平安時代には水尾山寺のあった地に建つ 円覚寺へ
清和天皇社の鳥居から、細い通路を抜けると京都市立水尾小学校の校庭に出ました。驚いたことに車も止まってましたね、ここまで車で来られるみたいですけど、あくまで校庭内です。許可は必要でしょう。
この校庭内に、粟田山と号する浄土宗の寺院「円覚寺」がありました。
円覚寺の全景です。今日は12月23日の15時5分頃・・・小学校の終業式は24日だと思うので、児童は居ないように思えました。
向こう正面に見えているのが、小学校の校門だと思います。それにしても校庭でしょうか、荒れてますね。
本堂の前には清和天皇のの第六皇子である貞純親王(さだずみしんのう)の「供養塔」と伝えられるものがありました。
水尾 円覚寺は、平安時代には水尾山寺のあった地にあります。浄土宗の寺院で、山号は粟田山。本尊は薬師如来座像で、50年に1度御開帳される秘仏です。もとは鴨川の東にあった粟田山荘(現在の平安神宮あたり)内にあり、しばらく清和上皇が住み、亡くなった寺です。清和天皇は譲位後の880年(元慶4年)3月、水尾山寺に入寺、終焉の地と定め仏堂の造営に着手したが、ほどなく病のため洛東粟田の円覚寺へ移り、同年12月4日同寺にて崩御。円覚寺は室町時代の1420年(応永27年)に焼失し、天皇と因縁のある水尾山寺に移され、寺号を併称するうち、円覚寺の名のみが残りました。円覚寺六斎念仏(重要無形民俗文化財)が今も伝わり、毎年、8月14日、16日と地蔵盆に、円覚寺六斎念仏講保存会が六斎念仏を奉納しています。
朱印帳を持参して来ましたが、期待してなかったので玄関のベルは押しませんでした。見た所、多分留守でしょうね。
ここから清和天皇社の鳥居に戻り、急な坂道を下って行き、車に15時10分頃に戻りました。あと水尾地区で残っているのは、清和天皇 水尾山陵ですね、山道を約300㍍ほど登るみたいですけど、いつかは行ってみたいと思っています。今日は、これで帰りました。
【水尾 円覚寺】
この校庭内に、粟田山と号する浄土宗の寺院「円覚寺」がありました。
円覚寺の全景です。今日は12月23日の15時5分頃・・・小学校の終業式は24日だと思うので、児童は居ないように思えました。
向こう正面に見えているのが、小学校の校門だと思います。それにしても校庭でしょうか、荒れてますね。
本堂の前には清和天皇のの第六皇子である貞純親王(さだずみしんのう)の「供養塔」と伝えられるものがありました。
水尾 円覚寺は、平安時代には水尾山寺のあった地にあります。浄土宗の寺院で、山号は粟田山。本尊は薬師如来座像で、50年に1度御開帳される秘仏です。もとは鴨川の東にあった粟田山荘(現在の平安神宮あたり)内にあり、しばらく清和上皇が住み、亡くなった寺です。清和天皇は譲位後の880年(元慶4年)3月、水尾山寺に入寺、終焉の地と定め仏堂の造営に着手したが、ほどなく病のため洛東粟田の円覚寺へ移り、同年12月4日同寺にて崩御。円覚寺は室町時代の1420年(応永27年)に焼失し、天皇と因縁のある水尾山寺に移され、寺号を併称するうち、円覚寺の名のみが残りました。円覚寺六斎念仏(重要無形民俗文化財)が今も伝わり、毎年、8月14日、16日と地蔵盆に、円覚寺六斎念仏講保存会が六斎念仏を奉納しています。
朱印帳を持参して来ましたが、期待してなかったので玄関のベルは押しませんでした。見た所、多分留守でしょうね。
ここから清和天皇社の鳥居に戻り、急な坂道を下って行き、車に15時10分頃に戻りました。あと水尾地区で残っているのは、清和天皇 水尾山陵ですね、山道を約300㍍ほど登るみたいですけど、いつかは行ってみたいと思っています。今日は、これで帰りました。
【水尾 円覚寺】
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