西国三十三ヵ所二十一番札所 天台宗 菩提山 穴太寺へ
丸岡城(余部城)跡を出て次に向かったのが西国三十三ヵ所二十一番札所 天台宗 菩提山 穴太寺です。ここは何度か来てるのでナビは不要です
。


12時37分に、江戸時代中期に再建された「仁王門」(京都府登録文化財)前で車を降りました。友人は車を駐車場に入れに行ったので、私は先に境内に入ります。

仁王門をくぐると、正面に「本堂」が見えています。境内には2組ほどの参拝者が来られていました。

友人が戻ってくるまで、先に「納経所」で御朱印をいただきました。2組が並ばれていたので少々時間がかかりましたね
。
御朱印は「西国三十三ヵ所草創1300年」の印入りです。散華もいただきました。



友人と合流して、2017年(平成29年)5月12日以来の庭園を見ようと思いましたが、冬場の平日は閉まってました。(理由は未確認ですが)でも、堂内は入れるようなので靴を脱いで上がります。
御本尊は、聖観世音菩薩ですが秘仏のため見られません。創建は705年(慶雲2年)第42代文武天皇の御世に大伴古磨によって創立されたと伝えられる丹波でも屈指の古刹です。

本堂内陣の右側には鎌倉時代の作とされる「木造釈迦涅槃像(なで仏)」が安置され布団が掛けられており、自分の体の病のある部分と同じ涅槃像の体の部分を触ると参拝者の病気がよくなると伝わります。

2人で堂内に入ってお参りしたあと、境内を散策します。友人に紹介しようと思っていた庭園を見せられないのは残念ですが亀岡は近いので、また来たいと思います。

仁王門を入って右手にある「鐘楼」は、 京都府登録文化財に指定されています。
その先にある「手水舎」です。龍の口から水がチョロチョロでていますが、柄杓は撤去されてるようです。
境内の東側に、茅葺きの建物が・・・?。2017年(平成29年)5月12日に来た時は、無かったように思います。ただ、何の建物かは不明です。
西側には「多宝塔」があって、1804年(文化元年)の再建です。京都府指定文化財となっており、庭園から見たら、この多宝塔が借景となっています。
多宝塔の隣には「観音堂」があって、西国三十三ヵ所各札所の観音が祀られているそうです。

先程の「納経所」の東側には「念仏堂」があって、1705年( 宝永2年)の建立。京都府登録文化財に指定されています。
念仏堂の南・・・境内の東側には「地蔵堂」があって内部には万体地蔵が安置されてるそうです。
そして、さらに南側には「宇治宮成の墓」が残っています。これには逸話があって、寺伝によれば・・・?。
御本尊の聖観世音菩薩像は、丹波国曽我部の悪評高い郡司宇治宮成(うじのみやなり)の邪心を改心させるため、妻が京都の仏師感世に造らせたものである。見事な観音様に仕上がったお礼として、宮成は自慢の白馬を与えるが、すぐに惜しくなって仏師の後を追い、老ノ坂あたりで仏師を弓で射殺してしまった。馬を連れて家に戻ると観音様の胸に矢が刺さり血を流しておられた。仏師の身代わりになられたれたのだ。観音様の霊験に触れた宮成は心を改め、僧になってお堂を建立すると、観音様が夢枕に立ち「穴太寺に行って薬師様と力を合わせて人々を助けたい」と告げられた。こんな縁で観音様は穴太寺に安置されるようになったという。



ここを出る前に、仁王門横にあった「鎮守堂(天満宮)」18世紀中期の建立で、菅原道真公を祀る、そして左に「鎮守堂(稲荷明神)」があって、1759年(宝暦9年)の建立です。

12時50分に穴太寺の仁王門から出て行きました。ここは西国三十三ヵ所の札所のため、参拝者は途切れないですね。
今日の計画では、ここから箕面に抜けて大阪府に入る予定でしたが、時計の針が13時前になっていたので大阪府には行きません。もう少し、ここ丹波地方をウロウロします
。
余談ですが、この穴太寺の西側を歩いて川を渡る先に小幡神社があって、さらに山の中に入って行くと「穴太寺城」があります。とくに明智光秀ゆかりの城ではないので行きませんでした。









御朱印は「西国三十三ヵ所草創1300年」の印入りです。散華もいただきました。




御本尊は、聖観世音菩薩ですが秘仏のため見られません。創建は705年(慶雲2年)第42代文武天皇の御世に大伴古磨によって創立されたと伝えられる丹波でも屈指の古刹です。














御本尊の聖観世音菩薩像は、丹波国曽我部の悪評高い郡司宇治宮成(うじのみやなり)の邪心を改心させるため、妻が京都の仏師感世に造らせたものである。見事な観音様に仕上がったお礼として、宮成は自慢の白馬を与えるが、すぐに惜しくなって仏師の後を追い、老ノ坂あたりで仏師を弓で射殺してしまった。馬を連れて家に戻ると観音様の胸に矢が刺さり血を流しておられた。仏師の身代わりになられたれたのだ。観音様の霊験に触れた宮成は心を改め、僧になってお堂を建立すると、観音様が夢枕に立ち「穴太寺に行って薬師様と力を合わせて人々を助けたい」と告げられた。こんな縁で観音様は穴太寺に安置されるようになったという。






今日の計画では、ここから箕面に抜けて大阪府に入る予定でしたが、時計の針が13時前になっていたので大阪府には行きません。もう少し、ここ丹波地方をウロウロします

余談ですが、この穴太寺の西側を歩いて川を渡る先に小幡神社があって、さらに山の中に入って行くと「穴太寺城」があります。とくに明智光秀ゆかりの城ではないので行きませんでした。
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