明智光秀の丹波攻めの名残 丹波国分寺跡へ

愛宕神社 (元愛宕)を出て、山中から降りてきます。車1台ぐらいしか通れないほどの狭い道を下ると府道25号線に出ます。この道は広いので安心できますが、こちらに「丹波国分寺」の案内版がありました。その案内版の誘導で車を走らせると無事に到着できました。こちらは明智光秀ゆかりの丹波国分寺跡でした。

復習ですが、丹波国分寺跡には、西側の府道405号線からは道が狭く行けません。地図では行けそうに表示されてますが無理です。そこで、丹波国分寺跡東側の府道25号線から入ると道幅も広く安心して行けます

CIMG6396.jpg11時58分に着きました。駐車場はありませんが、何処に止めても文句は言われないほど空き地は広いです

CIMG6397.jpgCIMG6418.jpg国分寺は、奈良時代に建立されましたが、中世以降は衰退。この「山門」は、1774年(安永3年)から9年の間に再建されたものです。

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どうも住職が在住している寺院では無さそうな雰囲気です。でも、山門には仁王像が安置されてますね。

1578年(天正6年)4月、丹羽長秀が織田信長の命を受けて明智光秀と協力し荒木氏を攻めた際、伽藍が焼失したと伝わります。塔跡の礎石に残る矢穴は、明智光秀の亀山城築城の際との説もあります。

CIMG6402.jpgドラマ館で知ってやって来ましたが、前途したとおり光秀の丹波攻めの時に焼失したと伝わる境内に入ります。

丹波国分寺は、1982年(昭和57年)から1986年(昭和61年)にわたり発掘調査が実施され、伽藍の規模及び主要な建物の配置等が確認されました。塔跡には、17個の礎石が現在も残っており、講堂跡は現本堂と重複しています。現在に残る本堂・山門・鐘楼は、1774年(安永3年)から9年の間に再建されました。現在は国の史跡に指定されており、亀岡市の名木、オハツキイチョウとラッパイチョウがそびえています。

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こちらが由緒にあった「亀岡の名木 オハツキイチョウ()」です。高さが22㍍もあるので、黄色に色づいたのを見てみたいですね、綺麗だと思います。

CIMG6409.jpg堂内は見られませんが、本尊は薬師如来坐像で平安時代後期の作。国の重要文化財に指定されてるそうです。

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こちらは「亀岡の名木 カコノキ()」で渓流に自生していることが多いので寺院にあるのは珍しいと書いてありました。高さは13㍍もあるそうです。

CIMG6408.jpgCIMG6413.jpgCIMG6412.jpg境内にある、1774年(安永3年)から9年の間に再建された「山門」「本堂」「鐘楼」は見ておきました。ただこれだけでしたね。

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こちらも「亀岡の名木 ムクノキ」です。高さは25㍍、幹周り6.36㍍もあります。

CIMG6419.jpgCIMG6421.jpgここを出て、「亀岡の名木 イヌマキ」を見ました。幹周り2.2㍍、樹高8㍍で、晩秋には熟した実は食べられるみたいです。

CIMG6422.jpgCIMG6423.jpgCIMG6424.jpgCIMG6425.jpg帰りに創建当時の姿、規模を確認しました。かなり広大な境内を有していたことが分かります。光秀の亀山城築城の際の礎石は、雑草が覆い茂っているので探すのは止めました。

帰りに西側の道路を確認すると、ありませんね。これでは西側から行けないはずです。今日はまだ亀岡市内を散策する予定で12時10分頃に、次へと向かいました。

【丹波国分寺跡】

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