千本旧二条から大原の里山に移転された出世稲荷神社へ

敦賀街道を北上すると、しばらく山中に入りますが、ほどなくして、美しい自然が調和した豊かな里山風景が前方に入ってきます。京都市内とは思えない田園風景ですが、大原に入って最初に予定していたのは、出世稲荷神社です。

出世稲荷神社は、2012年(平成24年)7月に京都市の中心千本旧二条より大原へ移転されました。当時、毎日通勤で使っていたバスは、この「出世稲荷神社前」に停まったんですが、神社に入ったことは無かったです。いつでも行ける・・・と思ってたら移転してしまって、それで心残りだったのを、この日大原に来たので真っ先に訪れた訳です。

友人のナビが古いので電話番号を入れても出てこないので、私がスマホの地図を見て誘導します。大原の里に入り、敦賀街道の若狭路の「ファミリーマート 大原三千院店」を左手に見たら、右手の脇道に入ります。次に三叉路に出会いますが、「三千院」「勝林院」の案内が出ている方に車を走らせますが、道は狭く登りになります。

CIMG6203.jpg狭い登り道を、道なりに進むと右手にこの看板が出ているので、10時38分に着きました。ただ、こちらには駐車場がありません。

CIMG6204.jpgCIMG6205.jpgCIMG6206.jpgCIMG6207.jpg友人は、近隣の駐車場に車を止めに行って、再び戻ってきたので、2人で参拝します。旧二条の時は、パスの中から見ただけで、大きな鳥居があったことしか覚えてません。

CIMG6208.jpgCIMG6209.jpgCIMG6210.jpg小さな本殿だなぁ・・・と思いつつ参拝しましたが、こちらは末社「奥の宮」でした。御祭神は、出世稲荷大神です。すると本殿は何処に?

関白太政大臣・豊臣秀吉公が、1587年(天正15年)に聚楽第を造営するに際し邸内に日頃より信仰していた稲荷神社を勧請しました。そして翌年、第107代・後陽成天皇が聚楽第に行幸し、稲荷社に参拝したときに、立身出世を遂げた秀吉に因んで「出世稲荷」の号を授けたという。1595年(文禄4年)8月に聚楽第が取り壊されたあとも元の場所に鎮座していたが、1663年(寛文3年)に二条城西方の千本通沿い(千本旧二条付近、京都市上京区千本通竹屋町下ル)に遷座されました。しかし2012年(平成24年)6月に京都市上京区より左京区大原に移転されました。

次に、「奥の宮」の左側に小さな社殿が並んでいるので、左側から見ていきます。こちらの社殿は、案内版から末社「三石大神」と分かりました

CIMG6211.jpgCIMG6212.jpgCIMG6213.jpgCIMG6215.jpg三石大神のご神体は、左から「祿石」「壽石」「福石」の三石で、それぞれ「祿石大神」「壽石大神」「福石大神」と提灯には書いてありましたね。

その昔、博徒相場師などが中央を「勝石」、左方を「打出し石」、右方を「取り石」と呼び大変信仰していました。現代でも勝負の神様として多くの人が強運を祈願されています。

CIMG6216.jpgCIMG6217.jpgさらに奥に進むと「水天宮」がありました。後述しますが、ここには由緒書きが無くて・・・それで扁額と提灯に書かれていたの分かった次第です。

CIMG6218.jpgCIMG6219.jpg最後の社殿に向かうため、鳥居をくぐりました。ここの鳥居と向拝は、「牧野省三・尾上松之助等」が奉納されました。

大原に移転される前の千本旧二条界隈は、映画興行のの街として繁栄しました。それで映画界の日本映画の父と言われた牧野省三や歌舞伎役者、映画俳優、映画監督であった尾上松之助が、ここの鳥居と向拝を奉納されたようですね。

CIMG6220.jpgこの小さな社殿は「大神宮」でした。先の「水天宮」や「大神宮」は、水難、火難、病難、盗難に御利益があるとか。

CIMG6221.jpgCIMG6222.jpg御朱印があるかどうか、確かめるため社務所に向かう途中に鳥居を出ると、多分旧二条で架かっていたんでしょう「扁額」が何気なく置いてあります。

CIMG6224.jpgCIMG6223.jpg遠くに大原の里を見ながら石段を降りてきて「社務所」までやって来ました。そこには看板が出ていて意外なことが書いてあって・・・?

CIMG6225.jpgどうも、この社務所が「本殿」を兼ねているようです。入ると呼鈴を押し中から人が出て来られたので御朱印はお願いしました。

書いていただいてる間、御神体の参拝をお願いました。基本、無料で9時から17時まで無料で入れます。靴を脱いで奥に進むと・・・?

IMG_9948.jpgかつての本殿の天井に架かっていたのでしょう、堂本印象画伯が奉納した「雲龍図」がありました。こうして間近で見られて良かったです。

IMG_9947.jpg帰りに御朱印を受けるとときに由緒書きをお願いしましたが、無いようです。ここに架かっていた由緒を参向にしました。

「雲龍図」の向かいに、「社殿」があって、ここには六代目清水六兵衛作「御神体」があり参拝できますが、ここは撮影禁止でした。六代目清水六兵衛は、1901年(明治34年)9月13日~1980年(昭和55年)4月17日、江戸時代中期以来の清水焼陶工の名跡です。御祭神は、稲倉魂命(うかのみたまのみこと)・猿田彦命(さるたひこのみこと)・天鈿女命(あめのうずめのみこと)・大巳貴命(おおなむちのみこと)・保食命(うけもちのみこと)でした。

ここを10時50分頃に出て行きました。今朝の京都市内は寒かったけど、ここも京都市ですが里山で、所々に雪も残っているぐらい寒いです。寒さ震えながら次へと向かいました。

【出世稲荷神社】

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック