏舎利厨子」です。仏様の舎利(納骨)が中央正面の容器の中に祀られています。漆塗りの厨子は豪華にして両面扉には舎利を守る不動明王と愛染明王が美しく描かれています。
テレビでは、「阿弥陀如来坐像」の中に入って調査されてましたね。歴史学者の磯田道史さんも入られました。年明けの1月5日(火)には、NHK京都ローカル「ニュース630 京いちにち」で「大原の謎を追う」と題して、この続編が放送されました。勝林院の蔵より古文書が発見され、今から700年前の大原には49もの僧坊が建ち並び百人を超す多くの僧侶が暮らしていた・・・ということが分かったそうです。その僧坊は、三千院より南に位置する丘陵地に点在していた。今はすっかり山林となっている所に僧坊の跡が見つかった・・・という内容でした。
ご本尊の右手から奥に進みます。そして最初に見るのは「十一面観世音菩薩」でした。そしてさらに奥に進むと・・・?
こちらは「元三大師」(慈恵大師良源画像)です。第18代天台宗座主となり、荒廃していた比叡山を復興れさたことから、不動明王の化身と言われるほど霊験豊なことから魔除けの大師として信仰を集めました。
左から「普賢菩薩像」「白衣観音」「崇源院(お江・浅井長政の娘、徳川幕府2代将軍・徳川秀忠の正室、3代将軍・家光の母)の位牌」が並んでいます。そこにはお江と春日局の関係が蔵の調査で明らかになりました・・・?。
本堂の銅板の「擬宝珠」に、再建の由来が書かれており、それによると「勝林院は春日局のお願いによって建立されました」と書かれています。春日局は江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母であり江戸城大奥を造り上げた女傑です。戦国時代の1544年(天文13年)に大洪水によって損壊した勝林院を、その再建を行ったのが春日局でした。寺に伝わる記録によると、2代将軍・徳川秀忠の妻・崇源院(お江)を弔うためだったといいます。しかし、春日局とお江は対立関係にあったというのが通説です。江戸幕府3代将軍に長男・家光を推す春日局と、寵愛する次男・忠長を推すお江は激しく対立したと言われています。何故春日局は、対立していたお江を勝林院で弔ったのか?その手がかりとなる新資料が勝林院の蔵で発見されました。見つかったのは1670年(寛文10年)頃の勝林院の住職の書いた書状です。それによると「春日局 寛永年中に御再興なされ」と書かれており、「きっちり勝林院の堂舎を直してもらって、それ以降きっちりと法要を勤めています」とも書いてあります。それには、お江の死後50年たっても、お江の月命日に勝林院で毎月かかさず法要を執り行っていると記されていました。その背景には春日局の「檀主深重の思い」お江を手厚く弔いたいとする春日局の希望があったというのです。お江を弔う春日局の思いは500年先まで続くほど深いものだ・・・春日局にとってお江は大切な存在だった・・・お江と春日局の関係を読み解く上で大きな発見だったと言っていいでしょう。
他にも妙心寺塔頭麟祥院「春日局普略(1686年)」(麟祥院蔵)では、お江の女中の推薦により春日局が乳母となる・・・お江と最も近かった女中が春日局を選んだということはお江の意思に反することは無いと専門家は言います。お江の死から400年、勝林院の片隅には「崇源院(お江)」今も大切な位牌が置かれていました・・・。戦乱の世を生き抜き江戸幕府を支えた2人の女性は互いを尊重しあう関係であったのでは無いか?と蔵で眠ったていた資料は語りかけているようでした。
次に、ご本尊の左側に移動します。テレビでは、この本堂内での雨漏りの様子が放送されてましたね。貴重な文化財をこれからも守っていただきたいものです。
右から「法然上人坐像(江戸時代)」「踏出阿弥陀如来立像(鎌倉時代末期~南北朝時代)」「寂源上人画像(開山)」が祀られていました。
このボタンを押すと「声明」が聞けます。勝林院の創建は、1013年(長和2年)の平安時代まで遡り、その声明は、お経に節を付けて唱える仏教音楽。ここはその聖地として知られいます。
魚山大原寺 勝林院は、1013年(長和2年)に円仁(第3代天台座主・慈覚大師ともいう)より数えて9代目の弟子寂源上人により法儀声明念仏三昧の根本道場として創建されました。
京都市内でも、大原の里は寒いですね、少し雪が残っています。前回と違って堂内をゆっくり鑑賞できました。
本堂を出て、右手の山手に登って見ました。そこには勝林院の鎮守「山王社」が祀られていました。その横は「観音堂」です。
「観音堂」の、さらに奥にあるのが、「宝篋印塔」(鎌倉時代末期)で、重要文化財に指定されています。
境内東側を散策していると石碑を見付けました。「夕ほたる 末は一つの 律呂川」(丸山海道)、「大阿弥陀 いだく魚山に 初音澄む」(丸山桂子)と書いてあるらしいです。2015年(平成27年)6月24日(水)に来た時は、苔もなく綺麗に読めました。
こちらには、かつて「西林院」というお堂が建っていた跡地です。天台宗様式の常行三昧の道場である阿弥陀堂であった思われるお堂でした。
そして西側にある「北の蔵」と「南の蔵」の中にあった、1853点もの文化財を調査されたのが前途した番組で見た訳です。
帰りに「鐘楼堂」を撮りました。この鐘楼堂も春日局による再建だと伝わっています。「梵鐘」は、平安時代中期で、重要文化財に指定されています。
11時32分に、ここを出ました。そろそろお昼も近いので食事のことも考えながら駐車場に向かいました。
法然上人(1133~1212)は、「南無阿弥陀仏」とひたすら念仏を唱えたらすべての人が極楽往生できると説かれ、何人たりとも救われるということを大原問答ではっきり示されたら、ご本尊の阿弥陀如来仏が、自からまばゆい光を放って、その主張が正しいことの証拠を示されたので、どんな人も極楽浄土へ生まれ変われると知った聴衆が喜び、三日三晩念仏を唱え続けたといいます。そんな念仏と声明の聖地をあとにしました。
【勝林院】
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