愛宕山西麓に位置する幽邃の地 柚子の里「水尾」にある清和天皇社へ
京都帝釋天を出て、京都府南丹市八木町神吉から京都市右京区嵯峨越畑に入ります。この辺りは「宕陰(とういん)」と呼ばれ、嵯峨越畑(こしはた)と嵯峨樒原(しきみがはら)と二つの大字で構成されてますが、ここからは京都市です。しかし、昔からの美しい棚田や茅葺き民家などで知られており、この風景を見ると心が和みます。その越畑を抜けると、山道に入って行きます。しばらく山道が続きますが、次に集落が見えてくのが京都市右京区嵯峨水尾で、ここは柚子の産地で有名です。その水尾地区にある、前から行って見ようと思っていた清和天皇社が次の目的地でした。
水尾地区は、このように道幅が大変狭いです。特に町内には駐車場はありませんが、少しばかりの空き地に友人が車を止め、ここから歩いて向かいます。
この水尾地区には「清和天皇御陵」がありますが、今日は行きません。ここから急な坂を登って清和天皇社に向かいますが、本当に急な坂道です。
車では絶対に通れない細い道を、ぐんぐん登って行きます。かなりの急斜面で、振り向けばここまで登ってきました。
ここまで来ると、やっと入口の鳥居が見えてきました。扁額は「清和天皇社」と書いてあります。天皇が祀られている神社は神宮なんですけど?。
第56代・清和天皇(850~880・平安時代前期)は第55代・文徳天皇(826~858)の第四皇子で、わずか9歳で即位した。27歳のときに、子の第57代・陽成天皇(9歳で即位・869~949)に譲位し、30歳で出家した後、仏道修行のため近畿各地をまわり、最後に水尾山寺に入った。 水尾は都からも近く、静かで清らかな地であったため、清和天皇はこの地を終焉の地にと考え、里人も感激して天皇のために新しい仏像を建てることとなったが、病気になり、粟田山荘にあった円覚寺で31歳で亡くなった。 遺骨は遺言により水尾山上に葬られ、現在の清和天皇水尾山陵となっている。 境内には水尾の最初の氏神と伝えられる四ヶ所の神を祀る四所神社が摂社として祀られている。 当社に伝わる神輿は、ある皇女が丹波国北桑田郡弓削村(現在の右京区京北)に害獣の猪や鹿を退治に行く途中、水尾村まで神輿で来て、村の御籠に乗り換えた際に、残された輿を神輿にしたものという。
このような山中の神社に誰も居ないだろう・・・と思いきや、前方に5名ぐらいま集団が見えました。誰かなぁ・・・と思いながら、こちらも急な石段を登ります。
ここまで登って来ると、前方の集団の姿が消えました・・・何処へ?・・・向かって左に行かれましたが・・・?。
何だか変な本殿だなぁ・・・と、遠くから見てました。しかし、近づくと分かりました。それは・・・?。
覆屋の中に「本殿」があって、ここに第56代・清和天皇と、ご生母の染殿皇后(藤原明子)が崇拝されていた四所大神(建御賀豆智命・伊波比主命・天之子八根命・ 比賣大神)を合祀し祀っています。
石段上から、下の鳥居を見ています。かなりの急斜面だと分かるでしょう。本殿のお参りあと、周りにある末社を見ています。
こちらの末社は「上神社」「蛭子社」「山神社」「八幡社」と書かれてました。そして、さらに奥へ進みます。
怖くて危ない石橋を渡って、次の末社へ行きました。名札には「大神宮」「春日社」「大國社」「十羅社」「神明社」と書かれてましたね。
最も奥にあったのが、末社「稲荷社」でした。名札はありませんでしたが、朱塗りの鳥居と、狛狐で分かりました。
再び本殿前に戻って、ここに来た時に居た集団の行方を捜してみました。ただ本殿の反対側には道がありません。その謎は次の訪問地で分かりました・・・?。
石段を降りてきて、再び鳥居まで戻って来ました。ここで人一人が通れるぐらいの細い通路があったので、この先に行ってみます。
事前に調べてて、こちらに寺院があるのは知ってました。ただ行き方が分からなかっただけです。多分、その先には寺院があるのでしょう。
【清和天皇社】
水尾地区は、このように道幅が大変狭いです。特に町内には駐車場はありませんが、少しばかりの空き地に友人が車を止め、ここから歩いて向かいます。
この水尾地区には「清和天皇御陵」がありますが、今日は行きません。ここから急な坂を登って清和天皇社に向かいますが、本当に急な坂道です。
車では絶対に通れない細い道を、ぐんぐん登って行きます。かなりの急斜面で、振り向けばここまで登ってきました。
ここまで来ると、やっと入口の鳥居が見えてきました。扁額は「清和天皇社」と書いてあります。天皇が祀られている神社は神宮なんですけど?。
第56代・清和天皇(850~880・平安時代前期)は第55代・文徳天皇(826~858)の第四皇子で、わずか9歳で即位した。27歳のときに、子の第57代・陽成天皇(9歳で即位・869~949)に譲位し、30歳で出家した後、仏道修行のため近畿各地をまわり、最後に水尾山寺に入った。 水尾は都からも近く、静かで清らかな地であったため、清和天皇はこの地を終焉の地にと考え、里人も感激して天皇のために新しい仏像を建てることとなったが、病気になり、粟田山荘にあった円覚寺で31歳で亡くなった。 遺骨は遺言により水尾山上に葬られ、現在の清和天皇水尾山陵となっている。 境内には水尾の最初の氏神と伝えられる四ヶ所の神を祀る四所神社が摂社として祀られている。 当社に伝わる神輿は、ある皇女が丹波国北桑田郡弓削村(現在の右京区京北)に害獣の猪や鹿を退治に行く途中、水尾村まで神輿で来て、村の御籠に乗り換えた際に、残された輿を神輿にしたものという。
このような山中の神社に誰も居ないだろう・・・と思いきや、前方に5名ぐらいま集団が見えました。誰かなぁ・・・と思いながら、こちらも急な石段を登ります。
ここまで登って来ると、前方の集団の姿が消えました・・・何処へ?・・・向かって左に行かれましたが・・・?。
何だか変な本殿だなぁ・・・と、遠くから見てました。しかし、近づくと分かりました。それは・・・?。
覆屋の中に「本殿」があって、ここに第56代・清和天皇と、ご生母の染殿皇后(藤原明子)が崇拝されていた四所大神(建御賀豆智命・伊波比主命・天之子八根命・ 比賣大神)を合祀し祀っています。
石段上から、下の鳥居を見ています。かなりの急斜面だと分かるでしょう。本殿のお参りあと、周りにある末社を見ています。
こちらの末社は「上神社」「蛭子社」「山神社」「八幡社」と書かれてました。そして、さらに奥へ進みます。
怖くて危ない石橋を渡って、次の末社へ行きました。名札には「大神宮」「春日社」「大國社」「十羅社」「神明社」と書かれてましたね。
最も奥にあったのが、末社「稲荷社」でした。名札はありませんでしたが、朱塗りの鳥居と、狛狐で分かりました。
再び本殿前に戻って、ここに来た時に居た集団の行方を捜してみました。ただ本殿の反対側には道がありません。その謎は次の訪問地で分かりました・・・?。
石段を降りてきて、再び鳥居まで戻って来ました。ここで人一人が通れるぐらいの細い通路があったので、この先に行ってみます。
事前に調べてて、こちらに寺院があるのは知ってました。ただ行き方が分からなかっただけです。多分、その先には寺院があるのでしょう。
【清和天皇社】
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