細川ガラシア隠棲の地へ
竹野神社を9時25分に出て、次の目的地をナビに入れることはできません。電話番号も番地も無いからです。友人はアバウトに目的地を入力して、出発しました。府道656、482、654号線と山中をぐんぐん登って行きます。府道75号線から道幅が狭くなります。それに案内版も出てないので、私はスマホの地図で目的地と現在池を確認してました。ただ道々に「細川ガラシアゆかりの地」と幟がたっています。それが目印ですね。車は山深い中に入り登って行きます。とくに府道655号線(味土野大宮線)からは極端に道幅が狭いので、対向車とのすれ違いは不可能です。友人の運転技術を信じるだけですね、ガードレールも無いので少々怖いです。結果論ですが、行きで1台。帰りに1台すれ違いがありました。帰りは友人がバックしてすれ違ってましたね、あまりお勧めできる道じゃないです。
ご覧のように、これ以上は車で行けない所まで行くと、ゴールです。ゴール地点では道幅が広くなっているので、車は止められますが、駐車場は無いです。何台か車が来たら身動きできなくなるでしょう。
この幟が目印です。所々に立てられているので道は狭いけど安心して登って行けます。
ゴール地点まで登ってくると、道はすれ違いできる程度に広くなってます。友人は、ここで行きは1台とすれ違いました。
この日、出掛けたのはここに行くためでした。その目的地は「細川ガラシア隠棲の地」で9時57分に着きました。ここをNHK大河ドラマ「麒麟がくる」で紹介されるかどうか微妙だと思います。何故なら「本能寺の変」のあとの出来事だからです。
細川ガラシアこと、玉は1563年(永禄6年)越前国で、明智光秀と妻・煕子の間に三女として産まれました。(諸説あり) 16歳で織田信長の命により、父・明智光秀の盟友細川藤孝の長子忠興に輿入れ。1580年(天正8年)に細川親子の丹後入国に伴い宮津城に入ります(後に、丹後田辺城の城主・現舞鶴市)。そして2年後の1582年(天正10年)6月2日「本能寺の変」により、逆臣の娘として忠興から離縁され、光秀の死後、家臣は玉に自害を勧めましたがこれを聞き入れず、「味土野・女城」で2年あまり幽閉されます。後に、羽柴秀吉のとりなしで忠興と復縁し大坂玉造の細川屋敷に移り住みました。ここでキリスト教に入信して、カトリックの洗礼を受けドンナ・ガラシアの洗礼名を授かり、大坂へ移ったあとも丹後国主の妻として領地丹後におけるキリスト教の布教計画をしていたことでも知られています。1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」に先立ち、石田三成の人質になることを拒み、玉造の屋敷にて、家老の小笠原秀清を介錯し屋敷に火をつけ生涯を閉じました。享年38歳の夏のことでした。現在城址に遺構はありませんが、「細川忠興夫人隠棲地」と書かれた石碑があります。また谷を隔てた向かい側の尾根に警備する者が詰めた男城と呼ばれる出城があります。なお史料上では「味土野女城」「味土野城」といった名称は出てこず、現地でも「味土野の女城(めじろ)」と呼ばれています。
駐車場が無いので路上に止めます・・・と言っても、この先は車が入れないので、向きを変えて止めました。近くに地図があるので現在池を確認します。ずいぶん山中に入って来たんだなぁ・・・と。
中央の盛り上がったところの前で、看板があったので確認しました。左右から「女城跡」に行けるようです。
右からのコースは、斜面が崩れているので危ないと思い、左側から登りました。こちらは安全に登れます。
この辺りは民家も無いので、凄く辺鄙な寂しい所です。こんな所に2年か3年も幽閉されたみたいですね、ここに来て実感できました。
女城跡に入ると、中央に「細川忠興夫人隠棲地」と書かれた大きな石碑があります。
ここから案内によると「男城跡」へ徒歩20分と書いてありました。見た所、アップダウンがありそうで行けるのかなぁ・・・。
周りを見渡しても何も無いです。間違っても夕方には行かない方が良いでしょう、多分、真っ暗だと思います。離縁され家臣に自害を勧められても「私は忠興の妻、主人の命を聞かずして事を決することは婦道にそむくもの」と言って愁思のうちち2年もここで過ごしたんですね。
帰りは反対側から降りましたが、やっぱり滑りました。あの花壇が目印で、そこが「井戸」があった所です。ただパンフ入れにパンフが1枚も残って無かったのは残念です。
帰りに、ここの地図を見ました。男城から女城へハイキングコースになっているようです。私らは車で上がって来ましたが、お一人歩いて登られていました。
ここを10時10分頃に出発しました。前途したとおり、帰りに1台とすれ違いましたが、友人がバックして事なき得ました。あとは1台も出会わず下まで降りることができました。狭い山道を下るので祈る気持ちで乗ってましたね。それに頑張って登られている方も居ました。おそらく2時間以上はかかるでしょう。それほど辺鄙な所でした。
令和2年11月18日(水)放送されたNHK歴史ヒアヒストリー「戦国に生きた女性 細川ガラシャ 17通の手紙が伝える素顔」で、味土野の「ガラ夫人隠棲地」が紹介されました。やっぱり行ってみて実感できますね、こんな所に2年も幽閉されていたのか・・・と。ここに来て実感できたことは良かったです。次は宮津市内に入ります。
【細川ガラシア隠棲の地】
ご覧のように、これ以上は車で行けない所まで行くと、ゴールです。ゴール地点では道幅が広くなっているので、車は止められますが、駐車場は無いです。何台か車が来たら身動きできなくなるでしょう。
この幟が目印です。所々に立てられているので道は狭いけど安心して登って行けます。
ゴール地点まで登ってくると、道はすれ違いできる程度に広くなってます。友人は、ここで行きは1台とすれ違いました。
この日、出掛けたのはここに行くためでした。その目的地は「細川ガラシア隠棲の地」で9時57分に着きました。ここをNHK大河ドラマ「麒麟がくる」で紹介されるかどうか微妙だと思います。何故なら「本能寺の変」のあとの出来事だからです。
細川ガラシアこと、玉は1563年(永禄6年)越前国で、明智光秀と妻・煕子の間に三女として産まれました。(諸説あり) 16歳で織田信長の命により、父・明智光秀の盟友細川藤孝の長子忠興に輿入れ。1580年(天正8年)に細川親子の丹後入国に伴い宮津城に入ります(後に、丹後田辺城の城主・現舞鶴市)。そして2年後の1582年(天正10年)6月2日「本能寺の変」により、逆臣の娘として忠興から離縁され、光秀の死後、家臣は玉に自害を勧めましたがこれを聞き入れず、「味土野・女城」で2年あまり幽閉されます。後に、羽柴秀吉のとりなしで忠興と復縁し大坂玉造の細川屋敷に移り住みました。ここでキリスト教に入信して、カトリックの洗礼を受けドンナ・ガラシアの洗礼名を授かり、大坂へ移ったあとも丹後国主の妻として領地丹後におけるキリスト教の布教計画をしていたことでも知られています。1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」に先立ち、石田三成の人質になることを拒み、玉造の屋敷にて、家老の小笠原秀清を介錯し屋敷に火をつけ生涯を閉じました。享年38歳の夏のことでした。現在城址に遺構はありませんが、「細川忠興夫人隠棲地」と書かれた石碑があります。また谷を隔てた向かい側の尾根に警備する者が詰めた男城と呼ばれる出城があります。なお史料上では「味土野女城」「味土野城」といった名称は出てこず、現地でも「味土野の女城(めじろ)」と呼ばれています。
駐車場が無いので路上に止めます・・・と言っても、この先は車が入れないので、向きを変えて止めました。近くに地図があるので現在池を確認します。ずいぶん山中に入って来たんだなぁ・・・と。
中央の盛り上がったところの前で、看板があったので確認しました。左右から「女城跡」に行けるようです。
右からのコースは、斜面が崩れているので危ないと思い、左側から登りました。こちらは安全に登れます。
この辺りは民家も無いので、凄く辺鄙な寂しい所です。こんな所に2年か3年も幽閉されたみたいですね、ここに来て実感できました。
女城跡に入ると、中央に「細川忠興夫人隠棲地」と書かれた大きな石碑があります。
ここから案内によると「男城跡」へ徒歩20分と書いてありました。見た所、アップダウンがありそうで行けるのかなぁ・・・。
周りを見渡しても何も無いです。間違っても夕方には行かない方が良いでしょう、多分、真っ暗だと思います。離縁され家臣に自害を勧められても「私は忠興の妻、主人の命を聞かずして事を決することは婦道にそむくもの」と言って愁思のうちち2年もここで過ごしたんですね。
帰りは反対側から降りましたが、やっぱり滑りました。あの花壇が目印で、そこが「井戸」があった所です。ただパンフ入れにパンフが1枚も残って無かったのは残念です。
帰りに、ここの地図を見ました。男城から女城へハイキングコースになっているようです。私らは車で上がって来ましたが、お一人歩いて登られていました。
ここを10時10分頃に出発しました。前途したとおり、帰りに1台とすれ違いましたが、友人がバックして事なき得ました。あとは1台も出会わず下まで降りることができました。狭い山道を下るので祈る気持ちで乗ってましたね。それに頑張って登られている方も居ました。おそらく2時間以上はかかるでしょう。それほど辺鄙な所でした。
令和2年11月18日(水)放送されたNHK歴史ヒアヒストリー「戦国に生きた女性 細川ガラシャ 17通の手紙が伝える素顔」で、味土野の「ガラ夫人隠棲地」が紹介されました。やっぱり行ってみて実感できますね、こんな所に2年も幽閉されていたのか・・・と。ここに来て実感できたことは良かったです。次は宮津市内に入ります。
【細川ガラシア隠棲の地】
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