明智光秀が丹波に侵攻 丸岡城(余部城)跡へ

丹波国分寺跡を出て、次も明智光秀ゆかりの城跡に向かいます。ここを12時10分頃に出ると亀岡市の中心部に向かいナビの誘導の元、目的地に12時17分に着きました。ただ、こちらには駐車場がなく、またコインパーキングもありません。仕方ないので、車にどちらかが残って見ていくことにしたんですが・・・?。

到着したのは、明智光秀の丹波亀山城が築城されるまで、亀岡市域なおける軍事拠点だった丸岡城(余部城)です

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現在は、浄土宗寺院の西岸寺が城跡に建っています。それで早速西岸寺に入ってみます。

CIMG6430.jpgここの周りは住宅街で、ここにかつて城があった面影はありません。あとで寺の方よりパンフを貰いましたが、そこには駐車場が書いてあったので最後に案内します。

この西岸寺の住所は、京都府亀岡市余部町古城(ふるしろ)で、かつてここにお城がありました。現在小高くなった丘の上には西岸寺があって周辺は住宅街となっています。地名は古城の他に、亀岡市余部町政所、亀岡市余部町古城浦などお城に関係する地名が残されているので、かつて広大な城域を誇っていたことを思わせます。丸岡城(余部城)の成立は古く応仁の乱まで遡り、この時、東軍の軍事拠点として登場します。亀山城は明智光秀が丹波に入った1577年(天正5年)頃に築城されたと考えられますが、この丸岡城(余部城)の築城時期は100年以上も前のことと言えます。戦国時代の天正年間(1573~1592)八上城(兵庫県丹波篠山市)の波多野氏が丹波をほぼ手中にし、その傘下の福井因幡守貞政が城主となり軍事拠点として使われました。1578年(天正6年)6月3日織田信長の命を受けて丹波に侵攻した明智光秀の軍勢は、宇津根・雑水川・安行山の三方から丸岡城(余部城)を攻め、余部城の福井与市・福井喜之助・中桐小左衛門ら50余人が本丸の門外で討死し、福井貞政も本丸にあった持仏堂にて自害し、300名の郎党は丸岡城(余部城)と運命を共にしました。そのあと、明智光秀は丹波・八上城も攻め落として、丹波を統一し、荒塚山に丹波・亀山城や福知山城の築城を開始します。

CIMG6431.jpgCIMG6432.jpg現在は、浄土宗寺院の西岸寺が城跡に建っているのは、丸岡城(余部城)落城後、戦死者の慰霊のため本丸跡に西岸寺が移され現在に至っているからです。

CIMG6444.jpgCIMG6433.jpgCIMG6435.jpgCIMG6437.jpgCIMG6440.jpgここに来るまで山門より中に入れるとは思って無かったです。門が開いていたので入りましたが、まだ半信半疑でした。

CIMG6436.jpg門が開いてて、お堂の中も入ってみました。玄関を開けるのは少々ドキドキしましたが・・・?。

呼鈴を押すと、奥から寺の方が出て来られて御朱印をお願いしました。住職さんが不在とのことで書き置きでしたが貰えてだけで良かったです。あと私には興味がありませんが「御城印」もありました。由緒書きを尋ねると、無料でいただきましたが西岸寺のことは殆ど書いて無かったですね。あと丸岡城(余部城)のパンフレットは100円で、こちらもいただきました。詳しいことは分かりませんが、1617年(元和3年)に現在地に移築。行方山 西岸寺 本尊は、阿弥陀如来です。私もそうですが、大河ドラマ「麒麟がくる」の影響で、訪れる方も増えたと言われていました。

CIMG6441.jpgCIMG6442.jpg帰りに「薬師堂」にも寄りました。少し時間をいただきましたが、友人と交代で車に戻りました

CIMG6446.jpgこの辺りに、丸岡城(余部城)の「大手門」があったそうです。かつての城跡の面影はまったくありませんが、小高い丘にある寺の辺りが本丸跡だそうです。

EPSON072a.jpg西岸寺さんでいただいた由緒に、ここの駐車場の地図があったので載せておきます。近くにコインパーキングもないのでね

JR亀岡駅から歩いて15分ぐらいで行けるので、当時のお城の面影を歩いて散策するのも有なかぁ・・・と、帰ってから思いました。友人と合流して12時30分頃に出て行き、次へと向かいました。

【丸岡城(余部城)】

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