大原 そば処芹生茶屋へ
魚山大原寺 勝林院を出て、日曜日でも人が少ない参道を歩いて行くと、先に訪問した実光院の向かいに、「後鳥羽天皇・順德天皇 大原陵」があったので寄って行くことにしました。
同行している友人が、天皇家のことに詳しく、後鳥羽天皇と順德天皇のことを教えてくれました。それによると・・・?
第82代・後鳥羽天皇は、文武両道で、新古今和歌集の編纂でも知られる。鎌倉時代の1221年(承久3年)に、鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げたが、この「承久の乱」で朝廷側が敗北したため、隠岐に配流され、1239年(延応元年)に同地で崩御した。
第84代・順德天皇は、後鳥羽天皇の討幕計画に参画し、それに備えるため、1221年(承久3年)4月に子の懐成親王(第85代・仲恭天皇)に譲位して上皇の立場に退いた。後鳥羽天皇以上に鎌倉幕府打倒に積極的で、5月に「承久の乱」を引き起こしたものの倒幕は失敗に終わった。乱後の7月21日、上皇は都を離れて佐渡へ配流となった。在島21年の後、1242年(仁治3年)9月12日に佐渡で崩御した。
ここの向かいにある「実光院」で知ったことですが、梶井宮門跡第20世・尊快法親王(後鳥羽天皇第10皇子)によって、旧実光院の後楽に両帝の遺骨を分骨し安置していたが、旧宮内省の命により本陵として整備されたようです。
寒風吹きすさぶ大原の里に、ひっそりと両帝の「大原陵」がありました。少し寄り道しましたが先を急ぎます。
と思って、ここを出て行きましたが、直ぐに横に(北側)に、再び足を止めることになりました。そこは石段を上がったところに「法華堂」が・・・?
後鳥羽天皇の冥福を祈念するため後鳥羽上皇の皇子・梨本門主尊快親王の母公、修明門院の計らいで、水無瀬の御所の材を移して御陵として法華堂を1240年(仁治元年)に建立。1736年(享保21年)に類焼。現在のお堂は、安永年間(1772年~1781年)の建造。1936年(昭和11年)8月に内部及び尾根を修繕。本尊は普賢菩薩。
律川に架かる朱塗りの橋」末明橋」を再び渡ると、手前に「鉈捨藪跡(なたすてやぶのあと)」と書かれた石碑を見付けました。ここには案内版もあって読んでみます。
1186年(文治2年)の魚山大原寺 勝林院での法然上人の大原問答の折に、その弟子だった熊谷直実(1141~1208)が、は「師の法然上人が論議に敗れたなら法敵を討たん」との思いで袖に鉈を隠しもっていました。しかし、上人に諭されその鉈をこの藪に投げ捨てたと言われている。この石標はその伝承地を示すものである。
熊谷直実は、武蔵国熊谷郷出身の武士。京都で平知盛(1152~1182)に仕えていたが、のち源氏に従った。その後所領争いに破れ出家し、法然(1133~1212)に帰依し蓮生と号した。ここで、熊谷直実の名前を聞くとは思ってもみなかったですね。
ここで、家族の土産に「土井志ば漬本舗三千院前店」に入りました。友人は興味が無いので外で待っています。私は、ここで何袋か買いました。なお、私は漬物を苦手としております。
そこで、お隣に「大原 そば処芹生茶屋」があったので友人と相談して、ここに入ることにしました。
11時50分に入りましたが、日曜日でも空いてました。案内された好きな席に座り、これから昼食です。
窓の外から大原の風景を見ています。店内はガラガラではありませんが、空いていたので良かったです。
寒かったので、熱い「きつね蕎麦」をいただきました。冷えた体を暖めることができました。
12時10分頃に、ここを出て駐車場に戻りました。車を出す頃に高校駅伝がスタートした頃でしょう、次に大原で未訪の寺院である「古知谷 阿弥陀寺」に行きました。ただ、冬場は拝観停止かどうか分かりませんが、入れませんでした。そこで友人は、駅伝コースを避けるべく大原から江文峠を通って静原に出ました。そして市原に出て賀茂川を渡り、その上流に向かって車は登って行きました。つづく。
【大原 そば処芹生茶屋】
同行している友人が、天皇家のことに詳しく、後鳥羽天皇と順德天皇のことを教えてくれました。それによると・・・?
第82代・後鳥羽天皇は、文武両道で、新古今和歌集の編纂でも知られる。鎌倉時代の1221年(承久3年)に、鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げたが、この「承久の乱」で朝廷側が敗北したため、隠岐に配流され、1239年(延応元年)に同地で崩御した。
第84代・順德天皇は、後鳥羽天皇の討幕計画に参画し、それに備えるため、1221年(承久3年)4月に子の懐成親王(第85代・仲恭天皇)に譲位して上皇の立場に退いた。後鳥羽天皇以上に鎌倉幕府打倒に積極的で、5月に「承久の乱」を引き起こしたものの倒幕は失敗に終わった。乱後の7月21日、上皇は都を離れて佐渡へ配流となった。在島21年の後、1242年(仁治3年)9月12日に佐渡で崩御した。
ここの向かいにある「実光院」で知ったことですが、梶井宮門跡第20世・尊快法親王(後鳥羽天皇第10皇子)によって、旧実光院の後楽に両帝の遺骨を分骨し安置していたが、旧宮内省の命により本陵として整備されたようです。
寒風吹きすさぶ大原の里に、ひっそりと両帝の「大原陵」がありました。少し寄り道しましたが先を急ぎます。
と思って、ここを出て行きましたが、直ぐに横に(北側)に、再び足を止めることになりました。そこは石段を上がったところに「法華堂」が・・・?
後鳥羽天皇の冥福を祈念するため後鳥羽上皇の皇子・梨本門主尊快親王の母公、修明門院の計らいで、水無瀬の御所の材を移して御陵として法華堂を1240年(仁治元年)に建立。1736年(享保21年)に類焼。現在のお堂は、安永年間(1772年~1781年)の建造。1936年(昭和11年)8月に内部及び尾根を修繕。本尊は普賢菩薩。
律川に架かる朱塗りの橋」末明橋」を再び渡ると、手前に「鉈捨藪跡(なたすてやぶのあと)」と書かれた石碑を見付けました。ここには案内版もあって読んでみます。
1186年(文治2年)の魚山大原寺 勝林院での法然上人の大原問答の折に、その弟子だった熊谷直実(1141~1208)が、は「師の法然上人が論議に敗れたなら法敵を討たん」との思いで袖に鉈を隠しもっていました。しかし、上人に諭されその鉈をこの藪に投げ捨てたと言われている。この石標はその伝承地を示すものである。
熊谷直実は、武蔵国熊谷郷出身の武士。京都で平知盛(1152~1182)に仕えていたが、のち源氏に従った。その後所領争いに破れ出家し、法然(1133~1212)に帰依し蓮生と号した。ここで、熊谷直実の名前を聞くとは思ってもみなかったですね。
ここで、家族の土産に「土井志ば漬本舗三千院前店」に入りました。友人は興味が無いので外で待っています。私は、ここで何袋か買いました。なお、私は漬物を苦手としております。
そこで、お隣に「大原 そば処芹生茶屋」があったので友人と相談して、ここに入ることにしました。
11時50分に入りましたが、日曜日でも空いてました。案内された好きな席に座り、これから昼食です。
窓の外から大原の風景を見ています。店内はガラガラではありませんが、空いていたので良かったです。
寒かったので、熱い「きつね蕎麦」をいただきました。冷えた体を暖めることができました。
12時10分頃に、ここを出て駐車場に戻りました。車を出す頃に高校駅伝がスタートした頃でしょう、次に大原で未訪の寺院である「古知谷 阿弥陀寺」に行きました。ただ、冬場は拝観停止かどうか分かりませんが、入れませんでした。そこで友人は、駅伝コースを避けるべく大原から江文峠を通って静原に出ました。そして市原に出て賀茂川を渡り、その上流に向かって車は登って行きました。つづく。
【大原 そば処芹生茶屋】
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